第4巻 淀む湖のクロニクル 第9章 湖面に映る薬草庭
浅瀬の観察水路は、湖へ入るための道ではなかった。
岸から見ると、細い水路が湖の方へ伸びている。けれど、足を踏み入れる場所はない。水路の両側には低い木枠が組まれ、その上に小さな鏡葉が何枚も並んでいた。
鏡葉は、水をすくわない。
湖底を覗き込まない。
水面に映ったものだけを、葉の上へ遅れて返す。
ミナモは、薬草灯を胸の高さより少し低く持っていた。灯りを強くすると、映るものが白く飛んでしまうらしい。
ロッカは、予報杭から外した白い布を腕に巻いていた。杭は湖岸に寝かせたままだ。立てたのではなく、場所を作った。白い布だけが風を受けたことも、まだ読み終えたことにはしない。
ククルーは、水路の入口で足を止めた。
「ここは、とても入りたくなる場所だね」
「入っちゃだめなの?」
「だめ、というより、入ると見えすぎるね」
「見えすぎる?」
「見えすぎたものは、答えに見えやすいんだ」
ミナモがうなずいた。
「湖面に映る薬草庭は、底へ取りに行く場所じゃない。上に返ってきた分を、浅瀬で待つ場所」
僕は、休み布を巻いた手首を見た。
さっき、未登録欄の線が予報杭の方へ向いたように見えた。今は、その線が手首の内側で眠っているように感じる。
眠っている、と書くと、少し違う。
止まっているのでもない。
僕はクロニクルブックを開き、まだ何も書かずに、空白だけを見た。
線が代わりに待つ。
今日は、空白も待つのだ。
観察水路の最初の鏡葉に、ミナモが薬草灯の光を置いた。
光は、湖面へ落ちず、葉の縁で一度止まった。
それから、水面に細い輪を作った。
輪の中に、庭が映った。
本当の庭ではない。
湖底へ沈んだものでも、岸にあるものでもない。
薬草の葉に似た形。
棚札の紐に似た線。
祝祭雨の水滴に似た丸い光。
それらが、水面の薄い濁りの中で、少しずつ重なっていた。
「薬草庭」
僕がつぶやくと、ミナモは首を横に振った。
「そう呼んでいるだけ。庭として植えた人はいない」
「じゃあ、どうして庭みたいに見えるの?」
「並び方が、庭に似ているから」
ロッカが、横から札を置いた。
`庭に見える並び`
「庭だと決めない?」
「決めない。でも、庭に見えることも消さない」
ロッカの言葉は、昨日より少し柔らかかった。
当てるための予報ではなく、残ったものの向きを見る声だった。
僕は、鏡葉の上を見た。
薬草に見える葉の隣に、気象棚の札紐に似た線が絡んでいる。その上から、祝祭雨の粒に似た光が落ちている。
一つずつなら、読める気がする。
薬草灯。
気象棚。
祝祭雨。
でも、鏡葉の上では、それらが分かれていない。
分かれていないのに、混ざって消えてもいない。
「絡まってる」
僕が言うと、ミナモが札を書いた。
`絡まっている`
それから、少し考えて、もう一枚。
`ほどく前に見る`
ククルーが小さく目を細めた。
「ほどく前に見たんだね。ほどいたあとの形だけを正解にしない」
「ククルー、それは名言札棚に入れたそう」
「今、かなり我慢しているよ」
ロッカが、静かに笑った。
笑いが大きくならないのは、ここが水路だからだ。声を強くすると、鏡葉が震えて、映ったものが切れてしまう。
僕たちは、次の鏡葉へ進んだ。
進む、と言っても、足で水路へ入るわけではない。木枠の外を、ゆっくり歩く。鏡葉の前で止まり、灯りの高さを少しだけ変え、風の向きを見て、映ったものを待つ。
二枚目の鏡葉には、薬草灯の根に似たものが映った。
根は、水の中で細く伸びている。けれど、土を掴んでいない。水の流れにも乗っていない。隣の棚札の紐に引っかかり、その紐はさらに、雨粒の丸い光へ結ばれている。
「根が絡んでる」
僕は言った。
「根だけじゃない」
ミナモが、薬草灯を少しだけ傾けた。
根に見えた線の一部が、棚札の文字へ変わった。
`待ち目`
あの夜に見た砂時計葉の小さな止まり目。
香りを早めると、消えてしまった待ち目。
それが、ここでは薬草の根のように映っている。
「待ち目が根みたいに見える」
僕が言うと、ミナモはうなずいた。
「薬草灯の待ち時間は、根にも見える。札にも見える。灯りの高さで、どちらにも見える」
ロッカが、風札を一枚、鏡葉の横へ置いた。
`灯りの高さで形が変わる`
ククルーが続ける。
「つまり、形だけを見て原因にすると、早い」
「薬草が原因、って言えない」
「言えません」
「気象棚が原因、も?」
「言えません」
ロッカが、短く答えた。
「祝祭雨が原因、も?」
ミナモは、薬草灯の炎ではない光を見た。
「言えない。でも、祝祭雨が関係ない、とも書かない」
僕は、クロニクルブックに札を写した。
`関係ない、とも書かない`
書いた瞬間、未登録欄の細い線が、ほんの少し震えた。
僕は息を止めなかった。
「震えた」
言うと、ミナモもロッカも、すぐに手首を見なかった。
ククルーも鈴を触らない。
その遅さに、僕は少し安心した。
「どこが?」
ミナモが聞く。
「未登録欄の線。手首じゃなくて、紙の方」
ロッカが札を書く。
`紙の線が震えた`
ククルーが、その下へ小さく書き足した。
`体の返事とはまだ分ける`
僕は、うなずいた。
手首の水紋と、紙の線。
どちらも僕に近い。
でも、同じではない。
同じ話にしない。
同じ棚に置くとしても、段を分ける。
三枚目の鏡葉へ進む頃、湖面の霧が少しだけ薄くなった。
晴れたわけではない。
濁りが消えたわけでもない。
ただ、濁りの中に、細い光が通る場所ができた。
ミナモが言った。
「ここからは、強く見ようとすると見えなくなる」
「どういうこと?」
「薬草灯を上げると、光が勝つ。気象棚の札を増やすと、風が勝つ。祝祭雨の水滴を集めると、粒だけが勝つ」
「勝つと、だめ?」
ロッカは首を横に振った。
「勝つ日もある。でも、今日は勝たせる日じゃない」
僕は、鏡葉を見た。
そこには、細い光が映っていた。
まだ名前を知らない細い光。
小瓶の底に出たものに似ている。
でも、まだ名前をつけない。
今ここで呼んでしまうと、知らないものまで答えにしてしまう。
僕は、葉筆を持ち上げて、ゆっくり書いた。
`まだ名前を知らない細い光に似ている`
ククルーが、その札を見て、小さくうなずいた。
「名前の手前で止めたんだね」
「我慢を褒められても、あまりうれしくない」
「それじゃ、観察の場所が少し増えたね」
「勝たせる日じゃないって言ったばかり」
ククルーは、少しだけ困った顔をした。
「ぼくの語彙も、今日は浅瀬で待つよ」
ロッカが、声を出さずに笑った。
その笑いで、鏡葉の端が少し震えた。
映った細い光は消えなかった。
揺れたまま、少しだけ位置を変えた。
ミナモが札を書く。
`揺れても消えない`
それから、もう一枚。
`位置が変わる`
僕は、その二枚を見て、湖岸の予報杭を思い出した。
立てたのではなく、布が先に起き上がった。
置き場所を得ると、返事はすぐ答えになるのではなく、向きを変えることがある。
ここでも同じだ。
薬草庭に見えるものは、原因を見せているのではない。
向きを見せている。
何がどちらへ引っ張られているのか。
どの返事が、どの灯りや風や雨粒に遅れているのか。
それを、ほどく前に映している。
「これを、流せばいいわけじゃないんだね」
僕が言うと、ミナモの顔が少し引き締まった。
「そう。流すだけなら、絡まりは消えたように見える」
ロッカが続ける。
「風を強くすれば、紐はほどけたように見える」
ククルーが、声を落とした。
「灯りを強くすれば、見えないものは消えたように見えるね」
三人の言葉が、鏡葉の上で重なった。
僕は、すぐに札を書いた。
`消えたように見える手順がある`
書いてから、胸の奥が少し冷えた。
次の試し場へ行く前の寒さだと思った。
まだ試していない手順の手前に、手を置いたような感じ。
「怖い?」
ミナモが聞いた。
「少し」
「それでいい」
「怖いままで?」
「怖いまま、試し札にする」
ミナモは、僕の札の横にもう一枚置いた。
`怖さも試し札にする`
僕は、その字を見て、夜の待つ石を思い出した。
早めたい気持ちは悪ではない。
でも、答えとして湖へ投げない。
怖さも同じなのだろう。
怖いから、急いで澄ませたくなる。
怖いから、絡まりをほどいたことにしたくなる。
怖いから、薬草が原因、風が原因、雨が原因、自分が原因と、一枚だけを選びたくなる。
でも、ここでは選ばない。
四枚目の鏡葉は、なかなか何も映さなかった。
ミナモは灯りを上げない。
ロッカは風札を増やさない。
ククルーは説明を足さない。
僕は、クロニクルブックの空白を埋めない。
しばらくして、水面の下から、沈んだ祝福札が一枚だけ映った。
文字は読めない。
けれど、札の端に三つの印があった。
薬草灯の小さな葉。
気象棚の風紐。
祝祭雨の丸い粒。
三つの印は、一枚の札の端で、ほどけずに並んでいた。
「三つともある」
僕が言うと、ロッカは小さく首を横に振った。
「三つだけ、とも書かない」
ミナモがうなずく。
「今見えた三つ」
ククルーが、札を差し出した。
`今見えた三つ`
僕は、それを受け取り、沈んだ祝福札の横に置いた。
湖面の低い音が返ってきた。
ずん。
その音は、いつもより少し近かった。
近いからといって、読めるわけではない。
でも、遠すぎて届かない音でもない。
僕は、クロニクルブックに書いた。
`近いが、読めるとはまだ書かない`
未登録欄の線は、もう震えなかった。
代わりに、線の先に小さな水滴がついた。
水滴は、丸くならず、紙の上で少し横へ伸びた。
ミナモは、それを見てから、初めて僕の手首の休み布へ目を向けた。
「手首は?」
「静か」
「紙だけ?」
「紙だけ、だと思う」
ロッカが札を書く。
`紙だけ、だと思う`
そして、すぐ下にもう一枚。
`思う、で止める`
僕は笑いそうになった。
ロッカの字が、少しずつ柔らかくなっている。風を押さえつける字ではない。風が抜ける隙間を残した字だ。
「それ、ロッカの札?」
「今日は、そう」
「名言札棚に」
「入れない」
ククルーが言う前に、ロッカが止めた。
ククルーは、両手を上げる。
「先に読まれました」
「それも札にする?」
「しないよ。ぼくの敗北は、今日は水路に不要だからね」
ミナモが笑い、鏡葉が少し揺れた。
沈んだ祝福札の三つの印は、揺れても消えなかった。
その代わり、印の間に、細い空き目が見えた。
空き目。
絡まりの中に残っている、ほどけていない場所ではなく、まだ何も通っていない細い間。
僕は、そこを見て、息を呑んだ。
「空いてるところがある」
ミナモが薬草灯を動かしかけて、止めた。
ロッカも風札へ手を伸ばしかけて、止めた。
ククルーは、何も言わない。
「そこ、通せばいいのかな」
僕が言うと、自分の声が少し早かった。
ミナモは、首を横に振らない。
ただ、札を書いた。
`通せばいい、とはまだ書かない`
ロッカがもう一枚置く。
`空き目を見つけた`
ククルーが続ける。
`使う前に待つ`
三枚が並ぶと、僕の早さが少し落ち着いた。
空き目は、道に見える。
道に見えると、通りたくなる。
でも、通ることが正しいとは限らない。
空いているからといって、そこへ水を流せばよいとは限らない。
光を入れればよいとも、風を通せばよいとも、薬草灯を近づければよいとも言えない。
この空き目は、何かを急がせる入口に見えた。
僕はそう感じた。
でも、まだ試していない手順を、今の答えとして札にしてはいけない。
今は、今の札だけを書く。
`空き目は、まだ手順ではない`
書いた途端、沈んだ祝福札の端が、少しだけ明るくなった。
明るくなったように見えた。
僕はすぐに、下へ書き足した。
`明るくなったように見える`
そして、もう一枚分の空白を残す。
`戻ったとはまだ書かない`
ミナモが、深く息を吐いた。
「うん。今日は、そこまで」
「読まないの?」
「読んだ。けれど、手順にはしない」
ロッカが、鏡葉の横に置いた札を束ねた。
`庭に見える並び`
`ほどく前に見る`
`関係ない、とも書かない`
`消えたように見える手順がある`
`今見えた三つ`
`空き目は、まだ手順ではない`
束ねると、札は重く見えた。
重いのは、答えが入っているからではない。
答えにしないための待ち時間が入っているからだ。
浅瀬の観察水路を離れる時、鏡葉の上にはまだ薬草庭が映っていた。
でも、最初より庭らしく見えなかった。
薬草だけではない。
気象だけではない。
祝祭雨だけでもない。
庭に見える並びの中で、三つの印と、まだ見えていないものと、空き目と、揺れても消えない細い光が、遅いまま置かれている。
湖の原因は、まだ分からない。
分からないことを、今日は失敗にしない。
僕たちは、観察水路の入口へ戻った。
予報杭の白い布が、遠くで小さく揺れている。立ったのではない。まだ寝かされた杭の先で、布だけが風を受けている。
その向こうで、薬草灯の灯りが朝の中へ薄く混ざっていた。
ロッカは言った。
「空き目を見つけると、通したくなる」
ミナモが答える。
「灯りを近づけたくなる」
ククルーが続けた。
「正しい手順に見えてしまう」
僕は、三人の言葉を聞きながら、クロニクルブックを閉じた。
閉じても、未登録欄の水滴は消えない。
でも、紙の中で暴れもしない。
僕は、最後に一枚だけ札を書いた。
`早く通せそうな場所ほど、急がない`
それは、次の試し場へ持っていく札になった。
まだ、湖面は澄んでいない。
でも、澄ませたくなる場所が、少しだけ見えてしまった。
そのことが、晴れた朝よりもずっと、怖かった。




