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歌姫

静かな朝が訪れる。


「怪物騒動」から一夜明けて、エラキスはいつもの様相に戻ったかのように見えた。


怪物は、どうやらオークという異種族だったらしい。敵意のない異邦人に刃を向けたエラキスは事の重大さに気付き、一転、オークの保護収容を声高に布告した。


渦中のオークは現在、水路の一画で自身の処遇が決まるのを待っているらしい。その周辺は一部の人間以外立ち入りが禁じられ、昨日の騒動以上の厳戒態勢が敷かれているようだった。


結局、怪物なんてどこにもいなかったというわけだ。


まったく笑えない話だ。


一人思いつめて、リューは爪を噛む。


第一発見者のリューに改めて聴取があったのが昨夜。役人の口調は終始、リューを非難するようなものだった。家族も教師もまた、リューの発言が醜聞になるのを恐れているようだった。


私が悪いのか。


そう叫び出しそうになって、頭を抱える。そんなはずはない。自身をなだめ、安堵させようとする。今は異種族を気にかけている場合ではないのだ。為すべきことは一つしかない。建国節までに歌を仕上げ、リューの、自分だけの歌を、皆に認めさせるのだ。


息をつく。


練習をしよう。そうすれば、気も晴れる。


譜を広げ、表面をなぞるように眺める。しかしすぐに目をそらす。譜面どおりの歌では駄目だ。そう思ったから、こうして一人で歌っているのだ。


芝生を踏む音が聞こえる。


音の方に顔を向けると、朝日の下に聖女が現れた。


「御機嫌よう」


マイカが微笑む。訪れた「理解者」を、リューもまた笑顔で出迎える。


「今日も来てくれたの?」

「ええ。ここにいる気がして……」


マイカは表情を曇らせる。花弁の唇を開いて、そっと囁いた。


「昨日の騒ぎ。リューは最初に怪物を見たのでしょう?変わりはありませんでしたか?」

「何も、なかったわ」


思い出したくもない。顔を背け、制服の裾を握り込む。


「怪物の話は、やめて。建国節に集中したいの」

「……ごめんなさい。そんなつもりじゃ」


マイカの双眸が潤んだ。途端に罪悪感を感じて、思わずリューは謝罪する。


「いいえ、私も悪かった。少し語気が荒くなってしまったわ。ごめんなさい」


こめかみを押さえる。何故だろう。苛立ちがおさまらない。


「今から練習ですか?良ければ、聞いてもいいでしょうか」


マイカは首をかしげる。いつもと同じ申し出だ。断る事など無いのに。マイカもそれはわかっているようで、了承の返事も待たずにリューの隣に腰掛けた。


「ええ」


頷く。


そうしていつもの通り、練習を始めた。


発声を経て一通り準備を終えた後、歌い始める。中庭を通る生徒が足を止め、リューの歌を聴いている様子が視界の隅に入った。


独りよがりなんかでは無い。


気を良くして、リューは更に声を張る。


微かに震える旋律の余韻を残して、口を閉ざす。傍らに座るマイカが拍手を送った。


「素敵な歌」


リューは頷く。先程、周りで歌を聴いていた生徒の反応はどうだろうか。周囲に目を向ける。


生徒は早々に立ち去っていた。迷宮科の制服を纏った後ろ姿を見つけて、密かにリューは面白く無い気分になる。


「……一生、大晶洞を見ることもないでしょうに」


毒を吐く。直後、はしたない真似をしてしまったことに気が付いて口を塞ぐ。


傍らのマイカは微笑を浮かべている。目の前で他人を非難したというのに、まるで変わらないその表情がどこか不自然で、リューは目をそらす。


「立ち聞きは失礼だと思ったのかしら。市井の歌手とはわけが違うのだから」


支離滅裂な事を口走る。そうでも思わないと、不安になるからだ。


取るに足らない歌だったから、離れていった。


その可能性がただただ怖い。先程まで、あんなに自信があったのに。


いや、不安を押し込めていただけなのだ。


「ねえ、マイカ」


ここ数日で肥大した恐怖心が口をついた。


彼女なら、リューの思い通りの返答をして、安心させてくれる。そう信じているから、ついこぼしてしまう。


「私の歌は、素晴らしい。そうでしょう?だって、歌姫にも選ばれたんだから」


努めて冷静に、そう告げる。


マイカはやはり聖女のような微笑みを浮かべて、答えた。


「ええ。貴女の歌は素晴らしいと思います。聴いていてとても心地良くて……」


その返答が嬉しくて、リューは更に質問する。


「リシアよりも?」


誰とも比べられたくなかったはずなのに、そんな疑問が出てしまう。いや、疑問ではない。答えはわかっている。マイカなら、マイカなら答えてくれるはずだ。リューが思った通りの、望んだ通りの……


「いいえ」


囀るように、聖女は告げた。


「私、歌を聴いて涙をこぼした事は一度しかないの。昨年の建国節でのリシアの歌。胸を穿つような、リシアの最後の……」


マイカは陶酔して目を伏せる。その縁から涙が一筋、こぼれ落ちた。


「もうあの歌を聴くことはできない」


今、ちゃんと地面の上に立てているだろうか。感覚のない足に必死で力を込め、目の前に佇む聖女の姿をしたナニカを見つめる。


鮮やかな唇が開く。


「リュー、貴女はとても歌が上手です」


その唇が弧を描いた。


先程までの微笑みとは違う、嘘偽りのない心からの、美しい笑み。


「でも、リシアを超えることはできません。これまでもこれからも、最高の歌姫は彼女だけだと、信じているから」


マイカが口を閉ざす。


悪意なんて微塵も無いその顔を見て、リューは右手を振り上げた。

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