今日、会社早退します!
「今日は4時に帰らせて頂きます!」
時刻は午後3時。私は課のみんなに高らかに宣言した。
最近は残業続き。たまにはお気に入りのカフェにでも寄ってリフレッシュしたい。
激務の間のひとときの安らぎ。それくらいたまにはいいでしょ?
昨日のうちに今日の仕事のメドはつけてある。雑用を片付けたら、完成している文書を一応社長に確認してもらい、数十部印刷して投函するだけの簡単なお仕事。4時には全て完了するはずだった。
「あれっ?社長は?」
さっきまで開いていたはずの社長室の扉が閉ざされている。
「たった今会議に入りましたよ」
側の机に座っている同僚が答えた。
その言葉に、目の前が真っ暗になった気がした。うちの上の連中の会議の長さには定評がある。
「チッ!」
後ろから舌打ちが聞こえる。振り向くと同僚が書類を手に私と同じ顔を浮かべていた。
二年前、親会社からきた現社長に変わってから社風はそれまでと全く変わってしまった。トップダウン。親会社の意向イコール会社の方針。全ては社長室で決められ、結果だけが伝えられる。親会社に楯突くことなど全く頭にない。業績は下がるばかりで社内の雰囲気も悪くなった。
今や全ての決裁権は社長が握る。
私たちの所属する事務部門のトップであり、社内でも立場的にはナンバー2のはずの専務は決裁権をもたず、中枢からも外され完全な秘書扱いだ。まるでそうすることで自らの権力を見せつけているかのようにも思える。経営理念も、将来計画も何も伝えられないままただ指示だけが与えられる。組織としては歪で不効率極まりない。
「何かあったら何でも私にいってくれ。社長室のドアはいつでも開けておく」就任時の社長の耳障りのよい言葉を信じ、何度か現状の業務システムの改善案を具申した。親会社の意向にそうだけではなく、子会社ならではの優位性を活かした新しいシステム。この会社の社員であることを誇れるような画期的なものだった。しかし、その案を通すために、まず、外部から来た社長に理解できるよう膨大な資料を要求され、現状のシステムができた経緯、過去数年間どのように行ってきたのか。そして現状の問題点、改善することのメリット、デメリットを事細かく説明しなければならず、さらに時折入るであろう社長の質問にも淀みなく答えるため、関係のない書類も用意しなければならない。そのうちに心が折れ、社長が理解できる範囲で、親会社の意向に沿う形での軽微な変更で着地点を探そうとしてしまう。ようは逃げ出してしまうのだ。その結果、敗北感と徒労感だけが背中にずっしりとのしかかる。
それは私に限った話ではない。出来るだけ関わりたくない。それが今や社内の共通の認識である。いつしかボトムアップという概念すら失われ、私たちヒラ社員、そして課長クラスですらただ指示をまつだけの集団となり果ててしまった。
社長と社員。親と子。たとえ扉が開いていたとしても、決して交わる事のできない壁がそこにはあった。
この二年で三分の一の社員が入れ替わった。反社長派は一掃され、上層部にはイエスマンだけが残った。まあ私もその一人であるのだが。
会長がいたら。もし、会長が社長としてもう一度返り咲く事ができていれば、社内が一丸となって今直面している危機に立ち向かうことができたのではないか。いや、今さら考えても意味のないことだ。全ては私が引き起こしたことでもあるのだから。
社長が就任してしばらく後、社長に頼まれ、会議室に集まっているメンバー名を伝えた。
その後、会議室で集まっていた会長派は社を追われることになった。その中には私が昔からお世話になっていた当時の専務もいた。やられた。そう思ったがもう遅い。社長の鎖は私の首に絡みつき、解くことができないほど深く食い込んでいた。
不可抗力とはいえ後ろめたかった。「社長の犬」「スパイ」その呪縛からはもはや逃れられない。周りは知らないかもしれないが私は自分を赦せない。自分でも分かっているのだ。私がここにしがみついていることが会長に対する最大の裏切りだということ。
「お前も早く次探しとけよ」
去年転職した先輩の言葉が思い出される。しかし、大した実績もなく、人脈もない40近い子持ち女など誰が雇ってくれるだろうか。少なくとも今よりも実入りが良くなるとは到底思えない。
結局、今のまま耐え忍んでいくしかないのだ。
かつて、上に媚びていつも卑屈な笑顔を浮かべていた上司を馬鹿にしていた。ああだけはなりたくないと思っていた。今ここにいる私は正にその上司の姿だった。
数時間後、社長室の扉が開いた。しかし、出てきたのは数人のみ。入れ替わりに数人の幹部が入室する。どうやら会議はダブルヘッダーのようだ。
時刻は定時を超え、みな続々と帰り支度をはじめる。本格的に忙しくなる時期を前に早く帰ろうということだろう。その中に先ほどの同僚の姿もあった。
「えっ?帰るの?書類はどうすんの?」
「帰るよ。いつまで待ってても終わらんし」
吐き捨てるように言うと、部屋を出て行った。
「裏切り者」
軽い冗談で言ったはずの言葉はブーメランのように私の心を貫いた。
午後八時。ようやく扉が開いた。
幹部連中が疲れた顔でゾロゾロと出てくる。
私は入れ替わりに部屋に入り、おそるおそる声を掛けた。
「お疲れでした。お茶をお入れしましょうか?」
自然にその言葉が出るのは飼い犬の習性か?
お茶の用意をし、しばらく雑談に付き合わされたのち、やっと本題に入る。
「社長。この書類なのですが」
手に持った書類を差し出し、説明をする。
「こちらの文言は社長に言われたように、このように修正いたしました。あと、こちらとこちらは発送日を変更し……」
「ああ、もういい」
私の言葉は最後まで話しきる前に遮られた。
「前回の分を訂正してくれたならもう結構。それでいってくれたまえ」
「ありがとうございます!お疲れのところ申し訳ありませんでした。あっ、お茶をお下げしておきます」
卑屈な笑顔を浮かべ、社長室を後にする。洗い物を終え、誰もいない薄暗いオフィスで文書の発送準備に取り掛かる。
帰り支度を済ませた社長が声をかけてきた。
「お疲れさん。あまり遅くならんように帰りなさい。君はただでさえ残業が多いのだから」
てめえの所為だろうが!
喉まで出かかった言葉。しかし、それは喉から口までの過程で何層ものフィルターを通して変換されていく。私はとびきりの笑顔で答えた。
「いえ、私は大丈夫です。社長こそ無理なさらぬようにしてくださいね。本日はお疲れ様でした」
どこかで誰かの笑い声が聞こえたような気がした。
えっと、この話はフィクションです。
ここではそう言っておきます。