理由(1)
どこか騒がしい職員室を覗く。
放課後に職員会議が行われることは珍しいことでは無い。ただ、今日のそれは急に議題が決まったようだ。殺気立ちながらで右往左往する学苑主任は、声をかけるのも憚られる姿だった。
一先ず見渡してみても、まだ迷宮学の講師の姿は無い。微かな不安を覚えつつ、リシアは静かに身を引いた。
講師に全てを説明するのは明日になる。一つ行動の順番が入れ替わっただけだ。不安を押し殺して、足早に中庭へ向かう。
途中、学生の一団とすれ違った。何やら神妙な顔で語らう彼らに耳をそば立てても、詳しい事情はわからなかった。
そんな囁き声がそこかしこで交わされる中、リシアは待ち人の姿を見つける。
「アキラ」
赤いジャージの少女の名を呼ぶと、ひらりと片手が挙がった。もう片方の手には焼き菓子の包紙が収まっていた。赤いジャージのいつもの姿に戻っても、彼女への贈り物は別段数を減らしたわけではないらしい。
「ごめん、待たせた」
「大丈夫」
包紙の中に残った菓子を一口で飲み込む。くしゃりと紙を握り込み、行こう、とアキラは声をかけた。リシアがそれに答えると、彼女もまた頷いた。
二人並んで制服通りを歩く。隣のアキラの様子を伺う余裕も無く、リシアはひたすらシノブへの言葉を脳内で復唱していた。嫌な汗が滲む喉を拭う。
まず確実に、シノブはアキラを迷宮へ連れて行くことに難色を示すだろう。
正直なところ、シノブの言葉に「反論」を出来るとは思えなかった。論議で彼女には勝てない。なら、彼女の心を動かすにはどうすれば良いのだろうか。
「おばちゃんは」
唐突にアキラが口を開いた。思わず女生徒の顔を見上げる。
「簡潔な方が好き」
「や、やっぱり?」
「でも、話はちゃんと最後まで聞く」
夜色の瞳が背の低い少女の顔を映した。
「リシアの言葉でいい。それが一番届くはずだから」
そう告げて、ふいと目を逸らした。
リシアの言葉はいつだって辿々しい。それでも、伝えなければならないことがある。
知らず知らずのうちに、溜息が一つ溢れた。
「……昔はもっと、色んなことを素直に伝えられたのに」
弱音だ。
自分の溢した言葉の意味を今更ながら悟って、リシアは口を噤む。
しかしアキラは聞き逃してはいなかった。
「むかし?」
何でもない、と突き放そうとして、「何か」が宥めるように言葉を飲み込ませた。
再び口を開く。
「迷宮科に入る前は、声楽をしていたの」
こんなことを告げるのは初めてかもしれない。
アキラだけに聞こえるように密やかに話す。
幼い万能感があった、ほんの少し昔の話。
「その時の方が今よりももっと、度胸もあって、自分の思いも簡単に表現出来ていた。そんな風に思うの」
職員室もシノブの眼前も、壇上よりずっと恐ろしい場所だ。身が竦んで声が上擦ってしまう。
あの大晶洞でも、そんなことは無かったのに。
「そう、かな」
僅かな間黙したのち、アキラは呟く。
「ナグルファルさんを庇ったときのリシアはすごく、堂々として見えたよ」
赤ジャージは立ち止まる。つられてリシアも足を止めた。
「あ、あの時は……衛兵が言ってること、絶対におかしいと思ってたし」
「私が怪我した時も、すぐに帰ろうって言ってくれた」
「それもアキラが心配で、怖くて」
「ちゃんと、言えるんだよ。自信を持ってほしい」
その言葉が、令嬢のものと重なった。
立ち止まったまま、リシアは長い時間をかけて頷く。その姿を見届けてアキラは再び歩き出した。
「ありがとう」
先程の応酬で、僅かながら張り詰めた神経が解けた。感謝の言葉を告げると、アキラはどこか不可思議げな顔をした。
二人は水鳥通りに入る。
水路沿いの集合住宅の一画で紫煙が微かに立ち上っていた。
紅い外鰓をそよがせ、細身の葉巻を手にしたドレイクが此方を向く。
炉を携えて訪れた時と、ほぼ同じ光景だった。外にいる理由もその時と同じなのだろう。
「また会ったな」
そう告げて、シノブは軽く会釈をした。慌ててリシアも頭を下げる。僅かに足を早めて教授の前に立つと、自然と口が開いた。
「あの、急に申し訳ありません。どうしても話したいことがあって」
息をつく。早口が途切れて、妙な間が生まれた。
紫煙を燻らせたまま、シノブはリシアを見つめている。その口元がゆっくりと開いた。
「察しはついている」
唇が葉巻を咥えた。
「迷宮の話だろう」
「は、はい」
溜息混じりの煙が漂った。暫し目を伏せ、シノブは静かに告げる。
「私が言えたことではないかもしれないが……いや、それでも言わなきゃならないことだな」
姪と同じ夜色の瞳がリシアを映した。
「大手を振って迷宮に送り出すことは出来ない」
当然だろう。
もう一度、シノブは葉巻を咥える。
想像通りの言葉だった。だからこそ、黙したままシノブの言葉に耳を傾ける。
「君と姪は違う。何もかもが違う。立場も、目的も」
夜色の瞳に、もう一人の女学生の姿が映った。
「お前にも言っているんだぞ。アキラ」
アキラの顔を見上げる。
隣の少女は微かに表情を変えた。そして表情以上に、指先に彼女の感情が発露した。
震えた指先を静かに少女は握り込む。




