回遊
夕日を背に受けた少女に駆け寄る。いつもと同じ姿、同じ表情。挙げたままの手をそっと下ろして、アキラは他人行儀な会釈をした。
「も、もしかして探してた?」
「ううん。ここにいると思ってたから」
夜色の瞳が、リシアの背後を見据える。ナグルファルを見つめているのだろう。
「元気そう」
そう呟く声音はどこか穏やかだった。アキラも彼の処遇は気がかりだったようだ。
「……講師に、報告は出来た?」
リシアの背後から視線を動かさず、アキラは尋ねた。頷きかけて、首を横に振る。
「アルフォスの事は出来たけど、あなたの事はまだ」
それどころか、嘘の情報を伝えてしまった。シラーは「機転」を効かせてくれたのだろうが、あれで、良かったのだろうか。
意を決して、アキラの瞳を真っ直ぐに見つめる。
赤いジャージの少女は少し驚いたように、目を見開いた。
「怖い」
一拍おく。
「私、怖いの。あなたの事を講師に伝えたら、あなたに迷惑がかかるんじゃないかって」
目を丸くしたまま、アキラは静かにリシアの言葉を聞く。
「確かに明記はされてないけど、それって裏を返せば、講師陣の裁量次第って事だよね。私はともかく、アキラが停学や退学になったら、どうしよう」
声が小さくなっていく。落ちていく視線が、ついにアキラの革靴を視界に入れた。
「今更だけど、迷ってる。本当に全部話していいの」
「いいよ」
唖然とするほど明朗な答えが即座に返ってきた。
「いつまでも秘密にしておけるものじゃないと思うし、ずっと秘密を抱えるのも、辛いと思うし」
そう言って、溜息をつく。呆れから来るものではない。決意の溜息だった。
「……リシアと一緒に迷宮に行こうと決めたのは自分自身だから。後悔なんてしてないし、不利益を被ったとしてもリシアを責めたりしないよ」
その言葉を聞いて、リシアは気付く。昨日から、いや、最初からアキラは覚悟が出来ていたのだ。
アキラと共に第三通路を歩いた時の感傷が甦った。彼女はリシアよりもよほど、冒険者としての心構えが出来ているのだと、改めて思い知る。
「ありがとう、アキラ」
浅はかな自分を恥じつつ、礼を言う。
「あなたはずっと、一貫しているのに」
アキラは少し視線を泳がせ、立ち尽くすリシアに声をかける。
「迷うのはよくある事だと思うけど」
そして少し一歩引いた目で、リシアを見つめた。
「誰かに言われて、不安になった?」
「……うん」
恥ずかしい事だが白状する。
リシアの返答を聞いてアキラは口を真一文字に結んだ。
一瞬、きらきらと夕日を翻す水路の流れを見つめる。赤と金が乱反射して、目が眩む。
「それって、あのシラーって人?」
その名がアキラの口から出た事に、少し驚く。
「う、うん」
「……そっか」
そう呟いて、アキラは考え込むように目を細めた。どこか不信感を湛えた瞳が不意にリシアを映す。
「あの人、気をつけた方がいい」
忠告だった。
その声が、瞳が、あまりにも真摯でリシアは息をのむ。心を見透かされるようで、思わず目をそらした。
朱を映す水面に夜が滲む。
色が暗く濁っていく様を、しばし二人は見つめていた。
革鞄を開けると、潮の香りが漂った。どこか生臭さが混じる香りに胸を高鳴らせ、覗き込む。
「これが、竜涎香?」
灰色の塊に触れ、指先を嗅ぐ。う、とリシアは顔をしかめた。
その様子を見て、ナグルファルが笑う。
「いい匂いではないだろう?私も不思議なんだ!何故地上ではこれを有り難がるのか」
至上の香りと評される竜涎香も、火に焚べなければただの生臭い塊だ。鼻を擦りながらリシアは頷く。
その隣で、アキラもまた竜涎香の香りを嗅いだ。変わらぬ無表情で、「臭いね」と呟く。
「珊瑚はどうだ」
ざらついた棒を取り出す。加工前の珊瑚を見るのは初めてだ。この状態でも、薄っすらと赤みがかっている。研磨するとより赤が冴えるのだろう。
珊瑚を数える。
「七本ある」
「うん、よし」
「竜涎香は塊が三つ」
それから、と鞄の奥を探る。無造作に布に包まれた乳白色の歪な玉を取り出し、感嘆の声を上げる。
「これ……すごい」
遊色を眺めながら目を輝かせるリシアを見て、得意げにナグルファルは声を張る。
「ふふふ、この真珠を手に入れるのは苦労した。なにせ」
「おい、確認は終わったのか」
水路脇に佇んでいた兵士ががなる。溜息のように潮を吹き、オークは尾鰭で水面を叩いた。
「急かされてしまった」
オークのぼやきにリシアは寂しげな笑みを返す。
幸いと言うべきか。二日の拘留の後に、ナグルファルは解放される事になった。リシアの発言が功を成したのか、あるいは冒険者達の反発を鑑みたのか。ともあれ、ナグルファルには何の咎めも無かった。
それでも、衛兵達の反応は冷たい。見送りも良い顔はされなかったので、荷物の確認を請け負う第三者として、何とかリシアとアキラは接触することが出来た。
その確認も終わり……別れとなる。
水路に鞄を落とす。水中で広がる帯に器用に胸鰭を通し、ナグルファルは旅装を整える。
「それでは、世話になった」
「こちらこそ。助けてくれてありがとう」
ナグルファルに手を差し出す。リシアの手を不思議そうに見つめた後、合点がいったように胸鰭で触れる。
「アキラ嬢も」
「また会えたら」
同様に、アキラも握手をする。
エラキス式の別れの挨拶を交わした後、オークは上体を起こし、吻を近付ける。思わずリシアは目を瞑る。最初に暗渠で会った時と同じ挨拶だ。
続いて、生温かく柔らかな未知の感触が頰に触れる。
あ、と隣でアキラが小さく声を上げた。
目を開けると、既にオークは水中に潜っていた。
「……やはり小さいな、リシア嬢」
再び浮上し感慨深く呟くオークを見つめ、憮然とする。
「今のは別れの挨拶でもあるの?」
「そうともそうとも……本式はこうだが」
ナグルファルは不思議な旋律を歌い始めた。今までに聞いたどのオーク語よりも、軽やかでどこか希望に満ちた歌に、二人は耳を傾ける。
「……別れと、再会を祈る挨拶だ」
歌を終え、ナグルファルは告げる。
尾鰭を翻し、水路を下流へと向かう。
「それでは。また会える時まで……その時までにここからジオードに続く水路が開拓されているといいが」
冗談交じりに愚痴を告げつつ、ナグルファルは去っていく。
「さよなら」
三人は別れを告げる。
再び、旋律が響いた。リシアも追うように口ずさむ。耳で聞き取った音だから、意味を成しているのかもわからない。それでも、次第に調和していく歌声が心地良い。
黒い帆のような背鰭が見えなくなるまで、合唱は続く。
こんなに歌ったのは、久しぶりのことだった。




