対話不足
数学の教科書を閉じ、ぼんやりと黒板を見つめる。
周りの生徒が思い思いに昼休みを過ごす中、アキラは先日のやり取りのことを思い返していた。
でも、
その後に何と続けるべきだったのか。何を伝えたかったのか。思わず口を突いて出た言葉とその後の光景が、靄のように考えを曇らせる。
リシアは多くの事を伝えていなかったと、思う。そしてそれは意図的だったのかもしれない。
結局、アキラはリシアの事を何も知らなかったのだ。
最初に一緒に迷宮に行こうと提案された時も唯々諾々と応じて、それからずっと、リシアの事を知ろうとしなかった。
あの時リシアが逃げ去ったのは、不安に駆られたからなのだろう。でもそれは、学則違反が知れてしまったからなのだろうか。それとも、アキラが怒っていると思ったからなのだろうか。
正直なところアキラには、それすらもわからない。ただあの時、逃げるのではなくて、その場に留まって欲しかった。
「お昼休み、始まってるよ」
頭上から声が降ってきた。
突然目の前に現れた令嬢が空いていた前の席に腰かける。
「お腹が空いてないの?そんな事は無いか……たまには私も食堂でお昼にしようかしら」
珍しい発言だった。普段は学苑から離れて昼食を取るセレスだが、今日は何か思うところが有ったのだろうか。
「アキラのおすすめを教えて」
「いいよ」
それとなく席を立ち先導するセレスを追う。立ち上がった途端、お腹が鳴った。悩んでいても腹は減るものだ。
混雑した食堂で、なんとか空いた席を見つける。
「お隣、失礼します」
普通科二年の徽章を付けた女生徒に声をかけて、セレスは席に着いた。先輩はセレスを二、三度見直して、小さく会釈をした。
アキラが勧めた包み焼きを前にして、セレスは祈りを捧げる。その様子を少しの間見つめて、アキラは自身の食事を始めた。
「いただきます」
セレスと同じ豚肉と香味野菜の包み焼きが、今日の昼食だ。柔らかく仕上がった人参をまず一口。
「そうだ、花の依頼の事だけど」
ふと思い出した様にセレスは口を開く。
「正式に役所に手続きをしないとダメですって。最初から特定の誰かに任せられるようにするのは、好ましくないみたい」
残念そうにそう言って、「しょうがない事ね」と付け加えた。
「こういうのは早い者順。それにしても、びっくりしちゃった。アンナベルク氏の事、私思い違いをしてたみたい」
「思い違い?」
「てっきり、昨日講師室にいた方だと」
そう言って口を閉ざす。しばし二人は静かに食事をする。包み焼きを粗方食べ終えたセレスが次に話し始めた時には違う用件になっていた。
「今日、元気が無い」
「え……どこか具合が悪いの?」
「私じゃなくてあなたの事」
さりげなく周囲に目配せをして、セレスは声を潜める。
「迷宮科のあの子と、何かあった?」
勘付かれていた。自分の頰をさすりながら、アキラは内心首をかしげる。顔に出ているのだろうか。
「……その」
どんな言葉が適切か考えながら、ゆっくりと話す。
「秘密にしていた事があった、というか」
あるいは。
「知らない事が多かった、というか」
歌も班員も学則も、重要な事は何も知らなかった。それはひとえに、リシアへの理解が足りなかったという事ではないのか。
もっと色んな事を気にかけていたら……リシアにあんな形で去られる事も無かっただろう。
杯の水を飲みながら、セレスはアキラの横顔を見つめる。口を十分に湿らせた後に溜息をついた。
「二人とも、歩み寄りが足りなかったのね」
暫し令嬢は虚空を見つめる。何拍か沈黙した後に、呟くように語り出した。
「私、文通してるでしょ?」
突拍子も無いように思える話に、しかしアキラは耳を傾ける。
誰と、とは言わなかったが彼女の文通相手は知る限り一人しかいない。
「互いに理解しなきゃって思って、始めたの。だって、数えるほどしか会ったことのない他人だもの。顔合わせと会食と……その数回で相手を知る事が出来たとは思えない。だから色んなことを知って、教えて、向き合っているの」
セレスは続ける。
「アキラも、これから歩み寄っていけばいい。まだ遅くはないわ」
「……そう思う?」
「ええ。だってアキラ、少なくとも秘密にされたことに対して怒ってはいないでしょう?」
頷く。その様子を見て何故かセレスは苦笑した。
「それならきっと、話は早い」
セレスは盆を持って席を立つ。食器置き場に向かった彼女を見送りながら、アキラは先程の話を思い返す。
互いを知る事で、リシアが抱える「不安」が解決に至るかはわからない。ただ、そうやって話し合う事はけして無意味ではないはずだ。
まだ遅くはない。
その言葉が強く焼きついた。
残りのパンを口に運び、アキラは席を立った。




