当惑
歌声が聞こえる、と思ったのも束の間だった。
伴奏が止まり、長い長い沈黙が続く。そうして再び伴奏が同じ小節から始まる。独唱の練習だろうか。それにしては、先程から入れ替わりに何人も讃美歌を歌っている。
まるで試験のようだ。
遠い記憶が蘇り、どこか寂しい気持ちになった。歌姫に選ばれるには、何度か審査を通過しなければならない。あの時はただただ夢中で歌って、喜んでいた。後押しをしてくれる人も大勢いた。けれども今はもう、その「支援者」も殆ど離れていってしまった。
今年の歌姫の姿が脳裏をよぎる。リューはどうしているのだろうか。もしかしたら既に、ジオードに入っているのかもしれない。現地の下見も必要だろう。
曲を弾ききることなく再び伴奏が止まる。苛立ちまぎれに強く鍵盤を叩いたような、乱雑な余韻が残った。
声楽部を指導する講師には、入学前に何度か会ったことがある。穏やかな物腰の女性だった。その第一印象とは随分と隔離した演奏が、どこか腑に落ちない。
何人目とも知れない歌声が響く。幾分か駆け足な伴奏に合わせようとしている苦しげな歌声だった。
どちらも焦っている。
くだらない分析をしていることに気づいて、頰を両手で覆う。リシアが気にかけることではない。そう言い聞かせて、深呼吸をした。
放課後の中庭でアキラを待つ時間は、時計の針よりも随分と進むのが遅い。耳は声楽部の歌に、目は掲示板に向けて、リシアは漫然と過ごす。
炉を渡したら、次はエリス講師に報告しなければならない。以前の応対を思い出して、リシアは伝えるべきことを考える。アキラと同様に、「大丈夫」なだけではない答えを……。
さくり、と芝生を踏む音がした。
リシアは現実に引き戻される。途端、視界に入った人影と目が合った。
目がくらむような逆光の中、聖女は微笑む。
「やっぱり、ここにいた」
息をのむリシアの隣に、元友人は腰掛ける。重さを感じさせない所作が、どこか不気味だった。
「なにか」
やっとのことで言葉を発する。リシアを探していたかのような口ぶりだったが、当のマイカは問いには即座に答えず、辺りを見回した。
「ここは特等席なのね」
そう告げて、前掛けの上で綺麗に手を揃えた。
「声楽部の練習がよく聞こえる」
マイカの意図はわからないが、言葉の意味は理解した。確かに落ち着いて歌を聞けるのは、この中庭ぐらいだろう。音楽室に近付くこともない迷宮科の生徒なら、尚更だ。
「いつも、聞いているの?」
リシアの顔を覗き込むように、マイカは首をかしげる。
「たまたま、待ち合わせと部活が被ってるだけ」
「そうなの」
マイカは目をそらすことなく沈黙する。その様が少し怖くて、リシアは身じろぎした。
遠くから歌声が聞こえる。
「リューが建国節の歌姫を辞退したという話、もう耳にした?」
聖女が不意にこぼした言葉に、リシアは動揺する。先程思い浮かべていた少女の名が出てきたからだ。
しかしそれ以上に少女の現状が予想外で、リシアは返事をする。
「初耳」
「驚いちゃった。だって、あんなに練習もしていたのに……中庭でも、よく私に歌ってくれたの」
以前、早朝の中庭でリューと出会った時の様子を思い出す。リシアが知っているリューとは、歌も雰囲気も違っていた。
「でも最近はあまり見かけなくて、こんなことになっているなんて」
聖女は溜息をつく。大して気がかりでも無いような、浅い溜息。
「でもこれって、良い機会だと思うの」
少女の表情が華やぐ。久しぶりに見た、「友達同士」の時の笑顔だった。今の関係では絶対にあり得ない笑顔が、リシアの胸中を掻き乱す。
「リシアなら、またあの舞台に立てる。リューの代わりに、いいえ、もっと素晴らしい歌声を持っているのだから」
提案なのだろうか。
マイカは返答を待ちわびるように、目を輝かせている。
その視線が耐え難く、悍ましく思えて、リシアは長椅子から立った。
「そんなこと、出来ない」
マイカを見下ろし、震える声で吐き捨てる。きょとんとした顔でリシアを仰ぐ少女は、今までに無いほど無垢で、美しく見えた。
「何故?」
理解出来ない。そんな風に言われたようで、リシアは思考もまとまらないまま言葉をこぼす。
「リューが辞退しても、第二第三の候補がいる。その人達を差し置いて、私が選ばれるわけがない」
「でも、リシアは前の歌姫で」
「今年の歌姫になるために努力を重ねてきた人達から、歌姫は選ばれるべきで……私は元歌姫というだけで、なんの練習もしていない。そんな人間が選ばれるなんて、あってはならない。リューや他の候補に対しても、失礼だよ」
それに。
「今の私がやるべき事は、歌じゃない」
それだけは、入学した時から変わっていない。
静かな中庭で、リシアは息をつく。ほんの僅かな間に、一気に吐き出してしまった。顔の火照りも冷めないまま、マイカの様子を伺う。
驚いているのだろう。溢れそうなほど目を見開き、口を閉ざしたままマイカは元友人を見つめている。
その口元が弧を描いた。
「リシアは高潔なのね」
ぞっとするような声音で、聖女は囁く。前掛けの上の白い手が、リシアの傷だらけの手を取った。
「今でも、歌が好きなんでしょう?だからそんなことを言えるの」
聖女の手を見下ろす。白亜の指先に、貝のかけらのような爪。迷宮科の生徒とは思えない、傷一つない手を、リシアは振り払った。
「わ、わからない」
衝動のまま、言葉が口をついて出る。
「あんなこと言って、班から出て行ったのに。どうしてそんな風に話せるの」
あなたに合わせるのに、疲れたの。
そう言っていたのに。
何故今更、以前のように笑うのだろう。
「もう、友達じゃない。そうでしょ」
いつのまにか、伴奏も歌声も聞こえなくなっていた。
マイカの双眸が歪む。一筋の涙が伝い落ち、前掛けを濡らした。その跡を隠すように握りこむ。
何の弁明も無いまま、マイカは立ち上がる。そのままリシアの傍をすり抜けた。思わず振り返り、後ろ姿を目で追う。
不気味な余韻だけを残して、聖女の姿は無くなった。




