怪物(3)
陶貨を握りしめて、リシアとアキラは浮蓮亭を出た。閉まりかけた扉の隙間を、ハロがひょっこりとすり抜けてくる。
「やっぱり見物に行くの?」
ハロが笑う。その笑みと言葉に既視感を覚えたが、はっきりとしないままリシアは水路へ向かう。
「どんな状況なのか、ちゃんと確認したいの」
事の転びようでは、迷宮だの依頼だのと言ってられなくなるかもしれない。自然と早足になるリシアの後を、何かを考え込むように口を真一文字に結んだアキラが追う。
三区画ほど煉瓦敷きの道を進むと、次第に喧騒が大きくなってきた。エラキスを通る「本流」の方から聞こえる。大勢の人の気配を感じながら、路地を曲がる。
予想通り、水路沿いの道はヒトでごった返していた。
ドレイク、ハルピュイア、セリアンスロープ。エラキスやジオードの出身らしい風貌の者に遠い異国の装束を纏った者。仕事帰りに興味本位で立ち寄ったのか、給仕姿の少女もいれば革鎧で上半身を固めた壮年もいる。
エラキス中のヒトが集まっているのではないか。そう思えるほどの人混みに圧倒され、リシアは足を止める。
「すご……」
たじろぐリシアの後から、冒険者らしきドレイクが押し寄せてくる。その流れに巻き込まれ、三人は人混みの中に詰められた。
「あ、ライサンダーさん」
「えっどこどこ」
「橋の袂の……」
「あれね」
「ちょっ、ちょっと待って二人とも」
ヒトをかき分けていく同行者二人に気付き、リシアは後を追おうとする。
アキラが進むと避けて道が出来るのに、リシアが進むと遮るようにヒトが現れる。次第に距離が離れ、ついには赤いジャージも夜色の頭髪も見失ってしまった。
きょろきょろとリシアは辺りを見回す。
橋の袂。
どこの橋の袂だ。
「おい、来たぞ」
誰かが声を上げ、周囲が一方を向く。途端に、騒めきが更に大きく響いた。
背伸びをしながら、人々の見つめる方向を注視する。雑多な服装に紛れて、揃いの制服を着た集団が闊歩しているのがちらりと見えた。
衛兵だ。
その内のただ一人、略式の兜を被った兵士が声を張り上げる。
「部外者を水路に立ち入らせないように」
兜の男は悠々と辺りを見回し、水路側へと進む。
「船は下ってきているな。位置につけ」
その言葉を聞いて、数人の冒険者が兜の男に駆け寄った。衛兵は一瞬竦み、しかしすぐに不敵な態度で冒険者に声をかける。
「これから、怪物の駆除を行う。冒険者諸君は速やかに解散しろ。これ以上の占拠は暴動と見做す」
暴動?
無茶苦茶な衛兵の言葉にリシアも唖然としてしまう。
「この川にいるのが怪物だという根拠は!」
「目撃者がいる。おおよそヒトとは思えない姿とのことだ」
「ドレイクだけがヒトじゃないぞ」
「そもそも、被害もまだ無いだろ」
「いつ被害が出るかわからない」
喧々囂々の応酬の中、誰かの声が響き渡る。
「怪物かヒトかはわからないが取り敢えず攻撃する、というわけか。そんな奴らはその内、『俺たち』にも剣を向けるぞ」
人々の興奮が、最高潮に達した。
衛兵の目に怯えが浮かび、突剣を柄に手をかける。
状況が悪くなるだけだ。思わずリシアは口を開き、
「隊長」
煉瓦敷きの道を走り、人混みを押しのけてもう一人衛兵が現れた。書状を手にした若いドレイクは、兜の衛兵に素早く駆け寄る。
「議会からです」
衛兵は書状を差し出す。最初は訝しげな様子だった衛兵隊長だったが、粗雑に受け取った書状に目を通すなり、苦々しい表情で吐き捨てた。
「アンナベルグか」
「今は引きましょう、隊長」
若い衛兵の諭すような口調が気に入らなかったのか、衛兵隊長は舌打ちをする。
「女子供が襲われてからでは遅いのだぞ」
「議会は慎重に動けと」
「どこの馬の骨ともしれん冒険者に吹き込まれた事など、信用できん」
衛兵同士の会話を、リシアは不安げに見つめる。
その肩を、誰かが叩いた。
「リシア」
ぞっとして、リシアは振り向く。
「……アルフォス」
「探してたんだ。いやあ、見つかって良かったよ」
背後に立っていたのは、あの不愉快な班員だった。
右肩に置かれたままの手に力が入る。リシアが顔をしかめると、アルフォスは見慣れた笑みを浮かべた。
「何しに来たの」
「多分ここにいると思って……ああごめん、探しに来た理由だよね」
肩から滑り落ちた手が、リシアの右手首を掴む。そのまま強く引っ立てられ、二人は水路の縁に出た。
「改めて話し合いをしたいと思ってさ」
手首を握る力が更に強くなった。
これが「話し合いをする」態度なのか。憤りながらリシアは顔をしかめる。
「離して」
「何も講師に言うことはないだろ?そっちだって明るみに出たらマズイことの一つや二つぐらい」
「離してってば!」
アルフォスが空いた手を振りかぶった。
反射的に首をすくめ、腕を体に引き寄せる。
……何も起こらない。目の前の男子生徒の顔を見ると、いつもの軽薄そうな笑顔が消え失せていた。
「俺の言うことを聞け」
いつもよりも低く暗い声音でアルフォスは呟いた。
これが本性なのだろう。
途端、腹の奥底から熱いものが湧き上がって来た。激情に任せて、リシアは叫ぶ。
「いいえ、貴方の言いなりにはならない!」
辺りが静まり返った。
周囲の異変に気付き、思わずリシアは口を塞ぐ。アルフォスもまた周囲を見回し、取り繕うようにリシアの手を離した。
歌が、聴こえる。
スフェーン邸や迷宮で聴こえたものよりもずっとはっきりとした、哀しげな歌だった。
「怪物だ!」
誰かが叫んだ。上流からだ。
隊長が橋に駆け上り、右手を挙げる。裏返った声で、命令を下した。
「網を投げろ!向かってくるようなら銛も撃て!」
冒険者達の罵声が飛ぶ。
アルフォスの事など頭の中から抜け落ちて、リシアは水路の上流を見つめる。
彼方で飛沫が上がる。衛兵が乗り込んだ船が大きく揺れ、それを見た周囲がどよめく。
暗く濁った水中から、黒い帆のようなものが現れた。
「オークだ!」
誰かが叫んだ。
帆は凄まじい疾さで水面を切り、下流へ向かってくる。
橋の上の隊長が怯えたように後ずさった途端、
水面が大きく盛り上がり、
黒と白の巨体が現れた。
「怪物」は跳躍し、橋を越えて、リシアの目の前の水面に着水した。
叫ぶ間も無く、全身に水が叩きつけられる。水の膜に包まれて一瞬息が出来なくなり、もがくように腕を動かす。
その時、軽く背中を押された。
浮遊感。
一体誰が。
突然の強襲に動揺した衛兵か。水に呑まれてよろめいた冒険者か。あるいは……。
そんな事を考えながら、リシアは水面に叩きつけられる。
重い肢体を動かすことも出来ず、水中を漂う。
濁った視界の片隅で、泡と共に銛が沈んでいく。攻撃が始まっているようだ。
誰も、リシアが落ちた事には気付いていないのかもしれない。
せめて水上に出なければ。
やっと感覚を取り戻した腕を使い、汚水を掻く。
揺らぐ水面を見上げると、細かな水泡が現れた。
「!」
間一髪で銛を避ける。しかし今の衝撃で、口中の空気が逃げ出してしまった。
水面が遠ざかる。
小さな頃は、もっと長く潜水出来たのに。
鰓があったからか。
そんな事を考えながら、リシアは体の力を抜く。
濁った水の向こうから、大きな影が迫る。
影は口を開き、漂うリシアの胴体に噛み付いた。
オーク
セリアンスロープのうち、漂海生活を送る種。食肉目ではなく、偶蹄目に近い。後肢は消え尾鰭が生じ、体形は完全に水中生活に特化している。陸上人類からはかけ離れた姿のため、彼等と関わりが無いヒトに新種の動物や先史遺物と誤認される事がある。
多くの人類と同じく、音を使った意思疎通を行う。独特の抑揚を持った言語は「歌」と形容される事もある。
オーク達の叙事詩によると、地上のヒトが二本脚で歩く遥か昔から、オークは水中で生活をしていたという。




