第4巻 淀む湖のクロニクル 第7章 体に残る水紋
休み布の間は、薬草灯の小屋よりもさらに低い場所にあった。
湖岸から少しだけ引いたところに、丸い葉を重ねた屋根がある。壁は半分しかなく、風が通る。けれど、湖面は直接見えない。見ようと思えば見える高さなのに、屋根の葉と吊るされた布が、視線を少しだけ休ませていた。
「湖が見えない」
僕が言うと、ミナモは首を横に振った。
「見えすぎない」
「見えすぎない」
「うん。見えない場所へ隠すのではなく、見えすぎる場所から少し下げる」
休み布の間には、白い布、薄い緑の布、水を含むと透明に近くなる布が並んでいた。どの布にも、細い線が縫い込まれている。模様ではない。水紋が広がる速さを見るための線だと、ミナモが教えてくれた。
「腕を置いて」
僕は、言われた通りに腕を台へ置いた。
台は冷たくない。少し温かい。薬草灯の熱ではなく、誰かがさっきまで手を置いていたような温かさだった。
休み布をほどくと、手首の水紋はまだそこにあった。
薄い。
けれど、消えてはいない。
輪になりかけて線に戻った形が、皮膚の上に浅く浮いている。じっと見ると、湖面のクロニクルで見た文字になる前の揺れと似ている。けれど、同じとは言えない。
僕は、すぐに目をそらした。
見ていると、読みたくなる。
読みたくなると、決めたくなる。
「これ、僕が湖に何かしたから?」
言った瞬間、部屋の風が少し止まった。
ククルーは、鈴を鳴らさなかった。
いつもなら、歩く時や身じろぎの時に、ほんの小さく音がする。けれど今は、鈴が沈黙している。その沈黙が、答えを隠しているようにも、答えを急がせないようにも感じられた。
ミナモは、すぐに否定しなかった。
否定してくれたら楽なのに、と思った。
でも、すぐに否定されると、僕はきっとその否定を答えにしてしまう。
ロッカが、葉札を一枚取った。
`自分が原因かもしれないと思った`
「それ、書くの?」
「思ったことは、置く」
「原因って書いていいの?」
「かもしれない、まで」
ロッカは、札の下にもう一枚置いた。
`まだ原因ではない`
ミナモは、その二枚を僕の手首から離して置いた。近すぎると、手首が答えだと思う。さっき、ククルーがそう言った。
僕は息を吐いた。
「でも、もし僕のせいなら」
「せい、という言葉は重い」
ククルーが静かに言った。
「重い?」
「うん。重い言葉は、置く場所を間違えると、人に直接乗るね」
ククルーは、葉筆を持ち上げた。
`僕のせいかもしれない`
その札を書いて、すぐ横にもう一枚。
`せい、とはまだ書かない`
「書いてる」
「書いてから、まだ書かないと置くんだ」
「ずるい」
「案内には、こういうずるさも必要だよ」
ククルーの声は少しだけ軽かった。けれど、軽くしすぎない。僕が笑って全部をほどけた気分にならないよう、半分だけの軽さだった。
ミナモは、薄い緑の休み布を手首の下へ敷いた。
「これは隠す布じゃない」
「読まないための布」
「もう一つ」
ミナモは、布の縫い目を指した。
「広がったかどうかを、急いで見ないための線」
「見ないために、線があるの?」
「見たくなった時、線が代わりに待つ」
その言い方が不思議で、僕は布を見た。
布の線は、手首の水紋に触れない。少し離れたところで、同じ向きに並んでいる。まるで、水紋へ「今はそこまで」と言っているようだった。
ロッカが札を書いた。
`線が代わりに待つ`
僕は、その札を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
水紋を見なくても、見ていないことにならない。
休ませても、なかったことにならない。
それは、今の僕に必要な場所だった。
「未登録欄は?」
僕は聞いた。
クロニクルブックは膝の上にある。白い欄の端には、薄い水の線、小さな輪、今夜の細い線が残っている。
ミナモは、クロニクルブックを閉じなかった。
「閉じない。でも、手首の上に置かない」
「近すぎる?」
「近すぎる」
ロッカが、低い台をもう一つ引き寄せた。
そこへクロニクルブックを置く。
僕の手首から、半歩。
遠くはない。
でも、重ならない。
「反応と記録を分ける」
ミナモが言った。
`反応`
`記録`
ロッカが二枚の札を書き、手首とクロニクルブックの間に置いた。
「反応は、体に出たこと。記録は、書かれたこと。どちらも大事。でも、同じ役目ではない」
僕は、うなずいた。
うなずいたけれど、胸の奥ではまだ、同じ話にしたくなる気持ちが動いている。
小瓶も、未登録欄も、手首も。
全部が一つの答えを指しているように見えたら、どれだけ怖くて、どれだけ楽だろう。
怖いのに、楽。
それが一番危ないのかもしれない。
僕は、自分で札を書いた。
`同じ話にすると、怖いけれど楽になる`
書いたあと、少し恥ずかしくなった。
ロッカは、何も言わずにその札を読んだ。
ミナモも、何も言わずに、札を手首から少し離して置いた。
ククルーは、しばらく黙っていた。
鈴は、まだ鳴らない。
「ククルーの鈴も、休んでる?」
僕が聞くと、ククルーは耳を少し伏せた。
「今日は、鳴らないまま置いた方がいい音もあるよ」
「鳴らすと?」
「答えが来たように聞こえるかもしれないね」
「本当は?」
「本当は、ぼくが少し困っているだけかもしれないよ」
ククルーは、そう言ってから、自分で札を書いた。
`鳴らない鈴の間`
それを、僕の手首ではなく、部屋の入口に近い小さな棚へ置いた。
「そこに置くの?」
「鈴のことは、今夜の中心にしないよ」
「でも、気になる」
「気になることも、入口に置けるよ」
ククルーは僕を見た。
「ククルーの鈴を読めば、きみの水紋が分かる、ということにはしないよ」
その言葉で、僕は少しだけ息を吸えた。
ククルーの鈴も、僕の水紋も、湖のクロニクルも、同じ話にしたくなる。
でも、今夜はしない。
入口に置く。
手首の布が、ほんの少し温かくなった。
水紋は見えない。
けれど、布の縫い目の一本が、かすかに湿った。
ミナモは、そこへ葉筆を近づけた。
触れない。
「広がった?」
僕が聞くと、ミナモは首を横に振った。
「広がったか、まだ見ない」
「でも、湿った」
「湿ったところまで書く」
ロッカが札を書いた。
`布の線が少し湿った`
その横へ、ミナモがもう一枚。
`水紋が広がったとはまだ書かない`
僕は、その二枚を見て、ほっとしそうになった。
広がっていないなら大丈夫。
そう思いかけて、止める。
広がっていない、と決めるのも早い。
ミナモが、僕の顔を見て小さくうなずいた。
「上手に止まった」
「止まっただけ」
「止まっただけ、では小さすぎる」
前にも聞いた言い方に似ている。
見えにくいだけ、とも書かない。
止まっただけ、とも書かない。
小さく見えることほど、置き方を間違えると、すぐ答えになる。
休み布の間の外で、風が鳴った。
気象棚の方だ。
ロッカは、少しだけ顔を向けた。
でも、立たない。
「見に行かなくていいの?」
僕が聞くと、ロッカは、昨日の札を取り出した。
`風も見たがっている`
「風が見たがっていることは、もう書いた」
「今日は?」
「今日は、手首が休むところを先に見る」
「僕のせいで、ロッカの仕事を止めてない?」
ロッカは、すぐに札を書いた。
`誰かの休みで、誰かの仕事が止まったように見える`
それから、もう一枚。
`止まったのではなく、順番を変えた`
「気象棚は逃げない」
ロッカが言う。
「風は逃げるかもしれないけど、逃げたことも札になる」
「それでいいの?」
「よくはない。でも、責める形にしない」
僕は、ロッカを見た。
ロッカの目は、気象棚の方を見たがっていた。けれど、足は休み布の間に残っている。
見たいものを見に行かないことも、待つことなのだ。
ククルーが、入口の棚に置いた `鳴らない鈴の間` を少しだけ直した。
「みんな、何かを見に行かない夜だね」
「ククルーも?」
「もちろん。ぼくは名言札棚を作りに行かないよ」
「それは行かなくていい」
ロッカがすぐに言い、ミナモが小さく笑った。
笑いは、部屋の中を少しだけ明るくした。
その時、休み布の下で、水紋が一度だけ脈を打った。
痛みではない。
冷たさでもない。
遠くの湖が、手首の内側で小さく返事をしたような感じだった。
僕は、息を止めなかった。
止めたら、それが合図になってしまう気がした。
「今、動いた」
僕は言った。
ミナモは、やはり布をめくらない。
「どんなふうに?」
「湖の音みたいに。でも、小さい」
「痛み?」
「違う」
「怖さ?」
「少し。あと、呼ばれた感じ」
ロッカが、札を書いた。
`小さく呼ばれた感じ`
僕は、その札を見て、すぐに言った。
「呼ばれた、って書くと、行かなきゃいけないみたい」
ロッカは、うなずき、下に書き足した。
`行く合図とはまだ書かない`
ミナモが、もう一枚置く。
`体の返事`
ククルーが、少し考えてから僕を見た。
「その二枚、並べるとどう見えるかな」
僕は、ロッカの札とミナモの札を見た。
`行く合図とはまだ書かない`
`体の返事`
合図ではない。
でも、返事ではある。
返事。
返事は、答えをくれるものだと思っていた。少なくとも、何かをこちらへ向けて返すものだと。でも、返ってきたからといって、すぐ動かなければならないわけではない。
僕は、葉筆を取った。
`返事は、命令ではない`
自分で書いてから、胸の奥が少しほどけた。
呼ばれた感じがあっても、すぐ行かなくていい。
水紋が出ても、すぐ読まなくていい。
体が反応しても、僕が湖の原因だと決めなくていい。
「それ、クロニクルブックに書く」
僕は言った。
ククルーが、うなずく。
「今のは名言札棚に入れたくなるね」
「自分で言わなければ」
「それじゃ、旅人の札として」
僕は、クロニクルブックに書いた。
`返事は、命令ではない。`
書いたあと、未登録欄の細い線が、ほんの少しだけ薄くなった。
いや、薄くなったように見えた。
僕は、すぐに札を書いた。
`薄くなったように見える`
そして、もう一枚。
`消えたとはまだ書かない`
ミナモが、満足そうにうなずいた。
「自分で分けられた」
「分けられた?」
「うん。反応と証明。見えたことと、決めたこと」
僕は、布の上から手首を押さえた。
水紋は、まだそこにある。
でも、さっきより少しだけ、僕のものとして持てる気がした。
僕のもの、というのは、原因という意味ではない。
隠すものでも、証明するものでもない。
今、僕の体に出た反応。
その反応を、誰かに押しつけず、湖へ投げず、ククルーの鈴へも結びつけず、休み布の上に置いておく。
夜が少しずつ薄くなってきた。
湖の向こうが白くなる前の、いちばん静かな時間。
ミナモは、休み布の端に小さな結び目を作った。
「朝まで、このまま」
「朝に読む?」
「朝に見る。読むかどうかは、その時決める」
ロッカは、気象棚へ持っていく札を束ねた。
`風も見たがっている`
`順番を変えた`
`返事は、命令ではない`
「気象棚の裏手で、風にも同じことを聞く」
「風にも?」
「返事は命令かどうか」
ククルーが、入口の棚から `鳴らない鈴の間` を取った。
「この札は、持っていきません」
「置いておくの?」
「うん。鈴のことは、ここで休ませるよ」
ククルーの鈴は、まだ鳴らない。
けれど、その沈黙は、さっきより怖くなかった。
鳴らないことも、今夜は返事を急がせないための間なのだと思えた。
僕は、休み布を巻いた手首を胸の前に寄せた。
湖の音は、遠い。
でも、遠いまま聞こえる。
ずん。
その低い返事は、もう僕を呼び出す命令には聞こえなかった。
まだ言葉にならない。
まだ証明ではない。
けれど、なかったことにもならない。
僕たちは、朝の気象棚の裏手へ向かうために、休み布の間の灯りを一つだけ残した。




