兆し
重い扉が閉まると、朝の陽気から世界が隔絶する。静謐な館内を見回して、リシアは見慣れた姿を探した。
前回の経験から、朝礼の無い日は此処にいる事がわかっている。高椅子に腰掛けた司書に会釈をすると、どこか不機嫌そうな顔で目配せをした。
視線の先には、本を読み耽る後ろ姿があった。頁をめくる音が微かに聞こえる。覚悟を決めて、以前と同じく積み上げられた統一性のない書物の陰に声をかけた。
「おはようございます」
思ったよりも大きな声が出て、思わず司書に視線を向ける。幸い、冷たく一瞥されただけで済んだ。
講師が本を閉じる。
「おはよう」
淡々とした声で挨拶を返される。その声に底に冷たいものを感じて、リシアは背筋を伸ばした。
朝のひと時を邪魔したことに不満を感じているわけではないはずだ。
「あの、お邪魔してすみません。どうしても話したいことがあって」
首を垂れる。
視線の先に杖があった。
「話したいこととは」
そう口走って、暫し講師は沈黙する。
「前回の進捗か」
リシアは頷いた。
以前、言えなかったことがある。
微かに息をつく音がした。杖を取り、講師は積み上げていた本を何冊か小脇に抱える。
「場所を変えよう」
義足を僅かに重く動かしながら本棚へと向かう。慌ててリシアは声をかけた。
「手伝います」
卓上の本を何冊か抱え、隣に立つ。
「そちらの本も」
顔を見上げる。灰色の目がリシアの抱える本を一瞥した。
「……持っている分を頼む」
そう告げて、講師は書架の奥に消えていった。慌てて指示された通りに書架をめぐる。
多種多様な区分の本を戻して、再び閲覧用の机に戻る。既に本は残っていなかった。
杖をつく音が響く。
「ありがとう」
書架の間から講師が現れた。礼に面食らい、言葉を探す。
「い、いえ」
「助かった」
講師は図書館の出口へと足を向ける。重厚な扉の前で司書に向かって目礼をした。司書は憮然とした顔のまま会釈をする。その口が、不意に開いた。
「今は、誰もいません」
そうして手元の本を取る。呆気に取られるリシアの隣で、講師が再び司書に会釈をした。
「かまわないか」
問われる。小さく頷くと、講師は窓際の書見台を示した。扉の前に佇むよりは、話しやすいということだろう。
型板硝子越しのぼやけた新緑に目を向ける。息をついて、講師に向き直った。
「答えを出しに来ました」
隻眼の元冒険者は黙している。渇いた喉からか細く声を絞り出す。
「もう、一人ではありません」
僅かに杖の先が動く。
「班員が増えたという意味か」
「はい。一緒に迷宮へ、肩を並べて向かう人が出来ました」
「誰だ」
「今までもお世話になった人です」
背中を預けてきた少女の名と所属を告げる。
講師の灰色の目が細まった。
「……普通科の生徒と迷宮に入る気か」
「はい」
次の言葉にリシアは身構える。しかし、リシアの恐れとは裏腹に講師は即座に返答はしなかった。
「禁じられているのは、一人で迷宮に入ることだけです」
激昂を覚悟でリシアは追い討ちをかける。
「私はアキラと一緒に、迷宮へ行きます。助けて、助けられて、一番信頼出来る人だから」
頭を下げる。
緞帳の裏に立つように。
「覚悟は出来ています」
磨き抜かれた床に映る影は微動だにしない。
自身の吐息と鼓動だけが耳につく。滲むような時間の果てに、講師が言った。
「手帳のことは覚えているか」
顔を上げる。先程と寸分違わぬ表情の講師に向き直り、頷いた。
「はい」
「人生を預かる。そういうことだ」
「迷宮の中での全てに責任を持ちます。だから、絶対に……」
手が震える。
喘ぐような言葉にしかならない。講師にはリシアの決意の欠片も伝わっていないように思えた。
覚悟を示したい。そのためには、これ以上、何を伝えれば良いのだろうか。
焦りが無為に時を経過させる。闇雲に言葉をぶつけようとした。
「いくつか質問をさせてくれ」
リシアの言葉を切るように、静かに講師は告げた。喉まで出かかった言葉を飲む。
「これまで、人生を賭けるような覚悟をしたことはあるか」
音が退いた。
「……はい」
今、どんな顔をしているのだろうか。掠れた硝子にはリシアの姿は映らない。女生徒の答えを聞き届けて、講師は次の問いを告げた。
「今の覚悟は、その時の覚悟と同等か。同じように責任を持てるか」
歌を諦めて、冒険者になると決めた時のように。
そんなの、決まっている。
「はい」
真っ直ぐに講師の目を見据えた。全身全霊の返答が、書架の間に響く。
声が染み入るように消えて、講師は最後の質問をする。
「相手も、同じだけの覚悟を持っているのか」
昨日のやり取りが蘇った。続いてアキラの顔。あの夜色の瞳は、きっと。
「私もアキラも、同じ覚悟と責任を持っています」
図書館が静謐を取り戻した。
口を閉ざし、講師を見上げたまま立ち尽くす。
一方の講師は、考えるようなそぶりを見せることもなく黙している。隻眼からは何も窺い知ることができなかった。
足元で杖がこつりと音を立てる。
「心意気はわかった」
義足が重く歩み寄る。
「学則に無い以上、その意見と決意を否定することは、今は出来ない」
激昂しているわけではない。苛立っているわけでもない。
ただ淡々と、講師は告げる。
「……歌への信念、それ以上の覚悟と責任を持ちなさい。その結果を評価しよう」
その言葉の意味が、一瞬飲み込めなかった。
混乱するリシアの横を通り、講師は高椅子の側へ向かう。
「ご迷惑をおかけしました」
司書へ向けた小さな謝罪が背後で響く。振り向くと、扉の把手に手をかけたまま講師は此方を見ていた。
「そろそろ始業だ」
何かが爆ぜたように我にかえった。司書に深々と礼をする。続いて、講師にも。
「ありがとうございます」
頭を低く下げるリシアに声をかけることもなく講師は扉を開け放した。
風がそよぐ。
高椅子の側を通ると、司書が先程と変わらぬ不機嫌そうな表情で再び会釈をした。もしかしたら、今まで腹を立てていると思ってばかりいたが、もともとそういう表情なのかもしれない。ともあれ、リシアもまた会釈をして登苑する生徒の声が響く外界に踏み出す。
扉が静かに閉まる。
講師の大きな歩幅が緩慢にリシアを追い越した。
その姿を見て、ふと、思い当たる。
何故、「歌」のことを知っていたのか。
講師の後ろ姿に問いかけようとして、やめる。黙したまま、リシアは迷宮科棟へと向かう講師の後を追った。




