靴擦れ
するりと一房、髪が頬を滑り落ちる。
背後に立ったアガタは満足げに頷き、最後の調整とばかりに前髪に軽く指を通した。
「うん、完璧!髪の毛伸ばしてくれてて良かったわあ。今ジオードで、こんな風な編み方が流行ってるの」
面倒でろくに手入れもしていない長髪だが、アガタはお気に召してくれたようだ。いつもより艶の出ている髪を指先で弄び、アキラは時計を確認する。さほど時間は経っていない。複雑な作業だが誰で練習をしたのか、随分と手慣れている。
「この髪型、教授も似合うと思うのよー」
「毎朝こんなことされたらかなわん」
助手のおもちゃにされているアキラを横目で見つつ、伯母は断りを入れる。
「それより、さっさと登校させろ」
「あらやだ。そんなに時間経ってる?」
アガタは慌てて、学生鞄を差し出した。それほど急ぐような時間でもないが、これ以上人形のように扱われるのも気が滅入る。伯母の言葉に便乗することにした。
「うん。そろそろ出るね」
「ごめんなさいね、手間取らせちゃって……あ、靴は革靴履いていってね!そうねえ、教授の長靴が大きさぴったりじゃないかしら」
「何勝手なことしてるんだ」
「学校のがあるから、それ履いてく」
玄関口で制服と同じ学校指定の革靴に履き替える。列んだ釦を付け外しするのが面倒で、普段はもっぱら運動用の布靴を履いている。だが今日は既に釘を刺されている。大人しく革靴を履かないと、アガタが何を言いだすかわからない。
「いってきます」
居間の二人に告げて、扉を開ける。アガタが手を振り見送った。
「いってらっしゃい!」
その姿が遠い昔に見たものと重なって、アキラは思わず立ち止まる。しかしすぐに、手を振り返した。
軽快に階段を降りようとする。足にまとわりつく制服の感覚も久しぶりだ。こんなに動きにくいものだったのか、と少し驚く。
階下を覗くと、扉の隙間から大家の寝息が聞こえた。小さく挨拶をして水路の縁に出る。
慣れない靴で歩く通学路は、いつもより長く感じられた。
正門前の馬車留めに至ると、豪奢な馬車から見知った顔が現れた。アキラと目があった令嬢は驚いたような顔をして、いそいそと走り寄ってきた。
「御機嫌よう」
意趣返しのつもりで裾を軽くつまみ、挨拶をする。その様子を見たセレスは、いつものように面白がるような笑みを浮かべることもなく、
「今日、全校集会だったかしら」
なんとも不安げに声を漏らした。
「ないよ」
「じゃあ、作法の時間?」
「それもない」
二度の質問に答え終わると、令嬢は一転目を輝かせる。
「そういうことに興味を持ったってことは、そういうことなのかしら」
「どういうこと」
自身の不思議な言葉に納得するように、令嬢は頷く。
「どんな相手か気になるけど、応援するからね」
令嬢の決意表明の一方、アキラは置いてけぼりのまま連れ立って歩く。正門をくぐり数歩歩いたところで、セレスの興味はアキラの髪型に移った。
「その髪型、よく似合ってる。自分で整えたのかしら」
「ううん、伯母の……知り合いが」
「伯母様が帰ってきているの?」
セレスが食いつく。
「紅榴宮に来る予定とかあるかしら」
「そういう話はしてなかったけど」
「そう……あの人なら、碩学が来る情報はすべて把握してそうだけど」
首を傾げる令嬢を、隣で窺う。その横顔は、女学生と言うには大人びたものだった。
「あの人」という言い方に冷たい拒絶のようなものを感じて、少しいたたまれなくなる。同じ血縁関係でも、アキラと伯母のそれとはまったく違うのだろう。
「それにしても、器用な方なのね」
アキラの思惑もよそに、いつものように令嬢は話を変える。元の溌剌とした友人の笑顔を見て、アキラは安堵する。
「料理とかも上手」
「へえ。多趣味な方なのかしら」
「うん」
「なら、美的感覚も納得」
数歩、セレスはアキラの前に出る。優雅に翻る制服に、思わず足を止める。
冬空のような目が、頭の天辺から爪先まで見渡した。
「勿論、これからは毎日この格好でしょ?」
悪戯っぽく、しかし冗談とは取れない口調で令嬢は告げる。
即答することはできなかった。即座に、あの薄暗い異界の景色が脳裏をよぎったからだ。
この制服と靴では、思うように動けないだろう。また以前のように、リシア達の足を引っ張りたくはない。
だから、首を横に振った。
「ううん」
「ええー」
令嬢らしからぬ不満の声を漏らし、セレスは目を細める。
「なんだか、勿体無いわ」
「この格好だと動きにくいし」
「……運動する時はジャージに着替えればいいんじゃないの?」
目から鱗が落ちるような言葉だった。冷静に考えてみれば、それが普段身につけている服の正しい使い方だ。思わず頷きかけ、僅かな違和感に足を止める。
「どうしたの?」
セレスに覗き込まれながら右の革靴を脱ぐと、靴下に赤く滲んだ染みがあった。友人の一連の動作を令嬢は慌ただしく登校する生徒達から隠そうとする。その様を見てアキラは謝り、靴を履き直した。
「靴擦れ?」
どこか心配気に令嬢はため息をつく。
「学校指定の靴なのに……ああ、毎日履いていればすぐに慣れるわ、きっと」
誘導するような提案を聞きつつ、アキラは違和感の残る足元を見つめる。
やっぱり、いつもの靴じゃないと駄目だ。
そう思い直して、校舎へと歩き出す。
歩むごとに走る痛みは、一昨日の出来事を否応なく思い出させた。




