違う朝
父の夢を見た。
乾いた眼球で天井を見つめる。良い目覚めとは言えない。懐かしく寂しい余韻に浸りながら、アキラは掌で顔を覆った。
伯母が帰ってきたからだろうか。
それとも、大家があんな事を言っていたからだろうか。
いずれにしても、昨日は昔の事を思い出す出来事が多くあった。こんな夢を見るのも無理はない。
悪い夢ではなかった。だからこそ、目覚めた後の虚しさが苦しい。
隣の部屋からは人の気配と、薫製肉を炙る匂いが漂う。
余韻に浸るのはここまでだ。切り替えよう。
アガタの愚痴に耳を澄ませながら、弾みをつけて飛び起きた。誰かが食事の準備をしてくれるのは、久しぶりだ。
「おはよう」
朝の挨拶とともに居間に入る。真っ先にアガタの返事があり、次いで椅子に腰掛け茶を啜っていた伯母がアキラを一瞥し、挨拶がわりとした。
「おはよう、アキラ。そろそろ起こしに行こうかと思ったけど、やっぱり早起きね。はい、ここ座って」
食卓には随分と彩り豊かな食事が並んでいた。昨日までの食品在庫では作れそうにない品々を眺め、アキラは礼を言う。
「ありがとう、アガタさん」
「いいのよいいのよ!朝市色んなお店が出てて楽しかったし」
最後の一品らしい薫製肉の厚切りと目玉焼きを食卓に並べ、アガタは席に着いた。斜め向かいで紀要を眺める教官を睨め付け、口を尖らせる。
「教授、早速今日から人と会う用事があるんでしょ。時間は大丈夫?」
「まだまだ早い」
「準備の時間も忘れないでね」
そう告げて、何かを思い出したように目を瞬かせた。椅子に腰掛けたアキラは身構える。
「準備と言えば!アキラ、制服はどこにあるの」
「部屋にある」
「シワはない?今日着ていけそうかしら」
「うん……」
質問に頷くと、アガタは満足気に微笑んだ。
「ご飯を食べて身支度を整えたら、髪を結いましょ。勿論、ジャージじゃなくて制服を着るのよ?」
「うーん……」
「んもー、そんな不満気な顔しないで」
どこか見知った上級生と似通ったところもある造作の顔を前にして、アキラは黙々と朝食を食べる。柑橘類の果汁と穀物油で和えた葉野菜も、軽く炙った薫製肉も歯切れが良くて美味しい。こんなにしっかりとした朝食は久しぶりだ。
ひとしきり食事を堪能する。その間、伯母は茶を飲み、時たま薫製肉と卵を挟んだパンを齧った。その目は手にした紀要から僅かもそれない。
ふと紀要の中を覗き見ると、見覚えのある姓が記されていた。友人と同じ姓の執筆者の論文を、伯母は読み耽っている。
紀要の背表紙を見るに、伯母の専門からはかけ離れた分野のようだった。どんな内容なのだろう。興味が湧いたが、目の前の助手の輝く瞳に気圧され、匙を持つ手を動かす。
「帰りは何時くらいになるんだ」
紀要に目を向けたまま、伯母が呟く。アキラは少し考え込み、昨日の約束を踏まえて曖昧な返事をした。
「遅くなるかもしれない。六時とか」
「あの店行くのか。いや、別に駄目とは言わないがな」
「ちょっと教授、心配なのはわかるけどあんまり口を出すの、私どうかと思うわ」
双方ともに不機嫌そうな表情をした事に気がついたのか、アガタは慌てて会話に割り込む。三者の間に居心地の悪い沈黙が訪れる。
先に痺れを切らしたのは、シノブだった。紀要を閉じて席を立ち、居間の隅に転がしていた鞄に向かう。
「荷物片付ける」
敗走の言い訳のようにも聞こえた。
多分、アガタがアキラに着くと判断したのだろう。当のアガタにそんな気があったかはわからないが、口論は免れた。
鞄の口を大きく開け、一瞬シノブは動きを止める。しかしすぐに合点がいったようにため息をつき、
「アキラ、これ」
小さな紙包みを放り投げた。アキラは反射的に手を伸ばし、紙包みをしっかりと受け止める。一連の動作に助手は小言を漏らした。
掌の中には、見覚えのある銘菓が収まっていた。
「煉瓦だ」
先程の険呑とした空気はどこへやら、姪は伯母に確認する。
「食べていいの」
「うん」
「私の分は?」
「ない。預かりものだからな」
首を傾げた姪を見て、伯母は口を一旦閉ざす。心当たりがない、と受け取ったのだろう。なんとも面倒臭そうに、銘菓を寄越した人物を告げる。
「ほらあの、フェアリーだ」
「え」
思わずアキラは固まる。
以前のやり取りが脳裏をよぎる。二度も売り切れていた菓子の事を覚えていて、アキラの分も買っていてくれたのだろう。
先程までの居心地の悪さも、制服の準備の面倒臭さも、全てが一気に吹っ飛ぶ。
「それでなんか、色々と言っていたぞ」
続く伯母の言葉に食いつく。もしかしたら、アキラ本人と間違えて迷宮の事について話していたのかもしれない。
どんな話だろうか。
「なんて」
「本人から直接聞けばいいだろ」
不安なような、浮き足立つような心地でアキラは菓子を見つめる。その表情を伯母と助手は珍しいものを観察するように注視していた。
今度会った時は、菓子の礼を言って伯母との会話についても聞こう。いつかもわからない次の予定をしっかりと胸の内に書き留める。
暫く眺めた後、アキラは「煉瓦」を頬張る。
銘菓の名に恥じない美味しさだった。




