愛憎の歪んだ世界④
深夜のカルギア市街、チェデオ・ボルック少年は塾からの帰途を急いでいた。入試を控えたこの時期は、総じて授業時間が長くなる。今日も授業方針を巡る教師と生徒の白熱した殴り合いで、五人が病院送りになっていた。
人気がない深夜の路地は、異界に迷い込んだように不気味で妖しい。産毛が逆立つ感覚に襲われたチェデオ少年は、大通りへ出るべく脇道に入る。
たった十数mの小道。足元には大通りからの光が這い寄り、一つだけの街灯が塗料を伸ばしたように無機的な電光を落としていた。
チェデオ少年が足を止める。
街灯の下、電光の一部だとでも主張するように、白一色の男が立っていた。白い革靴に、白のロングコート。頭から白いストラを被って顔を隠し、ポケットに突っ込んだ両手首にも白手袋の端が覗く。
男の胸には一輪の花。今の時期に咲くはずのない、真っ赤な彼岸花だった。
もしもこの男が、近頃レイダースに危険視されている新興カルト教団〈ヒガンバナ〉の教主だと知っていたならば、チェデオ少年の運命はまた違っていたのかもしれない。
暗黒の路地よりなお得体の知れぬ男を前に、チェデオ少年は本能的な恐怖を感じる。踵を返し、一本先の路地に逃げようとした刹那、
「よう少年、今日はいぃ夜だな」
男が話しかけてきた。びっくりして反射的に立ち止まるチェデオ少年。一度立ち止まってしまった少年は、逃げ出すのを道徳に反した行為と判断する。
「何か用ですか?」
適当に話を切り上げて、帰宅する道を選んだ。その何気ない選択が、少年の一生を決めるとも知らずに。
「《声》が聞こえるのだろう?」
「ど、どうしてそれを?」
男が口に出した《声》とは、無論寄棲獣の《声》を指す。
「私にも聞こえるんだよ。私以外の《声》がね」
けれど寄棲獣の存在を知らないチェデオ少年に、男の言葉は絶大な精神誘導音波として作用した。
「この《声》と力は、正義を成すために授けられた力だ。
少年も使えるのだろう? 私と同じ力を」
教主は能力を発動。途端に闇が世界を塗り潰す。半ばで切断された街灯が、光の残滓を描いて傾斜していく。街灯の断面は鏡のような滑らかさだ。
「貴殿は一人ではないよ」
新たな声。チェデオ少年が頭上を見上げると、ビルの屋上から見下ろしてくる二つの光点と出会う。翡翠色をした、人の視線だ。
「ボクらはアナタの味方だよ」
少年が振り向くと、夜の闇から小柄な女が進み出てくる。
「少年よ、我らと共に世界を変えよう」
地面のアスファルトが泡立ち、痩身長髪の男が姿を現す。
「悪意はなくさなければならない。世界のために、人間のために、君のために」
最後に、小柄で平凡な容貌の青年が出現する。
「正義を……成す……」
チェデオ少年にとって、教主の一言一句が物語のように甘美で刺激的な誘惑だ。
それでも踏ん切りがつかず、男の差し出した手を握る勇気が持てない。
教主はそんなチェデオ少年の内心を見透かしていた。
「少年、残念だが、君の両親も親友も悪魔なんだ」
「あ、悪魔ですかっ?」
少年の顔に広がる、驚愕と納得の表情。教主の口元には密やかな笑み。
「君は身に覚えがないか? 《声》が聞こえると両親や友人に話しても信じてもらえず、救いを求めたはずが逆に悪意を向けられた覚えが」
教主の言う通りだった。両親は息子が宿主になった事実を受け入れようとせず、最近は《声》だけでなくチェデオ少年そのものまで否定し始めた。友人も最初は気持ち悪いと陰口を叩いていたのが、最近は机に落書きをされ教材や靴を隠され捨てられ、授業中に体液のぬめる半魚人を投げられたことすらある。教師も不祥事を見て見ぬ振りだ。
寄棲獣の生態は、少年少女の未熟な精神には影響が強すぎる。そのため寄棲獣の生態を教えられる高等学科以前の初等、中等学科で、宿主への偏見と虐めが横行していた。
「悪魔は常に我々を監視し、隙あらば牙を剥く。君の両親と友人は、既に悪魔に殺されて成り代わられているのだ。
私と共にこい! 悪魔を打ち倒し、両親と友人の仇を討とう!」
そうだ。両親は自分を愛している。友人とは固い友情で結ばれている。だとしたら、彼らは断じて本当の両親や友人ではない。
「私たちこそが、正義の代行者だ」
正義という概念に、そしてそれを施行する行為に、チェデオ少年の心身が熱くなる。
差し出された教主の掌に、チェデオ少年の熱っぽい視線が注がれていた。
チェデオ少年の両親と友人は、もちろん悪魔の変装などではない。けれどチェデオ少年にとって、彼らは悪魔そのものだった。だからチェデオ少年は教主を信じる。
これは両親と友人に化けた悪魔に正義の鉄槌を下す、とても正しくて崇高な行為だ。
教主の再度の申し出に、チェデオ少年の瞳が揺れを止める。伸ばした手が、力強く教主の手を握った。
「いやぁ、貴殿もお人がお悪い」
街灯の脇に立つ教主の横に、赤毛の青年が反対を向いて立っていた。ビルの屋上から見下ろしていた、翡翠の瞳の男だった。
「年端も行かぬお子ちゃまを洗脳して誘導して、両親と友人を殺させて孤独にさせて、仲間以外が信じられない人間を産み出す。全く、悪魔じみた手腕には感服ですよ」
青年は心の底から感服している、という演技を大仰な身振りで行う、という演技をしていた。どこからどこまでもが、偽装に偽装を重ねた感情と態度であった。
「僕は悪いとは思わないよ。息子を息子とも思わない、友人を友人とも思わない連中が、復讐の刃に貫かれるのは因果応報だよ」
教主がストラを取り払い、素顔を晒す。黒髪黒眼の、どこか寂しげな表情の男だった。
「それは自己催眠ですか?」
「……そうかもね。僕も利己的な理由で彼らを洗脳して利用している。そこらの生ゴミと同じだよ」
「その通り、貴殿は私をも利用している。腹心である私をもね」
「エルリオン、お前も僕を利用しているじゃないか」
「そうでしたそうでした」
教主は呆れて笑みを零し、名前を呼ばれた青年が目を瞑って肩を竦める。
「互いの利害が一致している間は、都合よく利用されてあげるよ。それが処世術というものらしいしね」
教主は能力を発動させて現場のあらゆる痕跡を消去。身元特定と追跡を不可能にする。
「しかし、やはり効率が悪くないですか?」
怪訝に首を傾げる教主。エルリオンは一つ頷き、
「確かに少年少女は宿主としての覚醒が多く、〈斜跳効果〉も起こしやすい」
多感な年頃である思春期の活発な思考と情緒の起伏が、寄棲獣の精神をも成長させるのだ。また物事に対して敏感であり、価値観が曖昧で容易に人生感や性格が変質しやすいため、総じて寄棲獣の成長にとって最も適した年代であると言えよう。
「しかし一方で、体格、体力、筋力、精神力、戦術に経験と、やはり大人の宿主に対抗しようがないほど差は歴然としている。彼ら彼女らを一から育てて鍛えるのは、時間も手間もかかりすぎる」
「それは仕方がないよ。何せ少年少女を正しい道に導くのが、宗教の意義であり大人の義務らしいからね」
皮肉を述べているわけではなく、教主は至極真面目に肩を竦める。
「それに僕は、彼らを戦力とは考えていない」
それは教主の本心だ。虚偽を重ねるエルリオンに、他人の虚偽を見抜くのは容易い。
「もうすぐカルギアに悲劇が訪れる。おそらく、生き残れる者は少数だろう。
僕は彼らに、一人でも生きていける力を身につけさせてやりたい」
「その悲劇を起こすのはレイダースか、ハヤトか、ケルベロスか、それとも私たちか。
悲劇に備えるためのヒガンバナ、そのための兵力だったのでは? 本懐をないがしろにして、貴殿は親か教師にでもなるおつもりですか?」
熱の籠もった教主の宣言を、エルリオンは呆れ気味に茶化した。一転、双眸に過去を懐古する郷愁が浮かべられる。
「そういう意味では、私と貴殿は幸福だ。愛情深い家庭、友情固い親友、そして良き指導者、仲間に恵まれた。誰も私を否定せず、迫害せず、私を私として認めてくれた」
「お前が過去を語るのは珍しいね」
「……口が滑っただけですよ」
教主の指摘で、初めてエルリオンに感情らしい波紋が広がった。ぶっきらぼうに、悔しげに、拗ねたように、唇を尖らせる。
「私は過去を捨てたから私なんですよ。過去を持った私は、私ではない」
エルリオンの瞳に悪意が閃いた。意趣返しとばかりに、教主に向けて舌鋒を放つ。
「そういう貴殿は、過去を引きずっているようですが?」
教主の表情に硬質が過ぎった。隠すのを諦めたというように、溜め息を吐き出す。
「どうやっても切り離せないものさ。過去も含めて僕の、人間の、世界の一部だ。全てを失って生まれ変わりでもしない限り、過去という根源と呪縛からは解き放たれない」
教主は夜の闇に向けて歩き出す。夜闇に一点だけ浮かび上がる白。断絶と孤独を望むようで、同時に見捨てられまいと自己主張しているようにも見える。
教主の背はとても小さく、とても弱々しく。いつしか闇に呑み込まれ、そして消えた。
教主の背を見送っていたエルリオン。知らず知らず胸元の醜い傷跡を撫でていた手は、自らを慰めるように、咎めるように。
「過去を捨てた私に、他人の過去を追求する権利はないか」
自嘲の微苦笑を浮かべるエルリオンの顔が、体が、まるで画素が減らされていくように曖昧になっていく。
誰も彼の本当の名を知らない。誰も彼の目的を知らない。誰も彼の過去を知らない。
青年が消える。文字通り夜の闇に滲んで溶け、跡形も無く消え去った。
まるで最初から、そこには何も存在していなかったかのように。




