餌食
進退窮まる。
出口までの道のりは大したこともない。しかしこのネズミの群れに遮られては、一息に駆け抜けることも難しい。
剣を振るいネズミを斬り払っても、再び足に絡みつくネズミが現れる。まるで群れが一つの意思を持ったように、迷宮科の生徒ばかりを狙うのだ。このままではアキラはともかく、他の生徒たちが真っ先に消耗してしまうだろう。
ウィンドミルの「魔法」で散らそうにも、他の人員との距離が近過ぎる。この狭い通路で、先程と同じ規模の爆発が起きれば、無事では済まない。
どう切り抜ければいいのか。
何匹目かのネズミを断ち、息を整えるリシアの肩を誰かが軽く叩いた。
「前に出るから、マイカを守ってくれ」
短くそう告げて、貴公子は迷宮の暗がりの中で爛々と輝く目の前に立ち塞がる。指令をこなすべく、リシアは背後のマイカに声をかけた。
「マイカ、足を」
守って、と叫んだ瞬間に、聖女の元にネズミが駆け寄った。顔に飛びかかられた時と同様に、聖女は手で払おうとする。
噛みつかれる。
そう思った瞬間、手ではなく足が出た。ネズミの胴を蹴り上げる。
その様を見て、聖女は悲鳴を上げた。
「もっと後ろに」
医術の心得があるマイカを、前線近くに置くのは危険だ。ならば、少しでも通路の後方に連れて行った方が良い。
そう判断して、マイカに指示を出す。
座り込んだマイカの瞳が、少し髪の乱れたリシアを映した。
「リシアも一緒に」
籠手に指が絡まる。まるで力の篭っていないその指を暫し見つめて、解くように手を下ろす。
こんなにも非力だったか。
先程のネズミへの狼狽えぶりといい、かつて共に班活動をしていた頃には見られなかった姿だ。四十二班での経験とは比較にならない危機を前にして、本来の姿が浮き出て来たのかもしれない。
今の姿は、もっともっと昔に見た「幼馴染」としての彼女の姿と、近しいものがあった。
ネズミの方へ向き直る。
当初の隊列は既に崩壊しており、各々が道を切り開くべく通路に散開していた。既に攻撃対象から外れているアキラは本洞近くまで進んでいるようで、姿が見えない。迫ってくるネズミも、段々と少なくなって来たようだ。
斬り損ねたネズミにとどめを刺しつつ、ゾーイが前方に進む。シラーと言葉を交わし、こちらを振り向いた。
「もう少し奥まで退いてくれ。安全が確保できたら、また呼ぶ」
簡素な手振りと言葉で、ゾーイが指示を出す。頷きつつ再び背後を振り向く。
「マイカ、奥へ」
聖女も小さく頷いた。足元に気を配りつつ、手を取り支えになる。少し靴が傷んでいるが、怪我は無いようだ。
通路の壁を背に後退する。四人に阻まれると流石にネズミも突破は難しいのだろう。駆けてくる影はない。
「リシア」
背後で聖女が囁く。
「みんな、とても強いのね」
制服の裾を軽く引かれる。先程よりも幾分か強い力だった。
「ここに居れば、私もリシアも安全かな」
熱いものが顔に上る。
「油断しないで」
そうは言ったものの、心の奥底では煮え滾るようだった。
リシアが前線より引いた場所にいるのは、マイカを守れというシラーの指示があったからだ。決して安全だからここに居るわけではない。
「守られている」マイカが告げたどこか他人事のような言葉が、癪に障ったのだ。
汚れた甲で汗を拭い、剣を構えて周囲に神経を張り巡らせる。今なすべき事は背後の女学生を守る事だ。こんな事で注意散漫になってはいけない。
ネズミの鳴き声が聞こえる。
後ろだ。
「マイカ、奥から来る」
咄嗟に声を張る。振り向き、ウィンドミルの放つ光で通路の数歩先を照らした。
逃げ漏らしたのか。あるいは背後にも群れがいるのか。混乱しつつネズミの姿を探す。
見覚えのある植物を編んだ巣から、ネズミが顔を出した。そのまま襲いかかってくるかと思いきや、ネズミはどこか逡巡するように周囲を見渡し、身を翻して巣に戻った。
再びネズミが現れる。何かを引きずりながらのろのろと進む獣に、すかさず剣を振り下ろす。取りに戻ったのは食物か何かだろうか。食い意地の張ったネズミだ。
絶命したネズミの咥えていたモノを見下ろす。
血のこびりついた栗色の頭髪だった。
叫び声も出ず、リシアは後ずさる。
周囲を見回す。ウィンドミルの心許ない灯りが、リシアの動きに伴って淡く洞内を照らした。
土塊の合間に、何かが横たわっている。
思わず目を逸らしそうになって、リシアは唇を噛みしめ歩み寄る。確認しなければならない。横たわる影の正体を。
血の匂い。
ネズミの血か、目の前の「死体」の血か。
ウィンドミルの光が小さく振れる。柄を握る手が震えているからだ。浅く息をつこうとして、喉がひゅうと鳴る。こんな時、どうするべきだったか。行方不明者を見つけた時。その行方不明者が既に息絶えていた時。野帳や生徒手帳を探そうとして、小物入れに手を伸ばす。
噛み抉られた足の筋が視界に入る。続いてボロボロの制服、裂傷。少しずつ脳が把握していく状況に耐えきれなくなって、リシアは声を漏らす。
「誰か」
思いの外大きく、悲痛な声は通路に響く。壁に染み入るように反響が消えた、その時。
「死体」の投げ出された腕の指先が、微かに動いた。




