向き合う時
水路の一画を、黒い帆が揺蕩う。暇を持て余したようにぐるぐると泳ぐ帆を遠目に見つめて、少女は溜息をついた。
「そんなに離れていると、声が届かないのでは」
不意に帆が声を発する。少女は恐る恐る路地裏から姿を現し、水路の傍まで近寄った。
周囲を気にしつつ縁に腰掛け、巨大な異種族に小声で囁く。
「気付いてたの」
「水の中は意外に音がよく聞こえる」
ともあれ、元気そうで何より。
そう言ってナグルファルは浮上した。
「お咎めは無かったのかね」
「少し注意をされたぐらい。あなたが解放されるのも近いかも」
「だと良いが」
ナグルファルの処遇については、リシアの証言もあって穏便に済みそうだった。結局、彼は何もしていないのだから。
しかしこの件で、冒険者達はエラキスに不信感を抱いたに違いない。これからどのように冒険者の対応をしていくのか。それについては既にリシアがどうにか出来る事ではない。
「目下の不安は、荷物がどうなったかだ」
ざぶりと白い腹を空に向け、ナグルファルは背泳ぎをする。革の帯と荷物が無くなっている。丸腰同然の姿だった。おそらく、没収されたのだろう。
「あれがないと今回の行商が……」
「だ、大丈夫。返してくれるよ」
そうは言ったが、税だの費用だのの関係で幾らか抜き取られる可能性もある。そういった事も含めて、エラキスとナグルファルの間ではまだしっかりとした話し合いは行われていないようだ。
まるで幽閉だ。
それもこれも、リシアが足を滑らさなければ。
「……あんなヘマをしたから、だよね」
「ヘマとは?」
そう問いかけたすぐ後に、ナグルファルは合点がいったように頷く。
「水路に落ちて溺れたことかね」
「うん。私がしっかりしていたら、助けてくれたあなたに疑いがかかる事も無かったのに」
「あの時君を助けていなければ、そもそも正体を告げたり弁解をする機会もなかった。右往左往している間に銛を打ち込まれていただろう」
奇遇だったのだ。
言い聞かせるように、ナグルファルはゆっくりと告げた。その言葉を聞いて少なからずリシアは気が安らぐのを感じた。
「ところでリシア嬢、ご用件は」
「え?あ、えーっと」
「私を気にかけて来てくれたのならそれはそれで嬉しい」
オークはリシアの足元まで近付く。意外につぶらな瞳に見つめられ、リシアは思わずこぼしてしまった。
「……ごめんなさい、逃げてきたの」
「逃避行とな」
相手は少々大袈裟な驚き声を上げる。
「リシア嬢、思ったより大胆なのだな」
「大胆って、放校とかそういうわけじゃないし」
ぶくぶくと溜息をつくように泡が浮き上がる。
「む……何から逃げてきたのだね」
ナグルファルの言葉に、リシアは考え込む。
講師、先輩、アキラ。嘘をつく事、自白する事、冷静になる事。色んなものから逃げてきてしまった。
昨日本当の事を告げて浮かれていたのが嘘のように、今は暗澹とした気分だ。
気持ちを整理するためにも、リシアは一つ一つ言葉に出して並べてみる。
「秘密にしていたことがあって、それを言おうとしたのだけれど」
「ふんふん」
「本当に言っていいのかなって、聞かれたの」
「……それは、第三者に聞かれたのか」
おそらく要領を得ないだろうリシアの言葉に、ナグルファルは疑問を返す。その疑問にリシアは頷き、違和感を覚える。そういえば、シラーはいつからアキラが普通科だと気がついていたのだろう。いや、それ以前に、何故ここまでアキラとリシアの問題に関わってくるのだろうか。
疑問はさて置き、ナグルファルの言う通り彼は第三者だ。第三者の言葉に翻弄されて、一体、何をしているのだろう。
だが、シラーの言葉は未だ澱のように残っている。あの時、彼の言葉に納得しかかってしまったのも事実なのだ。
この澱を解消するためにも、アキラ本人に聞かないといけない。でも。もし、先輩の言う通りなら。
やるべき事はわかっているのに。また堂々巡りだ。
リシアは両膝を立て、顔を埋める。
「うーん、そんな無責任な立ち位置の言葉を鵜呑みにしちゃいかん」
ナグルファルの苦言もまた、身に染みる。
「問題は君と、誰かの間にあるのだろう。なら二人で話し合うべきだ」
「……そうだね」
おそらく話し合うまでもない。答えはもう出ていて、リシアが二の足を踏んでいるだけなのだ。
「ただ、逃げると言うのもわからんでもないな」
ナグルファルは薄く潮を噴いた。胸鰭を扇ぎ、水面を波立たせる。
「向き合う事が怖いのは、オークもドレイクも関係ないと思うのだが、どうかね」
その通りだと、思う。
リシアは目を伏せる。向き合うべき人の顔が浮かび上がる。彼等には誠実でありたい。
「私も正直、エラキスの役人達と向き合うのは怖い……今すぐここから逃げ出してしまいたい」
ナグルファルはぼやく。
「一緒に逃げようか、リシア嬢」
「へ、え?」
突飛な提案に、思わず素っ頓狂な声を発してしまう。提案元のオークはどこか嬉しそうに、水路を小さく回遊し始めた。
「私もリシア嬢も悩みの種から解放されて、一件落着だ」
「待ってそれ」
解決になっていない。むしろ新たな問題が湧いてしまう。
「そうだな、君の一人や二人ぐらいなら背に乗っても問題はない。だが昨日のように咥えるのは、あれはいかん。何かの拍子で食べてしまいそうになる」
ひやりとする発言を聞き流しながら、リシアは制する。
「それは……ダメ!」
「そうだろう」
冷静な返答だった。
思わずリシアは言葉を失い、水路を覗き込んだまま動きを止める。
「逃避行も魅力的だが、君にはやるべき事がある。それは君が一番よくわかっているだろう……安心したまえ、まだ少し寄り道をしたくらいだ。間に合うとも」
水面が盛り上がり、ナグルファルは上体を水路の縁に引き揚げた。吻が一方を指し示す。
「奇遇だ」
誰かに声をかけるようなナグルファルの口調に、思わずリシアは辺りを見回す。
水路の下流、橋の袂に赤い人影が立っていた。
少女はこちらをじっと見つめ、不意に手を挙げる。
「辛抱強いのだな、君の友人は」
どこか揶揄うように、ナグルファルは囁いた。
リシアは立ち上がる。彼女に呼応するように手を振り、一歩足を踏み出した。
今が向き合う時だ。




