災厄の始まり②
表墓場で裏飯屋とは上手く言ったものだ。表の墓場から掘り返してきたホビッツの死体を、裏の飯屋でホビッツ鍋にして客に出すという。なんという、おお、なんという。
「それは災難だったね。と言うか、」
男はザヘルが語った先刻の出来事に同情すると見せかけて、
「よく考えたら、いつものことじゃないか」
呆れ気味に投げ捨てた。
素朴な内装の定食屋だった。二十人は入れそうにない狭い店内で、まばらな客が受像機の兎球中継に熱狂したり、広げた雑誌に目を落としたりしている。家族や若者よりも中高年が仲間内で集まる店、という雰囲気。
定食屋〈旅人たちの再会亭〉は、今日も繁盛しているのかいないのか微妙な客入りだ。
表の墓場から掘り返してきた鮮度抜群のホビッツ鍋をつつくザヘルは、自分の隣に座って新聞を広げる男に、責めるような目付きを向ける。
「そこはせめてギリギリ否定できる表現にするのが親友の配慮じゃないか、マリオ」
「いやいや、ここはあえて厳しい言葉をぶつけるのが、本物の親友らしいよ」
マリオと呼ばれた店主は、新聞から顔も上げない。年齢はザヘルと同学年の三十四。黒い頭髪の後ろ髪が特徴的に跳ね上がっており、同色の瞳には常に呆れの成分が含有されている。料理人らしく、服装は一点の汚れもない白の調理衣。
ザヘルはほぼ毎日、親友が経営する定食屋で昼メシをたかっていた。
「少しはマシな味付けになったじゃないか」
鍋から肉片やら内臓やら眼球やらを口に運びつつ、したり顔で笑みを浮かべるザヘル。
マリオは胡散臭い物を見る目付きで、
「蛙や蛇や芋虫を平気で食う奴の味覚を誰が信じるんだい、アブルザヘル」
『え? 私も同罪?』
アブルの狼狽は、宿主でないマリオに伝わるはずがない。だが、初期こそザヘルに通訳してもらったものの、最近のマリオはアブルの反応が手に取るように理解できた。
「ザヘルとは高等学科からの付き合いだから、かれこれ二十年近いのか」
「どうして俺は、お前と悪友を続けているんだ?」
「それは僕の台詞だよ、アブルザヘル」
『だからどうして私も同罪なのだ』
三人の間に壁はない。そこには軽口も本音も言い合える、本物の信頼があった。
《番組の途中ですが、速報が入りました》
常連客から驚愕と怒号が沸き上がった。二人が視線を向けると、受像機の映像が兎球中継から臨時報道番組に切り替わっている。
《本日未明、〈カルギア連続無差別殺人事件〉の新たな犠牲者が発見されました》
そこで受像機の映像が兎球中継に戻った。木の板でぶっ叩かれた兎が空中に放物線を描き、敵陣の得点網に突き刺さって逆転。笛が鳴り響き、試合終了を告げる。
「連続無差別殺人ね。確か一週間前に最初の犠牲者が出て、今ので二十人近いんじゃないか? 警察は俺を捕まえるより、先にやることがあるだろうに」
「被害者は鋭利な刃物で全身を切り刻まれ、人体を削り下ろされるという残忍な犯行だ。犯行場所も時間帯も出鱈目で法則性はなく、金銭の紛失もない。狂的な人体解剖愛好家、そして時間の都合がつく自由業か無職、という推測だろうね」
カルギア市は田舎だ。田舎の気質として防犯意識が薄く、街行く人々もまさか自分が犠牲者になるわけがないと、楽天的な笑顔で往来を闊歩している。
「俺が次の犠牲者になっても、不思議じゃないな」
「別に今すぐ死んでも、問題はないだろ?」
マリオのぞんざいな物言いに、ザヘルの怒りが急速沸騰する。
ザヘルの視線が考えるように上に向けられ、
「……ま、その通りだけどな」
戻ってきたときには、怒りは零下まで急速冷却されていた。
「実際これといって、やりたいこともやり残したこともない」
黙々と鍋を口に運ぶザヘルは、本当に夢や目標を持たない空っぽの目をしていた。
厳密に言えば、二人ともやりたいことは寿命が足りないほどにある。いや、これから年月を重ねていけば、それは永遠にも等しい時間が必要になるほど増えていくだろう。
だがそれらが一生をかけて、あるいは死に抗ってまで成したいことかと訊かれると、そうでもないとしか言えなかった。
「それでも生きていくんだから、相応の生き方をしなよ。とっとと就職して身を固めて、母親さんに楽させてやりな。最初にツケと利子を返すのも忘れずに」
「どいつもこいつも二言目には働け、就職しろ、金返せ、結婚しろだ。そんな凡庸で中庸な人生の何が楽しい?」
「ここは定食屋であって、養豚場じゃないんだけど?」
ザヘルの一日は、起床→市内徘徊→マリオに昼食をたかる→家でゴロゴロ→就寝の無限循環だ。何の生産性も進歩もない、完全に停滞した時間。
「……本当は俺だって、特徴のない平凡で退屈な人生が最良だって分かっている。けど、これだけはどうしようもない」
苛立ちを叩き潰すように、ザヘルは食卓に拳をぶつけた。
「言い訳だと、逃げているだけだと理解している。
だけど俺は、〈アグレイの腕の日〉に燃え尽きちまったんだ」
ザヘルの人生は終わっていた。生き甲斐、希望、欲望、活力、指針、先にあるもの全てが焼失してしまったのだから。
ザヘルの人生は挫折と敗北の連続だった。それでも気力だけはへし折れなかった。
しかし二十代後半のあの日、カルギアで〈アグレイの腕の日〉に遭遇して決定的な絶望を叩きつけられてから、ザヘルは今の腑抜けになってしまった。
今の彼は一瞬の走馬灯にも似た、人生を回顧するためだけの存在だ。
「終わった人生に、明日を生きるための原動力は必要ない。慣性が尽きるまで、漫然とそこにあるだけだ」
「お前ならレイダースでもディアボロスでも幹部職に就けたはずだ。いや、王室守護八将にすら到達したかもしれない。機会もあった。
世の中には働きたくても働けず、能力がなくて手が届かない人間がいる。
お前が働かないのは罪悪だよ」
「だろうな。だがそれは、人間社会の内側で生きている奴に向ける概念だ。俺は世界と関わることが出来なくなったから、脱落者なんだよ。
それに、そいつを言うならお前も同じだろう?」
忘れたくても忘れられない過去を引き合いに出され、マリオの表情が歪む。
「お前も〈アグレイの腕に日〉に恋人を、リコリアを失った。お前は何を目標に、何を糧に今を生きている?」
ザヘルの頭髪が宙に舞ったのは、その瞬間だった。ザヘルが視線を上げると、マリオが灰皿を振り抜いた体勢で止まっている。
マリオが手にした灰皿はステンレス製の薄い品ではなく、厚さ三㎝はあろう硝子製。直撃したら人鍋の具材が調達されていたのを確信させる。
推理劇で凶器にされ続けた物体が振り抜かれたというに、ザヘルは平然としていた。
「当てないって、分かってたからな」
「避けないって、分かってたからね」
灰皿を卓に戻すマリオは、ザヘルを見もしない。その仕草から何かしらの意思を汲み取るのは不可能であった。
「僕もお前と同じだよ。自分の無力さと世界の無慈悲さに敗北した、ただの死人だ」
マリオの言葉は音の羅列だ。意味こそ並べられているが、そこに本心は存在しない。
マリオも答えを探し続けていた。先にも進めず、後ろにも戻れず。
人生を狂わされたのは、彼ら二人だけではない。〈アグレイの腕の日〉に被災した多くの人々が何かを失っていた。
ある者は命を。ある者は大切な人を。
ある者は矜持と尊厳を。ある者は心を。
そしてある者は何もかもを。
それだけ大きな事件だった。王国史だけに留まらず、世界史でも有数の大惨事。
目を閉じれば今でも思い出す。首から千切れ、頭部だけになったリコリアの遺体。右半面は焼け焦げて原形が残っておらず、砕けた頭蓋骨の中には何もない。当然、愛する者の腕の中で事切れた安堵の表情などではなく、瞼を見開き、口を広げ、舌を垂らし、恐怖と苦痛と絶望の中で死んでいた。
人間の魂が肉体にあるにしろ脳にあるにしろ、そんな持論など無関係に踏み捨てる悲惨な死に様だった。
ザヘルの耳には、今もマリオの慟哭が微かに残っていた。
「だからこそ僕は、あの男をこの手で殺す。リコリアの命を奪った、あの男を」
マリオの熱く、重く、静かな宣言を聞いても、ザヘルの心中に変わりはない。それはこの数年聞かされ続けてきた、マリオが導き出そうとする答えの最初の障害だからだ。
あの日の傷は癒え、惨劇の記憶も忘却に埋もれている。だがそれに反比例して、憎悪と復讐心は蓄積され熟成され、爆発的に増長していた。
その感情をどうすればいいのか、マリオ自身も持て余しているのだ。
「だからじゃないけどさ、お前も彼女さんとは決着をつけなよ。彼女は今を生きる人間だ。終わったお前につき合わせて、彼女の人生まで終わらせるのは見ていられない」
ザヘルは親友の気遣いに対する感謝と気恥ずかしさと苦味で、複雑に表情を歪める。
疲労で重力に耐えられなくなったように、ザヘルの視線が下降した。ザヘルの手首で、去年の誕生日に贈られた腕輪が冷たく輝いている。年々高価になる記念品は、時々自分を縛りつけようとする手枷のように重く感じられた。
「俺だって、パッキィとの幸せな家庭を夢想しちまうことだってある」
開閉を繰り返す五指は、摑めない何かを摑もうとしているかのよう。老木のようなザヘルの表情は、何度も問いを重ね、その都度答えを出せなかった苦渋に満ちている。
「だけどそれは俺の、彼女の、社会の、そしてお前の身勝手だ」
〝それ〟は何を指すのか。このまま続けることか、破局することか、それとも一緒になることか。
その全てだろうと、マリオは結論付けた。
既にそこは袋小路であり、どの選択肢を選んだとしても、その先に未来はない。
親友の幸せを心から願うマリオの気持ちすら、ザヘルを追い詰める脅迫の一手なのだ。
ザヘルが席を立つ。鍋の中身は半分以上も残っていた。
「帰って不貞寝でもするか」
投げやりに呟いたザヘルは、これ以上の会話を避けるように、定食屋を後にした。




