麗人
リシア一人が残る放課後の教室で、今日の講義内容を書き写した手帳を眺める。
以前と変わりなく、講師の板書や同級生の質問を書き込んだ精緻な頁だが、肝心な講義内容を思い出すことが出来ない。復習しようにも、靄がかかったように頁が霞み、手が止まってしまうのだ。
今日は一日中、上の空だった。勿論昨日の出来事が原因だ。課題は中断したままで、アキラとは気まずいまま別れてしまった。進展どころか、すこぶる険悪な状況だ。昨日の冒険前の浮き足立った心持ちを思い返し、リシアは頭を抱えそうになった。
振り切るように鞄を肩にかける。これから何をすれば良いのか。依頼をこなす前に、シラーと約束を取り付ける前に、やるべき事があるのではないか。
空き缶が鞄の中で、空虚な音を立てた。
昨夜味もわからないままに腹に納めて、綺麗に缶を洗った事を思い出す。店主もまさか自宅で、それも一人で弁当を食べたとは思わないだろう。折角の弁当を無為なまま食したように思えて、リシアは気が沈む。
我儘だったのかもしれない。
アキラの赤く腫れた足首を見た時、最初に思い浮かんだのは講師との会話だった。
誰が責任を負うんだ。
無論、リシアに決まっている。
なのに昨日、ろくな対処もリシアは出来なかった。ほぼ独断でアキラを迷宮から出し、家に送って、八つ当たりのような事まで言ってしまった。本当にどの口が、あんな事を言えたのだろう。
アキラに「大丈夫」と言わせているのは、他でもないリシア自身なのに。
何度も聞いたその言葉が、怒りとも自責ともつかない感情をもたらす。
アキラの「大丈夫」は、きっとリシアのためを思って出て来た言葉だ。どんなに頼りない迷宮科の落ちこぼれでも、迷宮の中では一蓮托生の同行者だ。迷惑をかけたくないと思うのだろう。きっと、リシア自身と同じで。
それでも「大丈夫」で無茶をされたら、いつかは大きな事故が起きる。あの言葉自体に根拠はないのだから。
アキラの言葉は、リシアには荷が重かった。
唇を噛む。
結局、保身に走ったのだ。どんなに友人の事が大切で危機に晒したくなくても、昨日のリシアの言動は逃避としか取られないだろう。
前回の失敗の繰り返しだ。こんな思いこそ、素直に伝えるべきなのに。
かたん、と微かに空き缶が音を立てた。
そうだ。アキラも弁当を食べたのなら、浮蓮亭に缶を返却しに行くはずだ。そこでもう一度、今度は冷静に正確に、昨日の言葉と本心を告げよう。
降って湧いた名案を、早速リシアは行動に移す。
時計を見る。部活動を行う生徒を除けば、もう学苑から殆ど退出している時間だ。アキラも既に下校しているだろう。
足早に学苑を出る。途中普通科棟の方を振り返ってみると、アキラの教室の窓には人影一つ写っていなかった。
前を向き、制服通りを進む。すれ違う生徒達が第六班所属のように見えて、せわしく周囲を伺ってしまう。今回の依頼も、「次」があるのか正直疑わしい。シラーに任せてしまった方が良いのではないか。そうすれば少なくとも依頼は完了できる。
こめかみを揉む。優先事項が入り乱れて、頭が痛い。浮蓮亭で席に着いて、あの少し風味のついた水を飲めば少しは頭が回るようになるのだろうか。取り留めのないことを考えていると、不意に対向からやって来る人物に目を引きつけられた。
流行りの細身の外套を身につけた、背の高い男だった。大きな旅行鞄を二つ提げ、辺りを見回している。身なりを見る限り冒険者ではない。ジオード辺りから仕事か、迷宮見物にでもやって来たのだろう。
色素の薄い目が、一点を見据える。道に迷っている様子の彼が気になったのか、女学生の三人組が話しかけて来たのだ。一人の女学生が何か問い、男は笑みを浮かべてそれに答える。その瞬間女学生達は顔色を変え、頭を下げて早々に立ち去っていった。
一連の流れを見て、リシアは訝しく思いつつ男の側を通り過ぎる。
ふわりと品の良い香水の香りが漂った。そこに混じった白粉の匂いに気が付き、思わずリシアは顔を向ける。
男と目があった。
涙ぼくろが特徴的な、整った顔立ちだった。化粧に気がつかなければ、見惚れていたかもしれない。いや、目が反らせないのなら同じ事だ。
「あのぉ……」
固まるリシアに「男」が声をかける。
「ちょっといいかしら、お嬢さん。私道に迷っちゃって。ここって水鳥通りであってるかしら?」
なるほど。
まったく状況を理解は出来ていないが、何かを察する。
そういう人か。
「水鳥通りでは、ないです」
何とか呟くと、男は溜息をつく。
「やっぱり……」
「水鳥通りは、駅から向かった方がいいですよ」
「駅?」
首をかしげる男を見つめながら、リシアはこの場から立ち去る方法を考える。しかし捕まってしまった以上、道は一つしか残されていない。
「……駅まで行ったらすぐに水鳥通りは見つかるので、一緒に行きましょうか?」
恐る恐る提案すると、男は目を輝かせた。
「ほんと?助かるわあ、ありがとう!」
微笑む男につられるように、リシアも愛想笑いを浮かべる。駅の方向を指差して足を進める。
駅まで一緒に歩くだけだ。時間を取られるような事でもない。
そう考えた矢先、
「リシア」
名を呼ばれる。
辺りを見渡すと、赤いジャージの声の主はすぐに見つかった。
同じく浮蓮亭に向かう途中だったのだろうか。リシアから少し離れたところに立っていた少女は、夜色の瞳をリシアから男へと向ける。そうして、驚いた様に口をわずかに開いた。
アキラ、と探し人の名を呼ぶ。
しかしその声は、隣に立つ男から発せられた絹を引き裂く様な叫びにかき消されてしまった。




