哀惜
油紙に包まれた串焼きが冷め切る前に、水鳥通りの集合住宅に辿り着く。
一階の大部屋に明かりが灯っている事を確認して、シノブは助手に声をかけた。
「少し待っていてくれ」
「部屋に戻っていても?」
「かまわん」
階段を上がる後ろ姿を見送り、艶消しの把手に手をかける。以前と同じく、鍵はかかっていなかった。
「失礼」
小さく声をかける。居間で影が大きく揺らいだ。
「誰かしら」
この時間まで起きていたのだろうか、のそのそと管理人が廊下に出る。澄んだ目がシノブの姿を捉えた。
「あら、アキラちゃん」
微笑む管理人に会釈をする。
五年ほど前から、このやり取りは変わらない。それにどこか慣れてしまっているのが、悲しかった。
「こんばんは。もしかして、今日もおばさんは遅いの?」
「……」
「何かお夜食になるものがあったら良いのだけれど」
机の上には見覚えのある水鳥の描かれた紙袋や果物が置いてあった。姪を含め、管理人を気にかけている者が置いていったのだろう。
薄黄色の塊を手に取り、管理人は尋ねる。
「乾酪は好き?」
「大丈夫ですよ。食事はもう、済ませましたから」
「そうなの」
一度席を立ったのも束の間、再び安楽椅子へと戻っていく。老婦人のおぼつかない足取りをシノブは見守る。
「寂しいのなら、ここでお休みする?きっと明日には、おばさんも帰ってきているわ」
どこか純粋な瞳が、鰓の落ちていない成人を映した。
老婦人は僅かに首を傾げる。
「シノブちゃん?」
返す言葉が思いつかず、沈黙する。頷いても、彼女を動揺させてしまうだけのような気がした。
シノブの危惧も束の間、老婦人は困ったように目を細める。
「ごめんなさいね、間違えてしまって」
「いえ、こちらこそ……紛らわしいことをしてしまって、申し訳ありません。ヘスさん」
このやり取りも、以前交わしたことがある。彼女はその記憶も思い出したのだろうか。
「貴女はずっと、変わらないのね。わかっていたのに」
心苦しげに老婦人は微笑む。その笑顔を見て再び、シノブは言葉を失った。
暫しの静寂の後、何とか口を開く。
「……もう夜更けです。ご自愛ください」
「ありがとう」
シワだらけの手を取り、寝台まで誘導する。横たわった老婦人の呼吸が規則正しくなったことを確認して、部屋を後にした。
自宅の戸を開くと、居間で小さな光源が揺らいでいた。廊下の先の閉ざされた扉を一瞥し、食卓に向かう。
「なんでこんな、暗いんだ」
「起こしちゃ悪いわ」
茶器の用意をしていた助手が、口元で人差し指を立てる。
「これは明日の朝ごはんかしら。私たちだけ、食べちゃいましょ」
助手の言葉に頷き、静かに椅子を引く。既に油紙の包みは解かれ、取り皿も用意されている。肉の串焼きを二本取り、突き匙で木串から引き抜いた。
「管理人さんと、何かあったの?」
薄暗がりの中、そう告げた助手に顔を向ける。どこか心配げな目と視線がかち合った。
「……いや、特には」
「何だか寂しげだったから」
そこまで言ってアガタは気まずげに視線を逸らす。
「ごめんなさい。詮索なんて」
「いつものことだ。みんなさっさと歳を食っていくから、少し感傷的になっただけだ」
嘲笑が微かに響く。
「似合わんだろう」
甘辛い肉を頬張る。生温かい肉汁が唇の端から滲み出た。
鰓の落ちなかったドレイクの宿命のようなものだ。それを悲観する歳は、とっくに過ぎていると思っていたのに。
同じ卓についた助手は、野菜の串を手にしたまま師よりもずっと寂しげな顔をしていた。徐に串焼きに齧り付き、ほくほくとした芋を抜き取る。
「この計画が上手くいけば、少しは寂しくなくなるのかしら」
助手の言葉を聞いて、シノブは二本目の串を取ろうとした手を止める。
「蒸気機関を駅に置いて、鋼索道が開通したらいつでも帰って来られるじゃない」
「……」
「私、それが目的だと思っていたんだけど」
黙したまま、教授は串焼きを食べる。木串を皿に置いてひと心地ついたのか、椅子に深くもたれかかった。
「人聞きの悪い」
「絶対そうでしょ」
杯に穀物の茶を注ぎながらアガタは微笑む。その表情を見て、即座にシノブはそっぽを向いた。
「たまたま、試運転にちょうど良い通路があったからだ」
差し出された杯を受け取り、呷る。香ばしい風味が脂っ気と過剰な香りを流し去った。
「まあ、エラキスとジオード間の鋼索道が出来たら、もっとアキラの傍にいてやれるかもな。迷宮のこともさっきの男も気になるし……」
姪と同じ夜色の瞳が居間の片隅を見つめる。異国の文字が刻まれた木の板が、小さな棚の上に鎮座していた。エラキスの風習ではない、彼女らの先祖の地から伝わった死者を弔う祭祀具だ。
板に記されているのは、老いたわけでもないのに歳の離れた姉より先に亡くなった弟の名だ。
「何かあったら、あいつに顔向けできないからなあ」
微かに床が軋んだ。
振り返る間もなく、気配も物音も無くなる。
「どうしたの?」
串一本で満足したのか、食後の茶を啜りながらアガタが聞く。
「いや、なんでもない」
そう答えて、もう一度深く椅子にもたれる。
すぐに調査資料をまとめる気にはなれなかった。




