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些末

 普通科棟の教室に彼女の姿は無かった。


 教室に残るジャージ姿の生徒達の視線から逃げるように、数学講師は踵を返す。


 食堂か。


 普段一緒に行動している、講師が学苑に来て一番最初に名前を覚えた重要人物の女生徒も姿が無い。彼女と昼食に相伴しているのだろうか。


 あるいは、それ以外の誰か……管理人や迷宮科の生徒と共にいるのだろうか。


 迷宮科の生徒はともかく、令嬢や管理人と鉢合わせるのは避けたい。どちらも数学講師の首など幾らでも切ることが出来る人間だ。特に管理人に対しては、つい最近無礼を働いてしまったという負い目もある。


 渡り廊下の真ん中で考え込む。学苑裏の方へ行けば管理人の小屋が、苑庭へ向かえば食堂が近い。そして渡り廊下の向こうは、出向くのも気が滅入る迷宮科だ。


 考えた末、今日は大人しく迷宮科棟に戻ることにした。普通科棟にも職員室はあるが、講師の居場所はない。


 いや、そもそも講師がいるべき場所ではないのだ。

 頭を振る。脳裏を過ったのは、昨日の夜更けに出会った二人組の姿だった。あの同輩は上手くやったのだろう。自分だって、機会さえあれば。


 機会。


 彼女を通じて、あの伯母と繋がることは出来るだろうか。


 講師自身は見覚えの無い碩学だったが、同輩は教授と呼んでいた。ならば、それなりに口聞きも出来るかもしれない。


 ともあれまずは、アキラに近づかなければ。


 思いつきを胸に歩む講師の隣を、颯爽と二人組が通る。


「こんにちは」


 端正な顔立ちの男子生徒が会釈をした。その姿に気圧され、講師も頭を下げる。


「返事は貰えるかな」


 囁き声に身が冷えた。顔を上げると、シラーは何事もなかったように先へと足を進めていた。


「ま、待て……待ちなさい」


 思わず呼び止めると、二人は立ち止まって振り向いた。


「何でしょーか」


 ぞんざいな口振りで返事をしたのは背の高い女生徒の方だった。彼女を相手にしたいわけではない。首を振り、貴公子の名を呼ぶ。


「シラー、くん。何だ今のは」


 怪訝な顔をした女生徒に何事か伝え、シラーは講師の方へ歩み寄る。


「如何しましたか」


 その言葉が神経を逆撫した。


「さっき、言っていただろう。返事は貰えるかなどと」

「ああ……」


 貴公子は冷笑を浮かべる。


「何か勘違いをさせてしまったようですね。申し訳ありません。彼女と話をしていたんです」


 背後の女生徒に視線を送る。途端、女生徒は大きな溜息をついた。


「普通科の方に伝えたいことがあって……良い返事が貰えるかは、わからないんですけどね」

「良い返事?」


 復唱する講師を、シラーは涼しい顔で見下ろす。


 その表情は、いつかの早朝に普通科の教室で出会った時と同じものだった。


「か、彼女は以前から」

「彼女?」


 首を傾げ、男子生徒は低く笑った。


「勘が良いんですね」


 間違いない。アキラのことだ。


 頭に血が上り、食い下がるように講師は詰め寄った。


 先を越される。そんな言葉が視界を狭めた。


「君は、彼女が少し着飾ったのを見て気付いたのかもしれないが、それよりも前から僕は」


 一瞬、男子生徒は蒼眼を細めた。


 口の端が吊り上がる。


「気付いた、ですか」


 貴公子は嗤う。


「結構、面白い勘違いをするんですね」


 その言葉が解せなかった。


 返事をすることも出来ず立ち竦む講師に、シラーは会釈をする。肩越しに苦笑いを浮かべた女生徒が覗いた。


 踵を返し、二人の生徒は立ち去る。


「お前、八つ当たりか?」

「そんなことはないよ」

「てか今の色恋沙汰の話だったのか」


 そんな会話が極小さく交わされた。


 暫し呆けたのち、講師は憤慨する。階段を上るシラーの背中に何か怒鳴りつけようにも、上手く言葉にすることが出来なかった。


 最初から揶揄うつもりだったのではないのか。そんな被害妄想が思考を更に霞ませた。


 一先ず落ち着くために、再び渡り廊下に戻る。そよいだ風も虚しく、体は火照ったままだった。


「先生」


 鈴を転がすような心地良い声が、背中を冷たく伝った。顔を引きつらせたまま辺りを見渡す。


 シラー達が去り誰もいなくなったはずの迷宮科棟の廊下で、聖女が佇んでいた。


「どうかなさいましたか」


 小首を傾げる女生徒の前で、再び講師は狼狽る。


「いや、別に……」

「熱でしょうか?お顔が」

「なんでもない」


 思わず強く発した言葉に、マイカは身を竦ませた。その仕草と表情が罪悪感を掻き立てる。


「ご、ごめん」

「いえ……」


 聖女は目を伏せ、項垂れる。暫しの沈黙の後、マイカは問いかけた。


「怒らせてしまいましたか?」


 反射的に首を振る。


「そんなことはない。君の言葉が気に障ったわけでは」

「では、嫌なことがあったのですね」


 一歩、聖女は講師に歩み寄る。極近くで蜂蜜色の髪が揺れた。合間から覗く眼差しが口元を緩める。


「訳の分からないことを君の先輩に言われたんだ。僕が、勘違いをしていると」


 思ったよりも嫌味っぽい声音が出たことに、自分自身驚く。驚きは即座に不快感に変わり、怒りを増長させた。事の次第を目の前の少女に吐き出す。


 講師の訴えに耳を傾け、マイカは眉をひそめた。


「勘違い、ですか」

「ああ。僕が何を勘違いしているというんだ。どうせ彼奴の、口から出まかせに決まっている」


 そうして、縋るように聖女を見つめる。何も、何も勘違いなどしていない。何も間違ってはいない。マイカならそう言ってくれる。そんな半ば確信と入り混じった期待を込めて、言葉を待った。


「勘違い。そうかもしれませんね」


 聖女は笑う。


 幼い子供を見るような、慈しみに満ちた微笑みだった。


「アキラさん、でしたか。確かにきちんと制服を着ていた姿も綺麗でしたね。でも、普段だって同じでしょう」


 そんなこと、みんな知っているんですよ。


 囁き声が、震える体に浸みた。


「彼女のことが好きな人は、先生が思うよりもずっとずっと大勢いらっしゃるはずです。シラー先輩もその一人かもしれませんね」


 彼女が好きだ。身なりに気を使う事もなく、飄々としていて、それでも確かに美しい彼女が好きだった。


 それが「勘違い」だというのだろうか。


 一人で舞い上がっていただけなのだと。そう突きつけられたような気がして、数学講師は滲む汗を拭う事もできず立ち尽くした。


 何より、マイカの言葉でそれまでの情熱が萎縮していったのが、信じ難かった。


「……彼女も、高嶺の花だったのか」


 沈んだ様子の講師を見て、今更ながら慌ただしくマイカは励ましの言葉をかける。


「人一倍想いを伝えることが出来れば、愛を示すことが出来ればきっと」

「いや」


 否定する。マイカの鼓舞も、それまでの自身の好意も。


「ぼ、僕だけが彼女の魅力を全て知っていると、思ったんだ。だから、手が届くと思い込んで、思い上がって」


 底無しの卑屈な想いが、開き直りにも似た言葉を口走らせる。


「何故好きになってしまったんだろう。あんなみんなが好きになるような子じゃなくて、もっとつまらない……」


 一人の少女の姿が脳裏をよぎった。講師の考える「つまらない子」にその子が該当している気がして、咄嗟に溢す。


「あの、アキラさんといつも一緒にいる、迷宮科の女生徒のような子にでもしておけば良かったんだ」


 冷たい感触が左腕を覆う。


 見下ろすと、聖女が此方を覗き込んでいた。


「リシアのこと、ですか」


 少女は囁く。すぐそばにいるのに、深遠から届くような響きだった。


 嫌な汗が背中を伝う。


「つまらない子。アキラさんの代わりの子。そんな目でリシアを見ていたんですね」


 掴まれた腕に薄い爪が食い込む。


「ち、違う。違うんだ」


 誤解が生じることよりも、目の前の女生徒が恐ろしくて講師は弁明する。マイカはただ一途に、何の感情も秘めていない目で講師を見つめていた。


 細い腕を掴み引き離そうとする。


 途端、聖女は叫び声を上げた。

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