中断
真っ先に動いたのは、当事者のゾーイではなくアキラのように見えた。斥候の肩を押し、獣の軌道から僅かに外す。
その勢いか、体勢を崩したアキラは鋤を取り落とし、よろめいた。ちょうどゾーイがいた場所で、アキラは尻をつく。
その様子を目にしてやっと、シラーが柄に手をかけた。リシアも遅れてウィンドミルの白刃を滑らせる。
獣の奇襲を受け、一行は完全に出遅れた。
シラーの抜刀もアキラの立て直しも間に合わない。
獣の牙が、アキラに届く。
刹那、リシアの頭上で空気が震えた。
一本の矢が、獣を弾き飛ばす。
地に叩きつけられ、なおも体制を整えようとする獣の額に、更に一矢。
僅かな痙攣とともに、獣は絶命した。
「大丈夫ですか」
いつもの穏やかさを多少欠いた声を聞き、リシアは振り向く。
最後尾のフェアリーが、構えていた武器を下ろした。
弩だ。
「ありがとうございます」
鋤を取り、アキラは立ち上がる。その体が再びよろめいた。
「危ないところだった」
剣を抜いたままシラーはため息をつく。尻をついていたゾーイの手を取り、立ち上がらせた。そしてアキラと同じように、夜干舎の二人に礼を述べる。
「ありがとうございます。対応が遅かったら、どうなっていたか」
「まあ目立って怪我も無くてよかったよ」
ケインも安堵したように、耳を垂らした。一方のライサンダーは列を外れ、獣が完全に生き絶えたかを確認する。
「……見てください」
首の皮をつまみ、代表に死体を見せる。
標準よりも大きな体躯の、歳を経たクズリだ。こんな大物がまだ第三通路にも潜んでいたのか。リシアは繁々と眺める。
「傷が多いな」
毛並みを確認してケインは呟く。一撫でした後の掌は、べっとりと血で濡れていた。矢傷から溢れ出た量には思えない。
「これは、安く買い叩かれるぞ」
腕を組むセリアンスロープの足元で、フェアリーは解体を始める。外套の内から見覚えのある短刀が現れ、クズリの正中線に切れ目を入れた。
「手伝いましょうか」
「大丈夫です」
傍にしゃがみ込むシラーを、ライサンダーは制する。
「……あなた方に渡せるものが、あまり無いですね。結石があれば良いのですが」
「臭腺があるでしょう」
鈴を転がすような声が響く。ケインが耳を立たせた。
リシアは内心、唖然とする。さも当然、と言うような声音だったからだ。
クズリの毛皮以上に高額で売れる部位は、臭腺だ。希釈して忌避剤や香水に用いられるそれは、一頭から僅かな量しか取れない。以前の蟲退治で垣間見た「冒険者の掟」に則れば、臭腺を貰い受ける権利は夜干舎にあるはずだ。むしろこちらに分け前がある方が、不思議なくらいなのだ。
「マイカ」
班長が声の主の名を呼ぶ。リシアの前に立つ聖女は不安げに小首を傾げた。たしなめられた、というのはわかるのだろう。ただその理由が思い当たらないだけなのだ。
シラーは少し申し訳なさそうな顔で、夜干舎の代表に向き直る。
「確か、とどめを刺した冒険者が一番良い部位を貰えるんですよね」
「それが一般的かな。全部貰い受ける組合もあるけど……学苑ではどうなんだい」
「とどめを刺した班の資金にしたり、班員で分配したり、様々です」
二人の代表はクズリの処遇について話し合う。その間黙々とフェアリーは作業を行なう。
その向かいに、アキラがしゃがみ込んだ。
「……何かに襲われたのでしょうか」
赤ジャージが呟くと、フェアリーは皮と肉の間に差し込んだ手を一瞬止める。その後、皮を内側から探り始めた。
「確かに、新しい傷です」
「クズリを襲う生物って、どんなものがいるんですか」
「同種か……ネズミですね。群れるとどんな生き物にも食らいつくようになるので」
ケインの言葉を思い浮かべる。気が立っているのは、クズリだけとは限らないようだ。
粗方解体を終え、ライサンダーは代表に報告する。
「結石が一つ」
「じゃあ、それは君達に」
「僕たちは何もしていないのに……申し訳ありません」
「同行者にも何かしら分け前がないとね」
セリアンスロープは口を弧のように曲げる。そうして、血にまみれた小さな臓物を拾い上げた。
「では一番良いのは我々が」
ゾーイが結石を、セリアンスロープが毛皮と臓物を革袋に仕舞うのを見届けて、シラーは号令をかけた。
「集合」
班員一人一人の様子を確認するように、シラーは周囲を見渡す。
「ゾーイは」
「問題ありません。彼女が、避けてくれたので」
頭を下げつつ、ゾーイはアキラを指し示す。班長は赤ジャージの姿を見つめ、微笑んだ。
「アキラはどうかな。結構派手に転んでいたけど」
「……大丈夫です」
ほんの少し憮然とした様子で、アキラは答える。その返答にシラーは頷いて、夜干舎の一行に向き直った。
「お世話になりました」
「こちらこそ。また会おう」
「お気をつけて」
深々と頭を下げる両代表につられるように、リシアも礼をする。
「行こう」
シラーが指示を出すと、先程よりも慎重にゾーイは小通路の中を伺う。足下を灯で照らしながら先に進み、その後にアキラが続く。
なんでもない一歩に、リシアは違和感を覚えた。
「アキラさん」
鋭い声が響く。アキラがよろめき、振り向いた。
声の主はフェアリーだった。学苑一行が注視する中、再び大顎を開く。
「足を痛めていますね」
アキラの唇が引き結ばれた。
リシアが視線を下ろすよりも早く、シラーがマイカを手招いた。
「マイカ、確認を」
「は、はい」
聖女は駆け寄り、アキラをその場に座らせた。
靴の履き口から、腫れた足首が覗く。
患部を指で長さを測るような仕草をして、マイカは背嚢から包帯と添え木を取り出す。
「捻ったようだね」
珍しく真顔でシラーは呟く。ただただ治療を見守ることしかできないリシアの背中を、冷たいものが伝う。
「リシア」
夜色の瞳がリシアを見上げた。
迷いの無い、見慣れた瞳。
だからこそ、その後に続く言葉は容易に想像できた。
「私は」
「大丈夫じゃ、ない」
言い放った言葉は、思いの外低く響いた。
アキラが見たこともない表情を浮かべる。
彼女も戸惑うのか。
どこか他人事のような感想が、脳裏をよぎる。
「……アキラさん」
再びフェアリーが、少女の名を呼んだ。アキラの目に異種族の姿が映る。
「一人だけで、迷宮にいるわけではないでしょう」
あ、とか細くアキラが呟いたように思えた。
組合員の背を、セリアンスロープがたしなめるように軽く叩く。触角を僅かに跳ね上げ、ライサンダーは頭を垂れた。
アキラが再び何事か告げようとする。その唇から声が溢れる前に、リシアは決断した。
「帰ろう」
同行者の右腕を、肩に回す。背は足りないけど、少しは助けになるだろう。
斜めに見上げると、少し青褪めた顔がそこにあった。いたたまれないように、瞳を逸らす。
ごめん。
そう告げて、アキラは口を閉ざした。




