心がまえ
職員会議が終わる時間だ。
席を立ち廊下に出る。微かに扉が開く音がして、何人かの足音が響いた。斜陽が照らす校舎を、周囲を伺いながら歩く。どこか後ろめたい心地だ。それでも足は真っ直ぐ、講師室まで向かう。
途中、すれ違った数学の講師が訝しげな顔でリシアを呼び止めた。
「きみ、迷宮科か」
高圧的な言葉に、リシアは一瞬言葉を詰まらせる。
「は、はい」
「そろそろ閉門だ。早く出なさい」
「わかりました」
曖昧に笑って返事をする。講師が去ったのち、先を急いだ。
まだ騒がしい講師室を覗く。入り口近くの席で人影が何人か、重々しい口調で話し込んでいる。
扉の前に立ち、聞き耳をたてる。
「……最近、怪我を負って退学する生徒が多いな」
「いくら王府の方針とはいえ、後処理も楽では無いだろう?」
壮年の男が二人、糾弾するように述べる。二人の言葉を椅子に腰掛けて聞いているのは、よく見知った講師だった。口を真一文字に結び、男達を見据えた講師の姿は、リシアのような小娘には迂闊に口出し出来ない気迫が漂っている。しかし男達はそんな講師にも容赦無く、言葉を浴びせかける。
「良心は痛まないのか、元冒険者殿」
男の発言に、リシアは眉を顰める。
何故講師が非難されるのだろうか。迷宮科の生徒なら、怪我の一つや二つは覚悟している。無論、それが原因で退学になる事も。
言わば自己責任だ。だから、講師が罪悪感を抱く由縁は無いようにリシアには思えた。
講師の返答を待つ間も無く、一方的に吐き散らして男達は出て行った。扉の側に佇んでいたリシアを見つけ、少しバツの悪そうな顔をする。
「……よく勉学に励むように」
そう言い残して去って行く。外套を翻した後ろ姿を見つめ、リシアは納得する。
普通科の講師だ。
それなら、迷宮科の内情を知らないのも致し方ないのかもしれない。
再び講師室の中を覗き込む。書類を前に作業を始めようとしている講師に、上ずった声で話しかける。
「し、失礼します」
硬筆を取ったまま講師は動きを止める。どうぞ、と奥にいた女性講師が代わりに入室を促した。
講師の側に立つ。どう話を切り出そうか僅かに悩んでいると、先に講師が口を開いた。
「今日の要件は」
いつもよりも幾分か冷淡な声だった。当然だ、と内省しつつリシアは一つ目の要件から述べる。
「アルフォスの処遇は、どうなりましたか」
「……停学だ。色々と、他の問題も出てきたからな」
講師の答えに、リシアは思わず目線を足元に向ける。停学は退学を促すために存在しているようなものだ。
「纏めていたものがあっただろう。あれはまだ保管しておいた方がいい」
「はい」
「それと、診断書は」
そう言って、講師はこめかみを指差す。まだ微かに熱を持った傷に触れ、首を振る。
「いいえ……」
「校医に相談しなさい。かかりつけの医者がいるならそれでも構わない」
身を守る術を用意しろ、という事なのだろう。リシアは頷く。
「他には」
講師が問う。
そうだ。今日はこれを話すために来たのだ。
「……図書館でシラー先輩が言っていたことを、覚えていますか」
隻眼が訝しげに細まる。その目が恐ろしくて、リシアの声が上ずった。
「班に混ぜてもらっていたという話か」
「はい」
本当は。
「本当は……違うんです。ずっと、別の人と一緒に迷宮に行っていました」
迷宮でずっと側にいてくれたのは、けして憧れの先輩ではない。赤いジャージを身に纏った、夜色の瞳の少女だ。
「普通科の子です。彼女と一緒に、蟲の素材も、ハチノスタケも、植生調査も……」
声が詰まる。
暫しの沈黙の後に、講師が口を開いた。
「最初に言っていたことが、真実だったのか」
リシアは頷く。
硬筆を置き、講師は姿勢を変えた。リシアに向き直り、低く呟く。
「生徒手帳は持っているか」
背中を冷たいものが下りるのを感じながら、制服の懐に収まっている生徒手帳を取り出した。
没収でもされるのだろうか。
それは、どういう意味なのだろう。
生徒手帳を差し出すような姿勢で考え込むリシアに、講師は声をかける。
「この手帳は、何のためにあると思う」
思いがけない質問に、リシアは講師を見つめる。いつもと同じ、険しい顔つきだった。
何のためにあると思う。
所属を表すため。身元を特定するため。為すべきことを確認するため。
様々な憶測が浮かんでは消える。どれも正しいのだろう。だが、今の質問の答えではないような気がした。
沈黙するリシアから、講師が生徒手帳を取った。するりと手から抜け出た手帳を、どこか他人事のように見つめる。
裏表紙をめくり、講師は生徒手帳をリシアに差し出す。
見慣れた筆記体。豪奢な印章。
入学当初に書いた覚えのある署名を見て、リシアは理解した。
「覚えているな」
「……はい」
迷宮科の生徒が怪我によって退学を余儀なくされた場合、国から補助が下りる。
身体が不自由な生徒とその家族が、細々と生きながらえることが出来る程度の金額だ。
迷宮科に入学する貴族の子女にとっては、最後の望みとも言える。
「この署名も学則も、迷宮科の生徒を守るためにある。これがあれば国が、学苑が……責任を持つことが出来る」
だが、と講師は言葉を切った。
「普通科には、こんなものは無い。彼らが迷宮で行き倒れたり体の一部を無くして生活に支障をきたしても、国や学苑が手を差し伸べることは無い」
硬質な音が響く。
講師の人差し指が、膝を軽く叩いた音だった。布の下に在るのは、生まれ持った肉体ではない。
「リシア・スフェーン。同行してきた普通科の生徒に何かあった時のことを考えた事があるのか。もしもの時に、責任を負う覚悟があるのか」
灰色の隻眼に、微かな感情の昂りが見えた。
頰と額を赤く濡らした、いつぞやのアキラの姿が脳裏をよぎる。「もしもの時」は、きっとまた訪れる。その時にアキラが五体満足で、生きている確証は無い。
覚悟があるのか。
心中で幾度となく木霊する質問に、迷宮科の少女は、答えることが出来なかった。




