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来客

台所から覗いた居間には、客人どころか主人や執事の姿も無かった。


胸を撫で下ろし、そっと足を踏み入れる。絨毯の上を忍び歩いていると、普段は気にならない床の軋みが妙に響いた。


視界の隅で人影が動いたような気がして、辺りを見回す。居間の硝子窓の向こう、庭の外れでスフェーン卿が鋏を片手に花を物色していた。こちらに気づいた様子はない。息を吐き、再び足を進める。


「おかえりなさいませ」


声にならない叫び声をあげる。振り向くと、花瓶を抱えた執事が困り顔で立ち竦んでいた。


「申し訳ございません。驚かすつもりはなかったのです」

「だ、大丈夫。ただいま爺や」

「何かあったのですか。妙に気配を消すような歩き方をなさっていましたが」

「違うの!その、こっそりとか、そんなんじゃないから」

「あれ、おかえりリシア」


油断も隙もない執事との応対の合間に、父が花を携え居間に入ってきた。


見つかってしまった。


観念しつつ、リシアは帰宅の挨拶をする。


「ただいま帰りました、お父様」

「ちょうど良かった。今花を見繕ってきてね、これはこの花瓶に活けて……それとは別に鉢植えも置いたほうがいいかな。今ちょうど温室のモウセンゴケが咲いているんだ」

「モウセンゴケは人を選ぶからやめた方がいいと思うけど、どうしたの?まるで」


来客でもあるみたい、と告げる間も無く、金具を叩く音がスフェーン邸に響いた。


身が竦む。その間に花瓶を卓に置いた執事が扉へ向かった。


軋んだ音の後に、執事が挨拶をする。


「急に申し訳ない。スフェーン卿はご在宅でしょうか」


続いて聞き覚えのある声が、主人の所在を聞いた。おや、と執事が気を抜いたように声を弾ませる。


「確か、お嬢様の……」


執事の当然とも言える勘違いを正す間も無く、スフェーン卿が玄関へ向かった。


「お久しぶりです。教授」


屋敷の主人の挨拶を、こっそりと扉の影から見守る。見覚えのある帽子が、家人二人の合間に見え隠れした。


「エラキスに住んでいるとは聞いていたが、こんなに近くだったとは」

「あれ、もしかして教授もエラキス住まいでしたか。実験棟に住んでいるとばかり」

「本籍はここだ」


軽口とも取れそうな会話を交わしながら、シノブは手にしていた大判の便箋を差し出す。


「約束の紀要だ。興味深かった」

「ありがとうございます。そうだ、少しお時間はありますか。お話ししたいことがあって。お茶もありますよ」

「……私も話したいことがある。すまないな、邪魔するぞ」


スフェーン卿に誘導され、教授は居間へと向かってくる。気まずさのあまり逃げ場所を探すリシアに、無慈悲な声がかけられた。


「リシア、お客様だよ」


振り向くと、居間の入り口に満面の笑みを浮かべた父と、目を丸くした教授が立っていた。


潔く、リシアは愛想笑いを浮かべる。


「こ、こんにちは」


教授は隣の子爵を一瞥し、次いでリシアを見つめる。そうしてにこりともせず、帽子を取って会釈をした。


「昨日ぶりだな」


勧められるがまま、教授は客人用の長椅子に腰掛ける。その向かいにスフェーン卿も座り、リシアを手招いた。


「娘がお世話になっていると聞いて、驚きました。書類のやりとりもしているとか」


朗らかに話し始めた父の隣に腰を下ろす。執事が三人分の杯と糖衣をかけた焼き菓子を置き、主人に書類を差し出した。


その後音も無く、卓の隅に花瓶を配する。


「保護者の署名が必要とのことだったので……よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


恭しく父は頭を下げた。慌ててリシアも背を曲げる。向かう教授も礼をするように目を伏せ、書類を受け取る。


教授は書面を眺める。耳が痛いほどの静寂の後に、低く呟いた。


「まさか娘とは思わなかった」


肩を震わせる。視線のせいか、顔が熱を帯びた。


「そうか。ウィンドミルの話は君から聞いたんだ」

「そうでしたっけ」


学部生の頃だ、と告げてシノブは杯に口をつけた。口の渇きに気づいて、リシアも杯を取る。いつもの花茶だった。


「君の要件は、この書類か」

「はい」

「では、次は私の要件だ」


夜色の瞳が、目配せをするように動いた。一瞬の動きに気づいた瞬間、スフェーン卿がリシアの方を向いた。


「リシア、やっぱりモウセンゴケを持ってきてくれないかな」

「へ?」

「せっかく咲いているから、教授にも見てもらいたくて」


突然の父の頼みに、リシアは頷きつつ席を立つ。客人に頭を下げて、居間を後にした。


「モウセンゴケ?」


背後からシノブの訝しげな声が聞こえる。


席を外してほしい、ということだろうか。


父の意図を推測しながら、温室に立ち入る。奇妙な葉には似つかわしくない可憐な薄紅色の花を綻ばせた鉢を抱え、ふと足を止める。


硝子張りの壁の向こうで、蒼い飛沫が噴き上がっている。あの夜から変わらない、湖の迷宮で見たものと同じ煌めきに暫し見惚れて、リシアは温室を後にした。


本邸に戻る。廊下の果てで、居間の灯りが暗がりを切り取るように照らしていた。


「碩学院に戻るのか」


シノブの声が、か細く廊下に響く。暗がりでリシアは立ち止まり、息を潜めた。


「……この研究なら客員もあり得るだろう。私自身、君が戻って来てくれるのは心から嬉しい」

「貴女にそう言ってもらえるとは、心強いです」

「だが、君に不信感を抱いている碩学はまだ多い。一度地に堕ちた信頼を取り戻すのは、難しいぞ。例え潔白でも」


沈黙が訪れる。


灯りの中で影が揺らめいた。


「このまま無為に過ごすわけにはいきませんから。リシアやウルツのためにも」


穏やかな声音の奥底に、いつもの父とは違う強い意志のようなものがあった。


息をついて、再び歩む。


居間に入ると、先ほどと変わらぬ様子の二人がこちらを見つめた。困り顔の父と、姪とよく似た無表情の教授。そこまで時間は経っていないはずだが、既に焼き菓子が一つ消えていた。


どこか気まずそうな両者の顔を見比べ、モウセンゴケを掲げる。


「お父様。一番綺麗に咲いているのを持ってきたんだけど、どうかな」


そうして、精一杯の笑みを浮かべた。

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