出逢い
放課後を告げる鐘の音が響く。
すでに人も疎らな、窓や戸が閉め切られた教室でリシアは必死に今日の授業の内容をノートにまとめていた。新学期が始まって一ヶ月も経たないのに「迷宮学概論」の教科書は付箋と色インクの線で埋め尽くされており、読み癖で少し分厚くなっている。教科書をめくり、ノートに筆を走らせるリシアを遠巻きに見つめる女子の一団から、微かな忍び笑いが聞こえた。嘲笑を耳に入れまいと、リシアは音を立て文字を書きなぐる。彼女達に喧嘩を売ったところで成績は上がらない。訳あってリシアは人一倍、いや二三倍は勉学に励まなければならない。忍び笑い程度で、記憶がまだ鮮やかなうちの復習をやめる訳にはいかないのだ。
「今日も頑張ってるねえ、リシア」
主要迷宮を表に纏め次のページを開こうとしたところで、突如教科書が消えた。斜め上を見上げると、何度か見た事がある顔があった。
「ちょっと、返してくれない」
「こんなもんチマチマ書いてる暇があったら、迷宮で採集でもしてきたほうがいいんじゃないかなあ」
リシアとさほど背丈が変わらない痩せぎすの男子生徒はそう言って、一人喧しく笑った。迷宮科では座学よりも実技を重んじる。いくら綺麗にノートを纏めても、迷宮で拾った低級薬草の提出以上の加点にはならない。しかし故あって、リシアは迷宮に立ち入る事が出来ないのだ。この男子生徒はその事情を知っていて、このような挑発を仕掛けてきている。リシアは心底不快そうな表情を作り、席を立つ。
「わかってて言ってる?」
「もちろん。良かったら俺の班に入れてあげようか?班長の命令には絶対服従だけど」
「やめとく。君なんかと一緒に班行動してたら、いくつ命があっても足りなさそうだし。足手まといは要らない」
「よく言うよ。足手まといだから、マイカちゃんに見捨てられたんでしょ?」
その言葉に返答する事なく、リシアは教科書を引ったくった。男子生徒は吹き出し、再び下品な笑い声を上げる。
「返す言葉も無いよねえ」
「…」
屈辱的だった。そして男子生徒の言う通り返す言葉も無い自分を、リシアは恥じた。
迷宮科では、入学するとすぐに迷宮での課外授業をこなす為に班を編成する。条件は班員が二人以上で、班長と副班長が各一名ずつ居ること。この二点だけだ。リシアも入学当初は班に所属していた。幼馴染みの少女とリシアだけの、二人きりの班だった。
幼稚舎からずっと、何をするのも幼馴染みと一緒だった。それは高等部に進級し迷宮科に入っても変わらないと思っていた。
しかし入学式から一週間後、幼馴染みは班を抜けた。
『あなたに合わせるのに、疲れたの』
そんな言葉を残して。
「どうしたんだい?俯いちゃって」
男子生徒がこちらを覗き込む。その言葉で、リシアは自分が涙を流していることに気付いた。カッ、と頭の芯が熱くなる。
「やだな、このぐらいで泣かな」
先程取り返した教科書を、男子生徒の顔に叩きつける。そのまま男子生徒の喚きを背に、教室から駆け出た。無様だ、とリシアは思った。こんな姿を、あの嫌らしい男子生徒や陰口ばかりの女子生徒に見られたくはなかった。
一先ず逃げ込んだトイレで、リシアは声を押し殺して泣いた。ハンカチと制服の袖口が少し湿っぽくなった所で、何度目かもわからない溜息を吐き、個室から出る。洗面台の鏡を見ると、目の周りを真っ赤に腫らした少女の姿が映っていた。
「…みっともない顔」
蛇口をひねり、冷水にハンカチを浸す。ハンカチを目の縁にあてて腫れを取ろうとしたが、効果はあまりなかった。
とぼとぼと教室に戻る。渡り廊下から見下ろした中庭は斜陽に染まり、人影は見当たらない。音も、遠くから微かに運動部の掛け声が聞こえるばかりだ。
あの男子生徒や女子生徒が帰ってくれていることを祈りつつ、教室のドアを開ける。
…誰もいない教室は、中庭と同じ橙色に染まっていた。人影が見当たらない以外は先程と変わりないように見える教室で、リシアは帰り支度を始める。学生鞄に筆記用具とノートを納め、男子生徒の顔に叩きつけた教科書を拾い上げようとした。
教科書が何処にもない。
「うそっ」
机の中を覗き、下に屈み込み、迷宮学概論の教科書を探す。何処かに隠されたのかと掃除用具入れやゴミ箱まで覗き込んだが、どちらからも教科書は見つからなかった。
まさか、先程の男子生徒に持って帰られたのだろうか。最悪の事態を想定し、リシアは血の気が引くような感覚に陥る。リシアが教室を離れていたのは五分程。その五分の間に教科書を隠せそうな場所は他にないだろうか。教室を見渡す。
ふと、風がそよいだ。一つだけ開け放たれた窓から吹き込んだ風をはらみ、カーテンが大きく膨らむ。先程、教室を出た時に窓は開いていただろうか。その事に思い至った時には、リシアは窓枠に駆け寄り地を見下ろしていた。
高等部一年の教室は三階にある。窓の下は花壇で常に季節の花が咲いている。今が盛りのヒナゲシに埋もれるようにして、付箋が大量についた教科書は落ちていた。持ち去られたわけではない事に安堵しつつ、リシアは教科書を拾うべく窓枠から離れる。
「………どうしたの、アキラ」
「なんか、落ちてる」
「ほんとだ。教科書?」
花壇の方から女子と思わしき声が聞こえた。巻き戻るようにリシアは窓から再び下を見下ろす。
女子生徒が一人、花を踏みつぶさないように花壇に入り教科書を拾い上げていた。無造作に纏めた黒髪と真っ赤なジャージ。何らかの運動部に所属しているのか、部活帰りのような風貌の女子生徒は教科書をぱらぱらと捲り、裏表紙に記されたリシアの名前を見つける。
「…リシア・スフェーン」
「うわ、迷宮科の教科書だ。アキラ、関わらないどこ」
花壇の外に居た制服姿の女子生徒が、赤ジャージの裾を引っ張る。
「でも、落し物だろうし」
「あそこは貴族の中でも面倒な奴しか集まらないところなんだよ。ほっといた方がいいよ」
「取り敢えず、職員室には届けとく」
「もー、聞いてた?」
教科書を携え、赤ジャージは花壇から出る。恐らく、遺失物を取り扱っている職員室に向かうのだろう。
「待って、それ、私の!」
思わず窓枠から身を乗り出し、叫ぶ。本校舎へ向かおうとしていた二人組は立ち止まり、赤ジャージが天を仰いだ。
異国の血が混じった顔立ちの、凛とした雰囲気を持った少女だった。赤ジャージの夜色の瞳と視線が交わり、リシアは一瞬息を呑む。
「これ?」
赤ジャージは声を張り上げ、教科書を掲げた。こくこくとリシアは首を上下に振る。
「待ってて。渡しに行く」
そう言うと、赤ジャージは駆け出した。下では戸惑う制服の女子生徒が、一人取り残されている。
…一分もしないうちに、赤ジャージは教室に入ってきた。恐らく一階から三階まで全速力で駆け抜けてきたというのに息も荒げず、赤ジャージはリシアに迷宮学概論の教科書を差し出す。
「はい」
「あ、ありがとう」
差し出された教科書をリシアは受け取る。少し土で汚れているが、それ以外は変わりない。
リシアよりも頭一つ分背が高い彼女を見上げ、もう一度礼を言う。黒い髪に黒い瞳。東方からの移民だろうか。身に纏った赤ジャージには、普通科のエンブレムが刺繍されている。
再び、目が合う。赤ジャージの形の良い眉が訝しげに歪んだ。
「…泣いていた?」
リシアはハッとした。まだ腫れの引いていない瞼が、羞恥で熱を持つ。
「き…君には関係ない!」
思わず飛び出た言葉は、リシアの予想以上に鋭く響いた。赤ジャージの切れ長の目が少し丸くなる。
「ごめん」
赤ジャージは教室から出て行った。何か声をかけようとして、しかしリシアは躊躇った。その間に赤ジャージの姿は見えなくなってしまった。
謝らなくては。そう思い至って、窓枠から身を乗り出す。赤ジャージと制服の女子生徒、二人の後ろ姿は既に遠い。
善意で教科書を届けてくれた女子生徒に、あんな言葉を浴びせてしまうなんて。
リシアは悔いる。今から走ってでも行けば、あの女子生徒に追いつくだろう。しかし先ほど声をかけるのを躊躇わせたものと同じ感情が、リシアの足をすくませる。幼馴染みに見捨てられ、一人で迷宮に潜る事も出来ずノートを纏める原因となったくだらない感情だった。
結局、リシアは三階の窓から彼女達の後ろ姿を見送る事しかできなかったのだ。