巣(2)
地を削るような爪音の後に、僅かな沈黙があった。
灯具の薄暗い明かりの下に、影が躍り出る。鈍色の毛並みに長い尾。リシアもよく見慣れた獣の姿に刮目する。
ホラネズミだ。
アキラと最初に迷宮に降りた時も仕留めた、洞内に潜む小動物の代表格。探索のついでに「換金素材」として狩られるような存在だが、今目の前にいる「小動物」は前回見かけたものとは様子が違う。
「でかっ」
デーナが呟く。全く同じ感想を、リシアもまた心中に持っていた。
明らかに体躯が大きい。
「小動物」とは言えない、クズリに肉薄する頭胴長のホラネズミが更に二匹、暗がりから駆け寄ってきた。
いつか見たヒドラにも似た尾をくねらせ、ホラネズミはこちらを伺うように身を屈める。その胴が伸びた。
微かに息を吐き、班長は一閃する。弾かれたネズミは甲高く鳴いて地を転がった。鮮血が光る。
「十時の方向の奴を頼む」
シラーの指示に真っ先に反応したのは副班長だった。風を切り錘が飛ぶ。錘を胴にくらい怯んだネズミに、再び重い一撃が振り下ろされる。
黒い瞳が溢れ出し、ネズミは痙攣する。息を引き取りつつある同種を飛び越え、もう一匹のネズミが躍り出た。
「出来るか」
副班長が声を荒げる。一瞬、誰に対しての言葉かリシアは考えた。
その間に、誰かが動いた。ネズミの姿が掻き消え、小通路の壁に飛沫が散る。
「アキラさん、もう一匹頼むよ」
その声かけで、アキラの位置に気がつく。いつの間にか赤ジャージは最前列に出て、暗がりを見据えていた。
輝板の煌めきがこちらへ迫る。アキラの剣が空を切り上げた。その隣にリシアも並び、後から現れた滑るような毛並みを突く。
手応えがあった。地を転がりもがくネズミを見下ろし、小通路の奥に目を向ける。
無数の輝きが、星のように瞬いていた。
無論、暢気に見入ることが出来るような光景ではない。
「キリがない」
シラーが吐き捨てるように言った。剣を突き上げ、声を張る。
「撤退!」
退路を作るように、デーナがネズミの群れの前に立ちはだかる。こちらを一瞥もせず、一言叫ぶ。
「走れ!」
指示を守らなければ。
赤いジャージの裾を引く。
「撤退命令が出た。小通路の出入り口まで逃げるよ……」
強い抵抗があった。
根が生えたように立ち身構えるアキラの顔を、思わずリシアは見上げる。
アキラの双眸には、何も映っていなかった。
リシアでも、隣で応戦する上級生でも、ネズミでも、生来の夜色でもない。
ただ暗い暗い黒が、そこにあった。
「アキラ!」
上擦った声でリシアは友の名を呼ぶ。名を呼ばれたことで我に帰ったのか、アキラの瞳にリシアの影が映る。
あ、と小さく声を漏らして、普通科の女生徒は二、三歩後ずさる。放心したような仕草も一瞬で、すぐさまアキラは踵を返した。
「マイカも」
もう一人の同輩に声をかける。医療鞄を抱えて青褪めている少女の肩を揺さぶり、撤退を促す。
「走れる?」
「ええ」
か細い声が、花弁のような唇を震わせた。返事とは裏腹に、マイカの足は竦んだままだ。
「……走るよ!」
細い手首を掴み、先程のアキラに対してよりも幾分か弱く引く。つんのめるように聖女は踏み出した。
「リシア」
先に向かったアキラが名を呼ぶ。それに応える余裕も無く、ただただリシアはマイカの手を引き走った。
「ありがとう」
背後から感謝の言葉が追う。そのすぐ後に、忍び笑いが響いた。
体の芯がぞくりと震える。
恐慌状態で、笑いが出てしまう人間は多い。だとしてもこの笑い声が、あのマイカから発せられたものとはにわかに思えなかった。
金切り声と怒声、笑い声を背に、前だけを見つめるように努めてリシアは走った。
出入り口の亀裂が見える。逆光に影が映え、手を差し伸べた。
「ここで待機すれば良い?」
手を取るなりアキラは問う。しかしその先を見据えた言葉と力強い牽引に、リシアは安堵した。
第一通路の路上でへたり込む。薄れていた片手の感覚が段々と戻ってきて、慌ててリシアはマイカの手を離した。
「怪我はない?」
念のため確認する。聞いた後で、彼女の方が得意なことを思い出した。
一方のマイカはリシアを見つめ、微笑む。
「平気」
先程の怯えは微塵も窺えない、平然とした返答だった。
聖女の瞳はリシアを見つめたまま、逸れも潤みもしない。先に目を逸らしたのは、リシアの方だった。
「先輩たちは」
かすれた声を絞り出す。前線に立つデーナの後ろ姿を見たのが最後だ。三人は未だ小迷宮の中にいる。
離脱出来ただろうか。
無事だろうか。
「先輩!」
奥に向かって、届くともわからない叫びを上げる。耳を済ませると、微かに金具の音が響いている。
小通路に一歩足を踏み入れ目を凝らすと、灯具の明かりと共に上級生が駆けてきた。
「良かった」
そう告げるや否や、シラーたちの緊迫した表情に気がつく。
ネズミを追い払えたわけではない。
敗走してきたのだ。
「おかしい」
出入り口に辿り着いたゾーイが呟く。
「多過ぎる」
息切れと金具の擦れ合う音の合間に、細波のように共鳴が押し寄せる。
その無数の引っ掻き音に、今度こそリシアは肝を潰した。




