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無関心

 ご機嫌よう、と誰かが挨拶を交わした。普通科棟の昇降口へと消えていく人影を硝子越しに眺める。ごくありふれた朝の賑やかなひと時を、少女はただ立ち尽くして過ごしていた。


「おはよう」


 かけられた声に振り向いて、優雅な辞儀を返す。室内用の箒と塵取りを手にした老人は、少女のよく見知った人物だった。


「おはようございます、デマントイド卿」

「随分と久しく思えるよ」

「ええ、本当に」


 令嬢然とした仕草で微笑む少女を見て笑みを浮かべたのち、老人は心配げに問いかけた。


「具合はどうかな。昨日のことは学長から聞いている」

「お気遣いなく。少し……驚きはしましたけど」


 微笑みを崩さない少女とは裏腹に、老人は眉を潜める。


「この学苑であんなことが起きるなんて」

「デマントイド卿が気に病むことはありません」


 ごく穏やかに告げる。


「もう、済んだことなのですから」


 制服の裾を翻し、一礼する。


「それでは、ご機嫌よう」


 老人もまた会釈をして、掃除用具を手に去って行く。その背中を見届けて少女は踵を返した。


「マイカ」


 ごく近くで、よく知った声が少女の名を呼ぶ。周囲を見渡す少女の目が、廊下の先で小さく手を振る貴公子の姿を捉えた。


「ご機嫌よう、シラー班長」

「ご機嫌、か。何だかこそばゆい挨拶だね」


 歩み寄ってきた貴公子は薄く笑う。その一方で、蒼い目が冷ややかに少女を見下ろしていた。


「……もう少し気落ちしているかと」

「気落ち?」


 小首を傾げ、思い当たったのか胸に手を添える。


「ああ。確かに怖い目には遭いましたが、もう平気です」

「気丈だね」


 貴公子は声を潜めた。


 間合いを詰める。


「……彼のことが、随分と気に食わなかったようだ。聖女にも嫌いな人間がいるなんて、思いもしなかったよ」


 その発言を聞いて、少女はきょとんとしたような表情になる。


「嫌い?」


 細い指が花弁のような唇に触れた。わざとらしくも思える仕草が、不思議と彼女には似合っていた。


「嫌いだなんて、思ってはいません。だって、もう二度と会うこともない方ですから」


 忘れていくだけです。


 そう告げる少女に何か言おうとして、シラーは口を噤む。


 講師を一人辞めさせることぐらい、造作もない少女だ。何がきっかけで自身が毒牙にかかるかもわからない。


 そんなシラーの胸の内を見抜いたのか、少女は気を紛らわせるように大袈裟な身振りをした。


「弁解するようですが、私、嫌われることはあっても誰かを嫌いになることは滅多にないんです」


 両手の指を合わせ、目を伏せる。


「一人だけです。嫌いな人は」


 蜂蜜色の髪が僅かに影を落とした。


 指で髪を掬い、頬から除ける。


「シラー班長のことは、尊敬していますよ」


 白々しい言葉だ、とは言えなかった。


 少女の微笑みと瞳の輝きが、不気味に思えたからだ。


 本心からの言葉なのか、罪悪感など無いのか。いずれにせよ、目の前に佇む後輩を見てシラーは居心地の悪さを覚えた。


「はは、嬉しい言葉だ」


 当たり障りのない返事を聞いて、少女は安堵したようだ。再び両手の指を絡め、前掛けの上で遊ばせる。


「……そうです。一つ、お聞きしても?」


 不意に問われた。少女の動きが一瞬止まり、視線が貴公子を射抜く。一挙一同を見据えられていることに気付いて、シラーは表情を固くする。


「何かな」

「これからも、リシアとアキラさんをお誘いするのでしょうか」


 前掛けの襞を確かめるように指が蠢く。


 試されている。


 そう直感して、シラーは答えあぐねた。目の前の少女はいつもの可愛らしく小首を傾げるような仕草すらせず、ただ立ち尽くしている。


 沈黙が続けば、聖女の皮を被った何かに喉を食いちぎられる。そんな想像が脳裏をよぎって、シラーは焦るように回答した。


「ああ」


 少女の目に得体の知れない光が宿る。


「ただ、まだ二人とも未熟だ。これからも僕らの……君の補助が必要だろう」

「補助、ですか」

「共に活動するのなら、第六班が彼女達の安全に責任を持つべきだと考えているよ。傷つけたくはないのは、僕も同じだ」


 支えてあげよう。


 そう告げるシラーを写して、妖しい瞳が瞬く。


「はい」


 聖女は満面の笑みを浮かべた。


 いつもと同じ笑顔を見て、貴公子は安堵する。そして数歩身を引いた。


「そろそろ、教室に向かうよ」

「もうそんな時間ですか」


 小物入れから懐中時計を取り出して僅かに眉をひそめた少女に、シラーはつい、質問をする。


「何か、用があったのかな」


 その問いに、少女は困ったような顔をした。


「はい。お話をしたい方がいたんですけど……何処にいるのかがわからなくて」

「それで、此処に」

「はい。戻ってきた時にでも話せるかと。でも」


 溜息をつく。


「これ以上は待てませんね」


 諦めがついたのだろうか。少女は踵を返す。


 そうして貴公子の姿を見返り、囁いた。


「途中までご一緒しませんか、班長」


 断るのも考えものだった。促されるままに聖女の隣につく。


 今までとは違った目で、シラーは少女の横顔を見下ろした。紅い唇、光に透ける睫毛。


 思ったよりも、手強い後輩だ。


 だから今は大人しく、少女の機嫌を損なわないように傍に寄り添う。


 始業の鐘が鳴る前に、二人は職員室前から立ち去った。

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