帰路
「夕飯ぐらい、食べても良いんじゃないの」
何度目かの提案に、教授は気のない生返事をした。外套を着込み帽子で鰓をすっぽりと隠した姿を見る限り、悠長に姪を夕食に誘う気は無いのだろう。
例年、家族の別れは淡白だ。今日のようにアキラが学校にいる間にジオードへと戻ることも多い。それでも今回ばかりは、もっと話し合う必要があるのではないか。
昨日の出来事以来、教授は心ここに在らずという風体だ。アキラの様子を見る限り迷宮科の少女との話はついたようだが、今に至るまで引き摺っているのを見るに本人は納得していないのではないか。
本当にいいの。
そう尋ねようとした瞬間、教授は鞄を抱える。
「出るぞ」
「待って教授。そろそろアキラが帰ってくるでしょ。帰りの挨拶くらい」
「だから出るんだ」
自身も鞄を手に玄関へと向かうシノブを追いかける。既に部屋から出ていた教授に促され、アガタは退出する。
鍵をかける音が響く。
階段を降りて大家の部屋の前に至ると、シノブが鞄を差し出した。
「少し待っていてくれ。挨拶をする」
「わかった」
水路に面した集合住宅の昇降口で教授を待つ。微かに開いた扉の向こうで、アガタも滅多に聞いたことのない教授の穏やかな声が聞こえてきた。
一昨日だったか。教授の言葉を思い返して、扉から目を逸らす。詮索を謝罪したのは他でもない自分自身だ。
金具が軋む。部屋から出てきた教授の表情は、別段変わったところは無かった。先日のような陰りがないことに安堵して、アガタは教授の鞄を持ったまま先立つ。
「もう行くんでしょ」
見下ろした教授と視線が交わることはなかった。通りの彼方を見つめるシノブにつられて、アガタもまた煉瓦敷きの先に目を向ける。
人影が二つ、斜陽の道を駆ける。
「良かった、まだいた」
一足先に教授の元にたどり着いたのは、その姪だった。息を切らす様子もなく、伯母の前に立ち尽くす。
その後から、迷宮科の少女が追いかけてくる。
「こ、こんにちは……」
息も絶え絶えな様子で少女は挨拶をする。
「大丈夫?」
一先ずアガタは二人を労う。
汗を流しながら少女は会釈を返し、手に持った包みを差し出した。
「あの、今日帰ってしまわれると聞いて……炉のお礼です」
小さな手には収まりきらない包みを、シノブに代わって受け取る。包みは二つあった。
「アガタさんにも」
「あら、ほんと?ありがとうリシアちゃん」
ありがたく受け取る。了承を取って、包みを解いた。
花の泳ぐ硝子瓶が現れる。
一瞬の後、反射した光で花弁は見えなくなった。斜陽に瓶を照らして、アガタははしゃぐ。
「すっごく綺麗!お薬かしら?」
「少し香る置物……です」
「本当、薄荷の香りがする」
その隣で教授もまた、包みを解いて瓶を取り出した。助手と同様に瓶を見つめる。
「モウセンゴケ」
シノブがぽつりと呟いた。聞きそびれた言葉を確認する間もなく、教授は一歩、二人の少女に近づく。
「……ありがとう」
最初の言葉は素直な礼だった。女学生は頬を染め、頭を下げる。
「見送りかな」
「はい。お二人にはお世話になったので」
微かに女学生は唇を薄く噛んだ。
澄んだ目が、シノブを見つめる。
「昨日のこと、絶対に忘れません」
強い意志を秘めた言葉だった。これまでに見てきた少女の言動からは想像もつかない姿に、アガタは感心する。
他方、向かい合った教授は目を伏せた。数拍の沈黙の後、一言一言確かめるように告げた。
「貴方の不安は私の不安でもある、と、言ったな」
目の前の少女とそう変わりはしない幼さの横顔に、ふと年相応のものが滲む。
「それが本心からの言葉なら、何も言うことはない」
少女の唇が引き結ばれる。次に開いた時、確かな返事が響いた。
「はい」
瓶を包み直し、教授はアガタに差し出す。鞄を開けて贈り物を納めていると、もう一人の少女が一歩前へ出た。
「おばちゃん」
一声伯母を呼び、姪は立ち尽くす。
「胸を張って言えるようにする。覚悟も目的も」
シノブの夜色の目が瞬く。
続いて、大きな溜息をついた。
「とにかく、二人とも無事でいてくれればいい」
伯母は手を伸ばす。
そうして、姪の頭をぐしゃぐしゃにかき乱した。
客馬車に乗り込む。薄暗い車室の中、妙齢の婦人と厳しい冒険者の間に何とか席を見つけて収まった。出入口側に陣取る弩を携えた冒険者が、外を確認して馭者に声をかけた。
「時間だ」
出入口が帳で閉ざされる。鞭の音が響き、車輪が重く動き出した。
「アキラ達が帰ってくるの、見計ってたの?」
何でもないような風を装って囁くと、隣の教授は身動いだ。当たり、なのだろう。
続けて話しかける。
「私、反対すると思ってたの」
「反対したよ」
「でも、折れたじゃない」
シノブは腕を組む。帽子の影から憮然とした表情が覗いた。
「そうだ。折れたんだ」
一際大きく車室が揺れる。
「覚悟するということは、成長か?」
不意に問われた。暫し考え込む。
「成長じゃないかしら」
「そうか」
「今回の出来事も、一端なのだと思う」
教授は向かいの車窓を見つめる。
瞳と同じ色の夜が、帳を下ろしつつあった。
「何を考えているかもわからない小娘だったが、ちゃんと成長しているんだな」
大人になっていくのか。
呟くシノブの肩から、僅かに力が抜けていった。小さな老人の横顔を見つめ、アガタは外套を脱ぐ。
「夜は冷えるわ」
「お前はいいのか」
「いいのよ。ご自愛なさって」
ふん、と鼻を鳴らす。
「年寄扱いか」
全く持ってその通りなのだが、アガタは微笑みを浮かべるだけに留めた。外套を突っ返すこともせず、大人しくシノブは布団のように肩にかける。
外套の隙間から呟きが漏れた。
「私はいつまでも、大人のなり損ないだ」
帽子の庇を引き下げ、顔を覆い隠す。
紅い外鰓が薄闇に映えた。




