裏腹
大きく欠伸をして、ジャージの少女は机に突っ伏す。遅くまで部屋の掃除をしていたからか、妙に目が冴えて昨晩は一睡も出来ていない。そのツケが、お昼間際になって回ってきたようだ。
腹は減っている。だが眠い。
このまま仮眠時間にしてしまおうか、と微睡んでいると、不意に視界が陰った。眠気のためではない。側に立った人影を確認するため、のっそりと起き上がる。
「あ、お、起きてたんですね」
予想外の人物の顔を目にして、アキラは内心驚く。先程まで授業を行なっていた、数学の講師だったからだ。
脳裏をよぎったのは、「注意」の文字だった。
船を漕いでいたのを見られていたのか。
居住まいを正し、講師の言葉を待つ。一方の講師は眼鏡を直したり袖口の釦を止めたりしながら佇んでいる。落ち着きがない。先程の授業の時も白墨を落としたり、教科書の何章か先の式を解こうとしていたので、そういった性分なのだろう。
「何か、ご用件でも」
なかなか切り出さない講師に、アキラの方から促すように問う。昼休みだからか、教室の隅で女生徒が数人語らっている他に人影はない。当の女生徒達も会話に夢中で此方を気にかける様子はない。だと言うのに、講師は周囲を見回し、何とか一言告げる。
「いえ、何でもありません。お昼休み中に失礼しました」
返ってきたのはそんな言葉だった。居眠りを嗜めに来たわけではないことに、アキラは安堵する。講師は唐突に頭を下げて、教室から急ぎ足で出て行った。
今年から教壇に立つようになったらしい若い講師を見送り、再度アキラは机に伏す。目を閉じると、瞼の裏に浮かんだのは薄暗い迷宮の情景だった。
苔むした暗渠、蒼い地底湖、どこまでも続く通路……ほんの数週間で、随分と迷宮にのめり込んでしまった気がする。最近は寝ても覚めても迷宮のことばかり考えている。こんなに何かに夢中になるのは、初めての事だ。
昨日、ふらりと迷宮へ足を進めていた時の不思議な感覚を思い起こす。ヒトは何かに夢中になると、あのように衝動的な行動をとるのだろう。ライサンダーに呼び止められなければ、本当に迷宮に下って行っていたかもしれない。
後ろめたい思いが沸き上がる。
一人で迷宮に立ち入ってはならない。
ずっとリシアを悩ませていた「学則」は、普通科のアキラにも影響を及ぼしていた。いや、冷静に考えれば、一人で迷宮に行くことがどんなに無謀なことなのかはすぐにわかる。裏を返せば、あの時のアキラは冷静では無かったのだ。迷宮はリシアと一緒に行く。そう決めていたのに。
それほどまでに、迷宮に惹かれている。
それは、当のアキラにも理解できない感情だった。何故だか不純な気がして、他のことに意識を向ける。
迷宮ではない何か。
脳裏に伯母の顔が浮かぶ。そういえば、いつ頃帰ってくるのだろうか。手紙に具体的な日付は記されていなかったが、伯母が現在生活の拠点としているジオードからエラキスまでは、一日も乗合馬車に揺られれば着く。今日の夜か、明日にはやって来るはずだ。
夕飯は、こんな時くらいは手の込んだものを作ろう。そう思い立ったはいいが、最近はパンに何かを挟むだけの簡単な料理や外食ばかりだからか、良い献立が思いつかない。そもそも家に食材もあまり残っていない。放課後はまた買い出しに行った方が良さそうだ。今日も放課後は、庭球部に差し入れを渡す以外は特に用はない。
買い物をして、大家の様子を見て、食事をして、明日の準備をして。
まるで、リシアに会う前に戻ったようだ。
そうだ。リシアと伯母。
考え事をしているうちに冴えてしまった目で、教室の前方に取り付けられた時計を見上げる。まだ時間はある。
アキラは席を立ち、中庭へ向かう。以前、リシアと話した事を思い出したからだ。
地底湖で先史遺物を倒した時に手に入れた、淡く輝く「炉」。あれの処理について、リシアは悩んでいたはずだ。
その手の伝手なら、伯母には沢山ある。帰ってきたら、何かの折に話してみよう。その前に、リシアにも伝えておいた方がいい。
だがそうなると、伯母に迷宮のことも話さなければならなくなる。
アキラは踊り場で立ち止まる。
伯母のことだ。おそらく、小言の二つや三つは返して来るだろう。勉強はちゃんとやっているのかとか、変なところ入り浸ってないだろうなとか。勉強はともかく、浮蓮亭は決して変なところではないはずだ。
では、迷宮は。
暫しアキラは悩む。普通、迷宮と聞いて人々が思い浮かべるのは「危険」だ。相応の利益をもたらすが、命をも落としかねない場所。そこに潜り、あまつさえ蟲や先史遺物と対峙したと知ったら。
わかってくれるだろうか。
アキラは再び歩み出す。ひとまず相談をしてみよう。
昼休みにリシアが居そうな場所は三択だ。まずは手近なところに行こう。普通科棟と迷宮科棟を結ぶ渡り廊下へと、アキラは向かった。
結局迷宮のことを考えている。
一人で呆れて、溜息をついた。




