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奇縁

水路沿いから、手を振る。


踊り場から身を乗り出したアキラもまた手を振る。別れの挨拶を交わしてリシアは帰路に着いた。


予想に反して、水鳥通りは静かだった。辺りを見回しても出歩く人影は見当たらない。遠くの喧騒を聞く限り、大通りには迷宮帰りの学生や冒険者も多いはずだ。


少し早足になった。心細くなっただけではない。重荷が一つ無くなったからだ。


まだ申請書は渡せていないが、炉を手渡す算段が出来た。


報告をしなければ。


途端、露骨に歩みが遅くなる。脳裏に浮かんだ報告相手はシノブ教授でもスフェーン卿でもなく、迷宮科の講師だった。


講師はどう返してくるのだろうか。


これまでの対応からして、喜んでくれるとも思えない。説教ならまだ良い方だろう。問題は、淡々と応対し処分された時のことだ。


かける言葉もない。そう思われるのが、一番恐ろしい。


講師に報告しない、という手もあるのだろう。しかしアキラについて正直に告げると決めた以上、いつかは白日の下に晒されることだ。


取り繕うのは逆効果だ。


そんな稚拙な計略はともかくとして、今のリシアに出来るのは「誠実」であることだけなのは間違いがない。


腹をくくるべきだ。


ここ数日繰り返してきた言葉を復唱する。


水鳥通りを抜け、スフェーン宅の所在する高台へ続く坂を登る。幽かに夕焼けの滲む夜空の下、聳え立つ駅の裾には無数の灯りが瞬いている。少し遅くなった帰り道に見ることが出来るこの光景は、どこか怖気を感じるほど美しい。


明後日、また彼処に行く。


次は第六班に対して、アキラに対して、何が出来るのだろうか。もっと周囲に目を配り、気遣う事がリシアに出来る事なのだろうか。


第四十二班の班長として、何をすれば良いのだろうか。


遠い瞬きを横目に考えるも、答えは出ない。

そのうち歪な塔は視界から消え、スフェーン邸の門が代わりに現れた。


居間の窓が明るい。おそらく執事が食事を用意してくれているのだろう。先程のお茶と菓子で程よくこなれた胃袋が音を立てた。


門の前まで辿り着くと、見計らっていたかのように執事が勝手口から出てきた。顔を伏せ、門を開く。


「おかえりなさいませ」

「ただいま戻りました……何か手伝う?」

「お気遣いありがとうございます。既に用意は出来ております。すぐにお召し上がりになれますよ」


目を細め、執事はリシアに添い歩く。主人の仕事管理や来客の対応、食事の用意に至るまで全てを一人でこなす執事には、頭が上がらない。


使用人が次々と去っていった中、彼だけが残ってくれた。スフェーン親子にとっては家族同然の存在だ。


勝手口から屋内に入る。窯の様子を見るに、今日は塊肉を焼いたのだろう。


「ただいま戻りました」


浮き立ちながら居間へ声をかける。椅子に腰掛ける後ろ姿が、出入り口からちらりと見えた。


「おかえり」


スフェーン卿が振り向く。彼もまたリシアが帰ってくる頃を見計らっていたのだろうか。傍の執事に声をかける。


「いつもありがとう、ウルツ」

「勿体ないお言葉です」


主人の言葉に、執事は短く礼を告げた。この家で雇われた当初から、同じようなやり取りを繰り返しているのだろう。慣れたような、しかし穏やかな声音には長年の信頼関係が伺える。


「リシアもお腹が空いただろう」

「ええ」


すぐにでも食前の祈りを捧げそうな父を横目に、剣帯を外す。普段の定位置……居間の壁にウィンドミルを掛け、鞄を執事に渡した。


「今日は迷宮に?」


スフェーン卿が問う。その目は子供のように輝いている。残念ながら、と前置いてリシアは先程の出来事を話した。


「取引のお話を、したの」

「取引?」


子供のような目から一転、不安げな父親の目になる。


「もしかして、何かに巻き込まれたとか」

「ううん。少し前の成果物の処理に困ってて、友達の伯母様が引き取ってくださるの……正確には碩学院が、だけど」

「へぇ、碩学院!」


素っ頓狂な声が居間に響く。その声に驚いたのか、鞄を私室に置きに行こうとしていた執事が慌てて出入り口から顔を出した。


「如何しました」

「ご、ごめん。少し驚いちゃって。碩学院と直接取引かあ」

「その、お父様に相談しようとも思ったけど、専門の方だと聞いていたから」

「専門?」

「工学の教授と、仰ってた」


そう聞いて、父は卓に肘をつく。考え込む時によく取っている姿勢だ。


今のうちに。


リシアは鞄を抱えたままの執事に声をかける。


「じいや、鞄を頂戴」

「はい」


私室に行く前で良かった。鞄を探り、手書きの申請書を取り出す。卓の上に置くと、父ばかりか執事も紙面を覗き込んだ。


「これは……」

「今日頂いた、仮の申請書。その、変なものではないと思う」


スフェーン卿が紙を取る。穴が開きそうなほどに見つめ、小さく音読する。


暫くのち、納得したように頷いた。


「確かに、手書きだけど碩学院で使ってるものと同じ文面だね」


そうして不意に破顔する。


「それにしても、まさかカルセドニー教授とはねえ」


その言葉に、思考が停止する。


「……お知り合い?」

「うん。専門は違うけど、昔講義を覗いた事があってね」


懐かしむように、スフェーン卿は卓に片肘をついて紙を眺めた。


「懐かしいなあ。僕が学部生の時には、もう准教授でね。凄く興味深いお話をしてくれたなあ」


何歳なんだ。


一瞬浮かんだ疑問を何とか飲み込んで、先程とよく似た問いを投げかける。


「その、仲は良い?今でもお話をしたりはする?」

「え?いやあ、碩学院に立ち寄った時に顔を合わせたら少し話をするくらいだよ。用件も紀要の締切とか研究費とか、あんまり学術的じゃあないことだし……頻繁に出会える人でもないから、良い縁だったね」


そう言って、スフェーン卿は微笑んだ。


一方のリシアは気が気ではない。碩学院という共通点があったとはいえ、まさか知り合いとは思いもしなかった。


「あ、だからかな」


執事が差し出した硬筆で申請書を記入しながら、父は思い出したように呟いた。


「この間碩学院に行った時に、用があってそのうちエラキスに向かうからその時に紀要をついでに渡すって言ってたんだ。ありがたくお願いしたんだけど……もしかしてその時にはもう、取引を?」

「……それは違うと思う」


違うと思うが、それよりも。


「紀要を渡すって」

「うん。話を聞く限り、エラキスにはもういるんだよね。なら近日中には来るんじゃないかな。その時に改めて、僕からもお礼を言いたいな」


その言葉を聞いて、リシアは戦々恐々とした。


初めて会った時に、家名を告げなかった気がする。

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