錯綜(1)
「怪物」は逃げおおせた。何か人間のようなものを咥えて。
橋の上の隊長は衛兵を怒鳴り散らし、闇雲に指示を出す。今は波一つない水面を不安げに見下ろす野次馬の中に、ケインとライサンダーがいた。
「あーあ」
セリアンスロープは肩をすくめる。
「どうなることやら」
「まさかヒトを攫っていくなんて」
「人質……なら悪手だよ」
耳をぺたりと寝かせる。
瞬く間の出来事だった。突如姿を現したオーク。隊長の攻撃命令。銛の雨。冒険者達の怒号。そんな混沌としたひと時の後、オークは川上へと泳ぎ去って行った。
……確かに奴の口元からは、ヒトの足が覗いていた。銛を掻い潜って、いつ、ヒトを咥え込んだのだろうか。
「まあ川に落ちたドジな奴を拾ったって可能性も無きにしも非ずだけど」
未だに怒号を飛ばす隊長を一瞥する。
何をしている。怪物を探せ。早く、早く。
「攫われたヒトの心配はあまりしてないみたいだ」
「無事だと良いのですが」
「そうだねえ……怪物の討伐なんかより、行方不明者の捜索依頼を出した方が有意義だろうに」
呆れたようにケインは呟く。
冒険者は迷宮の中でしか行動できないわけではない。依頼書さえあれば、請け負う組合はいくらでもあるはずだ。
橋の上で怒鳴り散らしてその場からは一歩も動かないような奴に任せていては、助かる命も助からない。
衛兵が取り落としたのか、歩道に置き去りにされた銛をライサンダーは拾い上げる。返しがついた穂先は、漁業に用いるものをそのまま「捕縛」に流用しているようだ。
「気分が良いものではないね」
「……」
「不安かい?」
「ええ。私も彼らから見れば『怪物』に違いないでしょう」
フェアリーはそう言って、不意に触角を動かす。ケインもまた耳を傾け、ライサンダーの背後から駆け寄る人影に手を振る。
「ハロと……女学生もか」
「こんにちは……」
やって来たのは夜干舎のハルピュイアと、エラキスの女学生だった。いつも浮蓮亭にやって来て大盛りの食事をぺろりと平らげる、背が高い少女だ。
先日の件を思い出し、ケインは二人の様子を注視する。いつも通り少女は無表情だったが、険悪な様子はない。報酬のやり取りは何事も無かったようだ。
「凄い騒ぎだったね」
手負いの組合員はそう言って、訝しげに辺りを見回す。橋の上の隊長が目ざとくこちらを見つけて、声を荒げた。
「何をしている、部外者は即刻立ち去れ!」
はいはい、とハロは呟き舌を出す。じきに厳戒態勢が敷かれるだろう。「怪物」があの様なことをしでかした以上、ケイン達が弁護をする義理もない。ただ、攫われたヒトの無事を祈るだけだ。
「私達も浮蓮亭に戻ろうか」
その場から立ち去る同業者を横目に、ケインは組合員に声をかける。ついでにどこか落ち着かない様子で辺りを見回す黒髪の少女を手招く。
「お開きのようだ。私達は浮蓮亭に行くけど、ほとぼりが冷めるまで一緒に食事でもしないか」
今は街中が殺気立っている。面倒ごとにでも巻き込まれたら大変だ。少なくとも水路から粗方野次馬が捌けるまでは時間を置いた方が良いだろう。
そう考えて声をかけたは良いが、当の女学生は心ここに在らずといった感じだ。
「あの」
アキラが三人の顔を見つめる。
「リシアを見かけませんでしたか」
「一緒にいたのかい?」
「そういえばいないね。はぐれちゃったか」
ハロも辺りを見回す。この赤いジャージの少女とよく連れ立っている貴族風の少女がいなくなってしまったらしい。先程の混雑では、少女を見失ってしまうのも無理はないだろう。
アキラは至って真面目な表情で、水路の中を覗き込む。
「水に落ちたり……」
「流石にそれはないでしょ。誰かしら気付くはずだし」
「誰も気付かなかったから、さっきのヒトは攫われたんだろう」
「攫われた?」
ハロを嗜めるつもりでそう言ったが、思いの外大きな反応に言葉が詰まる。
「見えなかったか?オークが泳ぎ去った時、何かを咥えていたから大騒ぎになっていたんだ」
「……何しちゃってんの、そいつ」
憤るハロを目で制する。無理もない。何の意図があったのかはわからないが、オークの行動はエラキスと冒険者の溝を深めることになるだろう。
「誰が攫われたんですか」
少女がいつもの通り、静かな口調で問う。
「いや、そこまでは知らない。私達も体の一部分しか見えなかったから」
「服装の特徴などは」
「……どうだったかな」
傍らのフェアリーに目配せをしてみる。ゆっくりと首を横に振る。一瞬の事だ。無理もない。
「あの子が攫われたと思ってる?それはちょっと飛躍しすぎだよ」
釘を刺すようにハロは告げる。アキラは小さく、「そうですよね」とこぼした。
それでもまだ、目は水路の方へ向いている。
「……心配なら、彼女の保護者に確認してみるとか。ああ、もしかしたら一足先に浮蓮亭に向かったかも」
何処と無く不安げな瞳の女学生を励ますべく、ケインは様々な提案をする。
思い詰めると判断を誤る。友人を心配するあまり、突飛な行動をしでかしかねない危うさが、今のアキラにはあった。




