浮蓮亭(2)
唐突に簾が巻き上げられる。僅かに出来た隙間から、そっとちり紙が差し出された。
「ほら」
「ありがとうございます。はい、リシア」
「え?ありがとう…ございます」
アキラがカウンターに置かれたちり紙を取り、リシアに手渡す。リシアは鼻にちり紙をあてて鼻血を拭き取った。それを見て、アキラは何やらひねるような手振りをする。
「鼻に詰めるとすぐ止まる」
「やらないから」
「随分と若く見えるが、駆け出しの冒険者か」
簾が再び巻き上げられ、水の入った杯が二つカウンターに置かれた。
「まあ水でも飲め」
「いただきます」
「ちょ、ちょっと」
ごく自然に杯を取り、アキラは一口飲む。堂々とすらも思える所作に、リシアは感心してしまう。
「さっきの男も駆け出しで、依頼や買取の仲介をしてくれる酒場を探していると言っていた。どうもいけ好かないドレイクだったから追い返したが……で、用件は?飯を食いにきた訳じゃなさそうだが」
「そのこと、何ですけど」
ちり紙を鼻に当てつつリシアは名簿と書類をカウンターに置いた。するりと書類が簾の向こうに引き込まれる。
「なんだこれは」
「学苑の課外報告書。素材を買い取ってほしいんです。それから此処に署名を」
「待て待て。変なものに署名なんて出来ん」
書類がするりとカウンターに戻される。リシアは慌てて書類を再び簾の向こうに滑り込ませる。
「学苑の書類だから、変なものじゃありません!」
「なんだそのガクエンって」
「学苑の迷宮科で、酒場で素材を買い取ってもらうっていう課題があるんです。てか、名簿に此処の名前載ってるのに学苑を知らないってことはないですよね」
書類の応酬の合間に名簿も紛れ込ませる。名簿が引き込まれ、暫く簾の向こうでぱらぱらと紙をめくる音だけがする。
「…そういえば役人が言ってたな」
「ですよね」
「買取なあ…」
簾の向こうで店主は唸る。
「仲介料は売値の三割でどうだ」
リシアは少し考え込む。何せ酒場で素材を売却するのはこれが初めてなので、相場がわからない。アキラの分け前を考えると、少しでも高値で買い取ってもらいたいが。
「…それが相場なの?」
「おお、良心的だぞ」
嘘か本当か、掠れ声では判別がつかない。先程のドレイク曰く「客に喧嘩を売る」店主に交渉する勇気も無いので、リシアは承諾する事にした。
「わかった。それでお願いします」
「私は目利きじゃないからな、金は業者に売った後…明後日渡そう」
「明後日ね」
まさか学苑生徒相手に金をちょろまかしたりはしないだろうが、リシアは念の為、再び報告書を簾の向こうに滑り込ませる。
「だから、署名お願いします」
「ぼったくりなんかはしない主義だが」
「お願いします」
観念したように報告書が消え、炭筆を走らせる音が響く。暫くして出てきた報告書には、流麗な署名が記されていた。
「ほら」
「ありがとうございます…あ、それと」
一つ気になっていたことを聞く。
「ここって依頼の仲介もありますか?」
「一応やっている。後ろの壁だ」
振り向けば、卓に接した壁に三枚の依頼書が留められていた。いずれも国から大手冒険者組合に向けて出される難易度の高い依頼だ。
「小迷宮の調査だって」
いつの間にか椅子に腰掛け水を飲んでいたアキラが、目を輝かせながら依頼書を読む。
「もっと簡単な民間からの依頼は…」
「無い。昨日開店したばかりだからな」
かなり衝撃的な事を店主は述べる。
「さっきのドレイクが初めての客だ」
店主の言葉にリシアは不安を掻き立てられる。初日に客が来なかったということはろくに宣伝もしていないのだろう。この店の先行きが不安になる。
「…明後日までは持ってね」
リシアが零すと、簾の向こうからひいひいと掠れた笑い声が聞こえてきた。何が面白いのだろうか。
「贔屓にしてくれたら嬉しいんだがね」
よろしく頼むよ、と店主。こちらこそ、とリシアは返す。
「お水ありがとうございます」
おとなしく依頼書を読んでいたアキラが空の杯をカウンターに置いた。すっかり水の事を忘れていたリシアは、杯に一口だけ口をつける。仄かに柑橘の風味がした。鼻血も治まったようだ。
「ついでに何か食べていかないか?」
「あ…ごめんなさい、もう遅いので」
「お近づきの印ってことで、金は取らん」
「!」
アキラの眼差しが真摯なものになる。
「いただきます」
「ちょっと」
「待ってろ、二人分だな」
「わ、私はいらない。家に帰ったらすぐに夕食だし」
「じゃあ軽いものを出そう」
辞退するリシアなど気にも留めないように店主は簾の向こうで作業に取り掛かり、アキラはカウンターの椅子に座って料理が出てくるのを待っている。しょうがないので、リシアはアキラの隣に腰掛ける。
「拵えたものが勿体無いからな」
つまりリシア達に売れ残りの処理をさせようという魂胆なのだ。
油が爆ぜる音が狭い店内に響く。揚げ物なんて食べたら、家で出される夕食が入らなくなるかもしれない。不安がるリシアの隣で、アキラはそわそわとした様子で簾の奥を見つめている。
「お待ちどう」
簾が少し巻き上がり、料理が出てきた。
おそらくは汁物だろう、白濁した汁にふわふわとした具と刻んだ果肉のようなものが浮いており、椀に渡すように三つ編みの小さなパンが添えられている。
「…何これ」
「大陸の食べ物だ。ここではなんと言うかは知らん」
「材料とかは」
「食べたらわかる」
黙って食えと言わんばかりの店主の応対に、リシアは憮然として椀に無造作に突っ込まれた匙を取る。浮身を匙で掬ってみると、ぷるりと崩れた。まったく未知の食材だ。
ちらりと横目で同行者を見る。アキラも同じように浮身の感触を確かめ、匙で掬ったそれを「イタダキマス」と呟いた後おもむろに口に入れた。いつも通りの無表情が、少し変化する。
「豆だ」
「え?」
「豆をこんな風に加工したものは無いのか。向こうではトーフというんだ」
トーフ、とアキラが復唱した。リシアは再び浮身を匙で掬う。ふわふわとした物体はリシアが知る豆とは似ても似つかない。意を決して口にする。
「…」
口内に広がったのは、確かに豆の味だった。魚介類の風味がする汁とふるふるとした食感の浮身はとても口当たりが良く、優しい味わいがする。刻んだ果肉のようなものは、エラキスでもよく食されている瓜の漬物だった。これが食感と味の良いアクセントになっている。
「…おいしい」
「油条を千切って入れてもおいしい」
「ユー…何?」
「その茶色いのだ」
それを聞いて真っ先にアキラが三つ編みのパンを取り、千切って汁に入れる。少しかき混ぜて汁が染みたそれを頬張り、アキラは頷いた。
「おいしい」
リシアも真似して千切ったパンを汁に浸けてみる。浮身や汁と一緒にパンを掬い、一口。
じわっと油分を含んだ汁がパンから溢れる。あっさりとした汁が一変、コクのある味わいになった。
黙々と汁を食べ進める女学生二人を見て、店主は水を注いだ杯を再びカウンターに出す。
「今度来る時は別のものも注文してくれ」
汁を平らげ、水を飲んでリシアは一息つく。茶碗一杯じゃあ少し物足りない…と考えていることに気づき、リシアは急いで席を立つ。
「あ、ありがとう…とても美味しかった」
「ゴチソウサマ」
東方の移民がよく使う食後の祈りを捧げ、アキラも席を立った。リシアが帰るのに合わせたようだ。
「じゃあ、明後日また」
「おう、ありがとうございました」
取って付けたような挨拶で店主は二人を送る。明かり取りの嵌め硝子の向こうは既に暗い。リシアが扉を開くと、背後から「気を付けろよ」との言葉がかけられた。ありがとう、と返してリシアとアキラは店を後にした。