第4巻 淀む湖のクロニクル 第4章 忘れたのではない家
湖畔の家は、低い屋根をしていた。
雨を避けるためではない。屋根の端が湖面に近いほど、遅れて戻る音を拾いやすいのだと、ミナモが教えてくれた。軒先には細い布が何枚も下がっている。風が通ると、布は揺れる。けれど、戸口の小さな鈴は鳴らなかった。
鈴は、金属ではない。薄い木の実を二つ合わせ、間に小さな葉片を挟んだものだ。鳴れば、からん、ではなく、こつ、と乾いた音がするらしい。けれど今は、揺れるだけで音を返さない。
「壊れているの?」
僕が聞くと、ミナモは首を横に振った。
「壊れている、と書くには早い」
ロッカは `晴れても戻らない音` の札を戸口の横へ置いた。
バドゥは家並みの入口に残った。ここから先は、家の中の待ち時間を読む場所だと分かっているようだった。
「来ないの?」
「入口の札は渡した。ここから先は、家の人と、ミナモとロッカの棚だ」
戸口へ入る前に止まる。
それは拒まれているようにも見える。けれど、拒まれている、と決めるのも早い。僕はクロニクルブックを開き、書きかけて、手を止めた。
`拒んでいる`
その言葉は強すぎる。
僕は消さずに、まだ書かないことにした。
ククルーが僕の手元をのぞく。
「書かない札も増えてきたね」
「書かない札って、あるの?」
「あるよ。心の中の棚に置かれるんだ」
「便利な棚だ」
「便利だけれど、整理を怠ると足元に落ちるね」
ミナモが、戸口の布をほどかなかった。薬草灯の岸で布をほどく前に空白の札を置いた時と同じ手つきだ。場所で覚えると、その手つきは少し戻ってくる。
ミナモは、空白の札を戸口の下へ置いた。
` `
白い札。
「また空白」
「戸口の音が戻る場所」
「音にも戻る場所がいる?」
「いる。音は、戻る場所がないと、誰かのせいになりやすい」
その言葉を聞いた時、僕は小瓶を少し握り直した。さっき、僕は「これは僕のせい?」と言いかけた。音も、輪も、線も、戻る場所がないと誰かのせいになる。
戸口の向こうから、人が出てきた。
若い見守り手だった。薬草灯の岸で布を持ってきた人と同じ人だ。名前はまだ聞いていない。聞いてもいい気がしたけれど、今は名前より先に、家の音を見る時間だと思った。
見守り手は、戸口の鈴を見て、少し困った顔をした。
「今日も鳴らない」
「いつから?」
ミナモが聞く。
「母が湖の端へ行った日から」
僕は、母、という言葉に胸の奥が反応するのを感じた。薬草灯の岸で、彼女は母が同じ布を持って出たと言っていた。今、同じ話が戻ってきている。でも、同じではない。布の話と、戸口の音の話は、近いけれど同じではない。
ミナモは、すぐに「帰っていないの?」とは聞かなかった。
「その日の朝、鈴は鳴った?」
「鳴った。母が出る時に、一度」
「戻った時は?」
見守り手は、少しだけ首をかしげた。
「戻った、と思う。布は戻っていたから」
ロッカが、札を置く。
`布は戻った`
ミナモが、別の札を置く。
`鈴は鳴らない`
ロッカは敷居の横に残った薄い泥を見て、言った。
「足跡は戻っている」
見守り手が、少し驚いた顔をした。
「足跡、ありますか」
「ある。浅いけど、家へ向いている」
ロッカが三枚目を置く。
`足跡は戻った`
僕は、三枚の札を見た。
布は戻った。
鈴は鳴らない。
足跡は戻った。
戻っているものと、戻っていないものが同じ戸口にある。
「忘れているわけじゃない?」
僕が言うと、見守り手の肩が少し揺れた。
その揺れを見て、僕は自分の言葉が速かったことに気づいた。
忘れている。
忘れていない。
どちらも、今の家には大きすぎる。
「ごめん。今のは、早かった」
見守り手は首を横に振った。
「忘れていないと言われると、少し楽です。でも、忘れていないなら、どうして鳴らないのかって、すぐ考えてしまう」
「それも早い?」
「たぶん」
見守り手は、自分でそう言って、小さく笑った。笑い声は戸口へ当たった。鈴は鳴らない。けれど、吊られた布の端が、ほんの少しだけ戻りたがった。
ロッカがすぐに札を足す。
`笑い声で布だけ戻りたがる`
「鈴は?」
「まだ」
ロッカは短く答えた。
まだ。
この家にも、まだ、がある。
ミナモは、戸口の横にある棚を見た。棚には椀が伏せてある。三つ。大きい椀、小さい椀、縁が欠けた椀。
「椀はいつも三つ?」
見守り手は、棚を見た。
「たぶん」
「たぶん?」
「数えると三つ。でも、置く時は二つで足りる気がする」
僕は、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。
数えると三つ。
置く時は二つで足りる。
どちらが正しいのか、と考えかけて、やめた。気象棚で教わったばかりだ。同じ空に置く。
僕はロッカから預かった札を出した。
`同じ空に置く`
そして、椀の横へ置く。
見守り手は、札を見て、少し息を吐いた。
「三つあるのに、二つで足りる気がするのは、変だと思っていました」
「変、って書く?」
僕が聞くと、ミナモは首を横に振った。
「変、と書くと、その人のせいになる。今は、数える椀と、使う椀がずれている」
ミナモは札へ書いた。
`数える椀`
`使う椀`
ロッカがその間へ、小さな石札を置く。
`時間差`
「椀にも時間差があるの?」
「ある。朝に戻る椀と、昼に戻る椀が、同じ棚にいる時がある」
「椀が戻る?」
「使ったことを思い出す順番が戻る」
ミナモは、欠けた縁の椀を手に取らなかった。指先を近づけるだけで止める。
「これは、触ると早い」
「どうして?」
「欠けているところを見ると、壊れた話へ行きたくなる」
欠けた椀。
鳴らない鈴。
戻った布。
戻った足跡。
全部を一つの話へつなぎたくなる。母が出て、戻って、でも何かを忘れて、鈴だけが鳴らなくなった。そう言えば、分かった気になれる。
けれど、それは早すぎる。
小瓶が、掌の中で鳴った。
こん。
戸口の鈴は、鳴らない。
湖は、少し遅れて返す。
ずん。
その低い音のあと、棚の上の小さい椀だけが、かすかに震えた。
見守り手が息をのんだ。
「それ、母が夜に使う椀です」
「夜に?」
「薬草灯を見に行く前、湯を少しだけ入れて」
言いかけて、見守り手は口を閉じた。
ミナモは待った。
ロッカも待った。
家並みの入口に残ったバドゥも、遠くで何も言わずに待っていた。
ククルーは、何も言わずに座っている。老猫の背中は小さいのに、そこへ沈黙がきちんと乗っていた。
「湯を入れて、戸口の鈴が鳴るまで冷ますんです」
見守り手は、ゆっくり言った。
「鳴ったら、飲む。鳴らなかったら、もう少し待つ」
ミナモが、札を書いた。
`鈴が鳴るまで冷ます`
「それは、いつからの手順?」
「母が決めたと思います。でも、いつからかは、思い出せない」
「思い出せない、って書いていい?」
見守り手は少し考えた。
「いいです。でも、忘れた、とは書かないでください」
ミナモは、うなずいた。
`思い出す順番が遅れている`
その札が置かれた時、戸口の布が大きく揺れた。
鈴は鳴らない。
でも、布の揺れ方が変わった。風に押されるだけではなく、内側から誰かが軽く息をしたような揺れだった。
「家が返した」
ロッカが言った。
「家が?」
「うん。湖じゃなくて、家」
家が返事をする。
その言い方は、不思議なのに、ここでは自然だった。湖のそばの家は、湖だけではなく、住む人の待ち時間も受け取っている。
ミナモは、空白の札を戸口の下から取り、今書いた札の横へ移した。
`思い出す順番が遅れている`
その横に、空白。
「空白はまだ必要?」
「必要。順番が遅れていると分かっても、何が戻るかはまだ分からない」
見守り手は、ほっとしたような、少し困ったような顔をした。
「分かったのに、まだ分からないんですね」
「うん」
ミナモはやわらかく答えた。
「分かった分だけ、まだ分からない場所がはっきりする」
ククルーが、しっぽを揺らした。
「その聞き方が残ると、ぼくも少し楽になるよ」
「助かってる?」
「もちろん。ぼくも、聞く日があるよ」
その言葉に、見守り手が少し笑った。
笑い声が戸口へ当たる。
今度は、鈴が鳴った。
こつ。
とても小さい音だった。
鳴った、と言ってしまうには小さすぎる。けれど、鳴らなかった、と言うには確かに音があった。
見守り手は、手を伸ばしかけて止めた。
「触ってもいいですか」
ミナモはすぐには答えなかった。鈴を見て、布を見て、椀を見た。
「触る前に、音を置く」
見守り手はうなずいた。
ミナモが札を渡す。
`鳴りかけた`
見守り手は、自分の手でその札を書いた。字は少し震えていた。
鳴った、ではない。
鳴りかけた。
戻った、ではない。
戻りたがる。
同じ家の中に、まだ終わっていない言葉が並んでいく。
僕は、胸の中が少しあたたかくなるのを感じた。解決したからではない。誰かの困りごとが、責められずに置かれたからだ。
ミナモは、見守り手に聞いた。
「この札、共同棚へ持っていける?」
「家の外へ出していいんですか」
「出すというより、戻る場所を増やす」
ロッカが、戸口の外を指した。
湖畔の道の少し先に、低い棚が見えた。薬草灯の棚より粗く、気象棚より小さい。屋根はなく、代わりに大きな葉が何枚も重ねられている。棚の上には、家ごとの札が並んでいた。
「共同棚」
ミナモが言った。
「家の中だけで待つと、音が重くなる時がある。共同棚へ置くと、同じ遅れを持つ家が、隣に札を置ける」
僕たちは、見守り手と一緒に共同棚へ向かった。
棚の前には、すでに何人かがいた。椀を持つ人。戸口の布を丸めて持つ人。小さな木札を胸に抱えている子ども。誰も大声では話さない。けれど、黙っているわけでもない。声が出るまでの場所を、互いに空けているようだった。
棚には、いろいろな札がある。
`朝の椀だけ戻る`
`名前ではなく足音が先`
`窓は映る。中の灯りは遅い`
`帰った気配だけ、戸口で止まる`
僕は、最後の札で足を止めた。
帰った気配だけ、戸口で止まる。
それは、さっきの家と似ている。けれど、同じとは言えない。
見守り手も、その札を見ていた。
「うちだけじゃない」
その言葉は、安心にも不安にも聞こえた。
うちだけじゃない。
だから、責めなくていい。
うちだけじゃない。
だから、湖全体で何かが起きている。
その二つを、すぐ一つにしないために、共同棚があるのだと思った。
ミナモは見守り手の札を、棚の端ではなく、中央より少し左に置いた。
`鈴が鳴るまで冷ます`
`思い出す順番が遅れている`
`鳴りかけた`
三枚の札。
ロッカは、その横へ気象棚の札を一枚添えた。
`晴れても戻らない音`
その時、隣に立っていた年配の男の人が、胸に抱えていた木札をそっと棚へ置いた。
木札には、何も書かれていないように見えた。けれど、光の角度を変えると、浅い傷がいくつも見える。文字ではない。椀を置いた跡に似ている。丸い跡が二つ、少し離れて並んでいる。
「うちの棚も、数えると二つある」
男の人は言った。
「でも、朝になると片方を片づけたくなる。片づけると、昼にないことに気づく。戻すと、夜に邪魔だと思う」
見守り手が、その木札を見た。
「うちの椀と似ています」
「似ている。でも、たぶん同じじゃない」
男の人は、少し照れたように笑った。
「うちは椀じゃなくて、履き物なんだ。湖へ出る時に履くものが二つある。片方は棚へ戻る。片方は、戸口の外で待ちたがる」
ロッカが、すぐに札を書いた。
`履き物が戸口で待ちたがる`
ミナモは、見守り手の札の横へ置いた `思い出す順番が遅れている` を指で押さえた。
「椀だけじゃない」
「履き物も?」
「うん。でも、同じ症状、とは書かない」
ロッカが、気象棚の石札を一つ足した。
`別の家の同じ空`
「同じ空に置くの?」
僕が聞くと、ロッカはうなずいた。
「同じ棚に置く。でも、同じ話にしない」
男の人は、木札の上へ小さな葉を一枚置いた。
「片方だけ、湖の匂いが遅れて戻る」
「匂い?」
「朝はしない。昼に少しする。夜になると、もう分からない」
ミナモが、札へ書いた。
`湖の匂いが昼に戻る`
僕は、その札を見て、夜の薬草灯のことを思った。夜に見えるものがある。昼には早く見えすぎるものがある。逆に、昼にしか戻らない匂いもある。時間は、ただ流れているだけではなく、返事が戻る順番を変えている。
共同棚の前の泥には、足跡がいくつもあった。
バドゥなら、きっとそれを足で読めるのだろう。でも今は、足跡そのものを誰かの答えにしない。ロッカが細い棒で、棚の前の泥に触れず、空中で線をなぞった。
「棚を回って、湖へ戻る線がある」
「足跡?」
「足跡かもしれない。履き物の匂いかもしれない。椀を運ぶ時の体の向きかもしれない」
「どれ?」
「まだ、どれとも書かない」
ロッカは札を置いた。
`棚を回って湖へ戻る線`
沈んではいない。
止まってもいない。
でも、誰の足跡か、何の匂いか、まだ決めない。
それは原因ではない。けれど、次に見る場所の向きを示す言葉だった。
ククルーが共同棚を見上げる。
「家の中だけでは持てない待ち時間があるね」
「共同棚は、そのため?」
「そうだね。待ち時間をひとりの家の失敗にしないため」
僕は、その言葉をクロニクルブックに書いた。
`待ち時間を、ひとりの家の失敗にしない。`
書いたあと、未登録欄が風で少しめくれた。
薄い水の線も、小さな輪も、そこにある。濃くなってはいない。広がってもいない。
僕は、すぐに自分のことへ戻りそうになる心を感じた。
僕も、どこかの共同棚へ置かれるものなのだろうか。
その問いは、まだ大きすぎる。
僕は、今は書かなかった。
代わりに、見守り手の家の札の横へ、自分の見たことだけを置く。
`戸口の音は、鳴りかけた。`
湖が低く返した。
ずん。
共同棚の葉が、順番に揺れる。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
揺れ方はそろっていない。けれど、ばらばらでもない。まるで、別々の家が、同じ歌を少しずつ違う速さで思い出しているみたいだった。
見守り手は、鳴りかけた札を見ていた。
「今日は、帰ったと言っていいですか」
ミナモは首を横に振った。
見守り手の顔が少し曇る。
けれど、ミナモは続けた。
「帰っていない、とも言わない」
ロッカが言う。
「鳴りかけた。戻りたがる。思い出す順番が遅れている。今日はそこまで」
見守り手は、ゆっくりうなずいた。
「そこまでを、家に持って帰ります」
「持って帰る時、札を閉じないで」
「はい」
見守り手は三枚の札を写し取り、元の札は共同棚へ残した。
家へ持ち帰る札。
共同棚へ残す札。
同じ言葉でも、置く場所が違うと、役目が違う。
僕は小瓶を見た。空のまま、掌にある。小瓶は何も入れていない。けれど、今日聞いた音を、閉じ込めずに持っている気がした。
「次は?」
僕が聞くと、ミナモは薬草灯の岸の方を見た。
「夜に、もう一度薬草灯を見る。昼の札だけでは、返事が早く見えすぎるから」
「夜」
「夜の薬草灯は、待っていることが見えやすい」
ククルーが、少し眠そうに目を細めた。
「夜の聞き方だね」
「眠い?」
「猫は夜に強いという評判があるけれど、ぼくは評判だけで動かないよ」
ロッカが笑い、見守り手も笑った。
今度は、共同棚の端に下がった小さな鈴が鳴った。
こつ。
やはり小さい。
でも、さっきより少しだけ、音の戻る場所が分かっていた。
湖は、遅れて返す。
ずん。
その返事を聞いて、僕たちは夜の薬草灯へ向かう準備を始めた。




