↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クイズクロニクル  作者: pj.masta


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
42/317

第4巻 淀む湖のクロニクル 第2章 晴れない気象棚

気象棚は、薬草灯の岸から少しだけ高い場所にあった。


高い、といっても、丘ではない。湖の縁に沿って根が盛り上がり、そこへ板を渡し、濡れても倒れないように細い杭で支えた場所だ。歩くたび、足元の板が小さく鳴る。


ぎし。


その音にも、湖はすぐ返事をしなかった。


僕は一度、足を止めた。


ククルーが横を歩きながら、ひげを揺らす。


「板にも返事を待つの?」


「待ちたくなる」


「進みながら待てると、水辺では少し楽になるよ」


「水辺の基本、多いね」


「ぼくの案内は、だいたい基本から増えるよ」


ミナモは薬草灯の棚を別の見守り手に任せ、僕たちの前を歩いていた。彼女の腰には、濡れても字がにじまない葉札が何枚も下がっている。歩くたび、葉札同士が触れ合って、乾いた音ではなく、湿った紙を重ねるような音を立てた。


ぺたり。


ぺたり。


棚札の差し替え音と似ている。でも、薬草灯の棚より少し軽い。


「気象棚は、湖の上を見る場所じゃないの?」


僕が聞くと、ミナモは振り向かずに答えた。


「上も見る。横も見る。下も見る」


「下?」


「風は上だけを通らないから」


ククルーが、板の隙間をのぞいた。


「下を通る風は、猫の足に失礼なことをするね」


「冷たい?」


「冷たい上に、知っている顔で来るんだ」


その言い方がおかしくて笑いそうになった時、湖の向こうから、薄い霧が一枚、こちらへ滑ってきた。


霧は、白くない。少し緑を含んでいた。薬草灯の光を受けているのか、それとも湖の底から滲んでいるのか、すぐには分からない。けれど、分からない、と置く前に、僕は反射的に思ってしまった。


晴れた方がいい。


晴れれば、見える。


見えれば、読める。


読めれば、先へ進める。


足元で、ククルーが小さく咳をした。


「今、頭の中でだいぶ速い階段を上ったね」


「見えた?」


「ひげが感じました」


「ひげ、便利すぎない?」


「便利だね。でも、万能じゃないよ。だから棚があるんだ」


ミナモが立ち止まった。


そこが、気象棚だった。


棚は、薬草灯の棚よりも広い。けれど、物が多いわけではない。湖に向かって半円形に作られた棚が三段あり、上段には薄い葉札、中段には小さな石札、下段には細い水差しが並んでいる。棚の奥には、風を受けるための布が何枚も吊られていた。


布は、旗ではない。どれも短く、端がわずかに違う形に切られている。丸い端。尖った端。切らずに残した端。穴を一つだけ空けた端。風が来ると、それぞれ違う揺れ方をする。


その布の下に、一人の人が座っていた。


ロッカ。


そう呼ぶ前から、たぶんこの人だと分かった。


髪は湖霧の色に近い灰緑で、肩のあたりで不揃いに結ばれている。服の袖には、小さな雲の印ではなく、濡れた線が何本も刺繍されていた。顔は眠そうに見えるのに、目だけが湖面の動きに遅れずついていく。


ロッカは、僕たちを見て、手を上げた。


「来たね。晴れたがっている湖を見に来た人たち」


「晴れたがっているって、湖が言ったの?」


僕が聞くと、ロッカは首を横に振った。


「言った、までは行ってない。言いかけて、風だけ先に出した」


「風だけ」


「うん。言葉になる前の、風」


ロッカは棚の上段から葉札を一枚取った。そこには、短く書かれている。


`晴れたがる`


僕は、その札を見て少しほっとした。やっぱり晴れが近いのだと思ったからだ。


ロッカは、僕の顔を見る。


「今、良かったって思った?」


「少し」


「普通だよ。でも、ここでは普通をそのまま答えにしない」


ロッカは同じ形の葉札を、もう一枚重ねた。


`晴れたがる`


二枚目には、小さな点がひとつ付いていた。


「同じ言葉?」


「似ている言葉」


「何が違うの?」


「一枚目は、湖面が光を欲しがっている時。二枚目は、沈んだ記録が明るさから隠れたがっている時」


僕は、二枚の札を見比べた。


同じ言葉に見える。


けれど、点が一つだけ違う。


「隠れたがっているなら、晴れない方がいい?」


ロッカは、すぐには答えなかった。布のひとつが揺れるのを見て、石札を一つ動かす。


かた。


湖は、まだ返さない。


「晴れない方がいい、も速い答え」


「じゃあ、どう言うの?」


「晴れたいものと、晴れたくないものが、同じ湖面にいる」


ロッカは、葉札を三枚目へ重ねた。


`同じ空に置く`


「だから、すぐ晴らさない。すぐ曇らせもしない。同じ空に置いて、どちらが先に返事をするか見る」


同じ空に置く。


薬草灯の棚では、返事を待つために札を置いた。気象棚では、違う返事を同じ空に置くらしい。


僕は湖面を見た。


薄い霧がある。風もある。日差しもある。どれか一つを選べと言われたら、僕は日差しを選んでしまう気がした。明るい方が、安心するからだ。


でも、明るい方が安心することと、湖が読めることは、同じではない。


「ロッカは、天気を当てる人?」


そう聞いた瞬間、ミナモが少しだけ目を細めた。責める顔ではない。けれど、その問いが少し速かったことを、僕は自分でも分かった。


ロッカは笑った。


「当てる日もある。でも、当てるだけなら、棚はいらない」


ククルーが、すぐにうなずく。


「棚が当てるためだけのものじゃない、と分かるね」


「猫案内役に伝わると、少し誇らしい」


「案内料は、濡れていない布でお願いします」


「ここに濡れていない布があると思う?」


「ないと思って言いました」


ロッカは声を立てて笑った。その笑い声に、吊られた布が一拍遅れて揺れた。


僕はその遅れを見た。


笑い声が先。


布があと。


風はその間にいた。


ロッカは、中段の石札を三つ並べた。


`軽い風`


`重い風`


`遅い風`


「軽い風は、葉の表だけをめくる。重い風は、葉の裏まで押す。遅い風は、音だけ先に来て、布があとから揺れる」


「今のは、遅い風?」


「うん。笑い声に乗って来たけど、布へ届くのが遅かった」


「風も、返事が遅いんだ」


「風だけじゃないよ」


ロッカは水差しを一本持ち上げた。中には水が入っていない。透明な管の底に、薄い曇りだけがある。


「空の水差し?」


「気象棚の水差し。水は入れない。入れると、水の重さで風の遅れが隠れる」


空の小瓶と似ている。


そう思ったけれど、僕は言い切らなかった。


似ている。けれど同じとはまだ言えない。


ロッカは、水差しの口を湖へ向けた。すぐには何も起きない。


棚の布が揺れる。


湖面の霧が少し薄くなる。


水差しの底の曇りが、ほんの少しだけ上へ伸びる。


「晴れてきた」


僕は言った。


「少しだけ」


ロッカは答えた。


「いいこと?」


「まだ分からない」


「分からないって言えるの、すごいね」


僕がそう言うと、ロッカは少し困った顔をした。


「すごくないよ。分かったふりをすると、あとで棚が怒る」


「棚が?」


「棚は怒らないけど、札が増える」


ククルーが、真面目な顔で言った。


「それは実質、棚の怒りだね」


ロッカはうなずいた。


「そう。気象棚は、分かったふりをすると仕事を増やしてくる」


僕は笑った。けれど、ロッカは笑いながらも、目を湖面から離さない。


霧が薄くなった場所に、湖面の色が見えた。明るい緑。濁った灰。ところどころ、祝祭雨の名残のような虹色。その虹色がきれいで、僕はまた、明るくなった方がいいと思いかけた。


ロッカは、僕より先に札を置いた。


`きれいに見える`


そして、その下にもう一枚。


`読めるとは限らない`


「きれいなのに?」


「きれいだよ」


「きれいなら、よくない?」


「きれいなだけなら、絵にすればいい。ここでは、湖が返したいものを読む」


ロッカは、吊られた布の一枚をそっと押さえた。押さえると、布は止まる。けれど、止まった瞬間、別の布が揺れた。


「今、風を止めた?」


「一枚だけ止めた。一枚を止めると、別の布が遅れて動く。どれか一つだけ見ていると、全部止まったように見える」


ミナモが、薬草灯の葉札を一枚出した。


`葉の裏だけ返る`


ロッカはそれを見て、気象棚の石札を一つ足した。


`布の裏だけ動く`


「薬草灯と似てる」


「似ている。でも、薬草灯の返事と風の返事は同じ棚に入れない」


ミナモが言った。


「同じ棚に入れると、楽に見えるから」


「楽だとだめ?」


「楽な見方が必要な時もある。でも、今は違う。薬草灯は体の返事を待つ棚。気象棚は空と水の間を待つ棚」


体の返事。


空と水の間。


どちらも待つ。けれど、待つ場所が違う。


僕はクロニクルブックを開きかけた。書きたいことが増えている。でも、書く前に、ロッカが僕の手元を見た。


「書くなら、晴れって一文字で終わらせないで」


「どう書けばいい?」


「今見た分だけ」


僕はページを開いた。未登録欄の端に出た薄い水の線は、相変わらずそこにある。濃くなってはいない。広がってもいない。


その横ではなく、次の空いた行に書いた。


`晴れたがる湖。晴れたくない記録。同じ空に置く。`


書き終えると、気象棚の布が一枚、音を立てずに裏返った。


ロッカの顔が、少しだけ変わった。


「今の、見た?」


「布が裏返った」


「音は?」


「しなかった」


「うん。音のない風」


ロッカは中段から新しい札を取った。


`音のない風`


その札は、他の札より古かった。角が少し丸くなり、何度も使われた跡がある。


「よくある風?」


僕が聞くと、ロッカは首を横に振った。


「よく来る風。でも、よく分かる風ではない」


ミナモが、少しだけ声を低くした。


「湖面の家へ行く前に、それを見た方がいいと思ったの」


「家?」


「湖畔の家。言葉が戻る順番が遅れている家。そこへ行く前に、この風を見ておいた方がいい」


「どうして?」


ロッカは、音のない風の札を棚の中央へ置いた。


「この風が来る日は、晴れても、戸口の音が戻らないことがある」


「戸口の音?」


「誰かが帰ってきた時の音。木戸のきしみ。椀を置く音。布を払う音。そういう小さい音が、晴れの下で戻らない」


晴れても戻らない。


僕は、胸の中でその言葉を置いた。


晴れれば見える。


でも、晴れても戻らない音がある。


ロッカは布を離した。裏返った布は、ゆっくり戻ると思った。けれど、戻らない。裏返ったまま、湖の方を向いている。


「戻さないの?」


「今戻すと、風がどこへ行きたかったか分からなくなる」


「裏返ったままでいいの?」


「いい、じゃなくて、今はそう置く」


ククルーが、僕の足元で静かに座った。


「今はそう置く、で止めたんだね」


「棚らしいって、便利な言い方になってない?」


「便利だね。でも、万能じゃないよ」


ロッカは笑わなかった。湖面を見ている。


霧はさらに薄くなった。けれど、薄くなるほど、湖面の奥が読みにくくなる場所があった。濁りが消えたのではない。光が強くなって、濁りの端が見えにくくなっている。


「明るいのに、見えにくい」


僕が言うと、ロッカはうなずいた。


「それ。気象棚で最初に覚えること」


ロッカは上段の空いた場所へ札を置いた。


`明るいほど見えない端がある`


「暗いから見えない、だけじゃない。明るいから見えないこともある。晴れは、全部を見せるわけじゃない」


その言葉を聞いた時、僕は自分の中で何かが少し静かになるのを感じた。


明るくなれば、読める。


そう思うのは、たぶん悪いことではない。暗い場所を明るくしたいと思うのは自然だ。でも、明るさだけを正解にすると、明るさの下で見えなくなる端をなくしてしまう。


「晴れない託宣って、晴れない方がいいって意味じゃないんだ」


「うん」


ロッカは、初めて僕の方をまっすぐ見た。


「晴れだけで読まない、って意味」


風が来た。


今度は、音がある。


さわ。


葉札が揺れ、石札の一つが小さく鳴り、水差しの底の曇りが、また少し上へ伸びた。


湖面は明るくなった。


けれど、裏返った布は戻らない。


ロッカは、その布の下へ新しい札を置いた。


`晴れても戻らない音`


「これを持って、次に家へ行く」


「今すぐ?」


「まだ」


ロッカは、水差しを棚へ戻した。


「この風が、湖面へ届くまで待つ」


「どれくらい?」


「布が戻りたがるまで」


「時計じゃないんだ」


「時計も見る。でも、風が時計を読むとは限らない」


どこかで聞いたような言い方だった。湖畔の人たちは、時間を数字だけにしない。鳥の声、桶を洗う間、布が戻りたがるまで。正確ではないのに、雑ではない。


ロッカは、気象棚の横から細い桟橋へ降りた。


桟橋は湖へまっすぐ伸びているようで、途中で少しだけ曲がっていた。まっすぐに作れなかったのではない。湖面へ出る風が、いつも同じ向きから来るとは限らないからだと、ロッカは言った。


「曲がっていると、風が迷わないの?」


「風は迷うよ。迷った時、どこで迷ったかが分かる」


桟橋の板には、短い線がいくつも刻まれていた。長さも向きもばらばらだ。足跡かと思ったが、近くで見ると、どれも板の端から少し離れたところで止まっている。


「これは?」


「風の足跡」


「風に足跡があるの?」


「あるように読まないと、遅れた場所が残らない」


ロッカは、裏返った布を小さな木枠ごと外し、桟橋の途中にある低い杭へ掛けた。気象棚に吊られていた時より、布は湖に近い。けれど、湖水には触れない。触れそうで、触れない高さにある。


「水につけないんだ」


「つけると、風の返事じゃなくて水の返事が混ざる」


「混ざるとだめ?」


「混ざったことが分かる時はいい。分からない時は、あとで全部を風のせいにしてしまう」


全部を風のせいにする。


それは、全部を湖のせいにすることと似ている気がした。似ているけれど、同じとは言えない。僕はその言葉を、まだ書かなかった。


ロッカは水差しを桟橋の切れ目へ置いた。底の曇りは、さっきより少し高くなっている。曇りは水ではない。けれど、水になりそうな気配を持っている。息を吹きかけたガラスの内側に、まだ言葉になる前の白さが残っているようだった。


「見る順番がある」


ロッカは言った。


「まず布。次に水差し。最後に湖面」


「湖面を最初に見ないの?」


「最初に湖面を見ると、広すぎて勝手に分かった気になる」


ククルーが、ごく小さくうなずいた。


「広いものは、案内役でもときどき偉そうに見えるね」


「湖が?」


「見ている側が、です」


その言葉に、僕は少しだけ背筋を伸ばした。


広いものを見ると、分かった気になる。晴れた湖面は、特にそうだ。全部が見えているように見えるからだ。


ロッカは、手を上げた。


「今は、布」


裏返った布の端は、まだ湖の方を向いている。風が来る。布は動かない。もう一度、風が来る。今度は端だけが震えた。


「戻った?」


僕が聞くと、ロッカは首を振る。


「震えた」


ロッカは札を置く。


`戻る前に震える`


次に、水差しを見る。底の曇りは、上へ伸びるのをやめていた。止まったように見える。でも、ロッカは水差しの口へ耳を近づけた。


「止まった?」


「止まったように見える時ほど、音を聞く」


僕も耳を近づけた。


最初は何も聞こえなかった。湖の低い音も、板のきしみも、ククルーの息も遠くなる。耳の中だけが、水のない器みたいに空く。


その空いた場所へ、かすかな音が届いた。


ふ。


音というより、音の手前だった。


「今の」


「水差しが風を持ち上げた」


ロッカは札を重ねる。


`音の手前`


最後に、湖面を見る。


霧は薄く、光は強い。きれいだった。けれど、さっきよりも、湖の端が遠く感じる。近くの水は明るいのに、向こう岸の手前だけが少し曇っている。曇っているのに暗くはない。明るいまま、そこだけ読めない。


「明るい空白」


僕が言うと、ロッカは少し驚いた顔をした。


「いい言い方」


「決めすぎ?」


「まだ大丈夫。空白って言ったから。答えって言っていたら、棚札が増えた」


ククルーが、しっぽで僕の足首を軽く叩いた。


「棚の怒りは、ここでは横に座っているね」


「棚、すぐ怒る」


「怒らせているのは、だいたい人です」


ロッカは、三枚の札を並べた。


`戻る前に震える`


`音の手前`


`明るい空白`


「この三つがそろったら、戻りたがる、と読める」


「戻った、じゃなくて」


「うん。戻ったと書くには、戸口の音を聞く必要がある。ここではまだ、戻りたがる」


布の端が、もう一度震えた。


今度は、震えたあと、ほんの少しだけ元の向きへ傾いた。


戻ったわけではない。


けれど、戻る場所を思い出したように見えた。


バドゥは、少し離れた板の端に立っていた。薬草灯の岸で棚の外側にいたように、ここでも棚の中へ入りすぎない。けれど、足裏は板の揺れを読んでいる。


「バドゥ、この風、分かる?」


僕が聞くと、バドゥは肩をすくめた。


「足には分かる。でも、棚の言葉にはしない」


「どう違うの?」


「足は、今沈むかどうかを読む。ロッカは、沈まない音がどこへ遅れるかを読む。俺がそれを言葉にすると、速すぎる」


ロッカは、バドゥへ短くうなずいた。


「入口の人は、入口の風だけ読んでくれるから助かる」


「奥まで読むと、怒られる」


「怒らない。札が増える」


「それは怒られるのと同じだな」


バドゥが笑うと、板が少し揺れた。湖は、また遅れて返す。


ずん。


その低い音のあと、裏返った布の端が、ほんの少しだけ戻りたがった。


完全には戻らない。


でも、戻る方向を思い出したように見えた。


ロッカはその瞬間を逃さず、札を一枚足した。


`戻りたがる`


「今のが、次へ行く合図」


「晴れたからじゃなくて?」


「戻りたがったから」


「戻る、じゃなくて?」


「戻りたがる。まだ戻っていない」


僕はうなずいた。


戻りたがる。


返りたがる。


晴れたがる。


どれも、まだ終わっていない言葉だ。終わっていない言葉を、終わったことにしないために、棚がある。


ククルーが立ち上がり、濡れた板を避けながら僕の横へ来た。


「今日見るものが増えたね」


「棚の宿題?」


「棚、風、布、音。あと、晴れへの短絡」


「短絡って言葉、ちょっと厳しくない?」


「案内役だからね、時々は厳密だよ」


ロッカが、裏返った布の下の札をまとめた。


`晴れたがる`


`同じ空に置く`


`音のない風`


`晴れても戻らない音`


`戻りたがる`


五枚の札は、答えではなく、道順のように見えた。


「この札を持って、湖畔の家へ行く前に、浅い岸へ寄る。家に入る前に、戸口の音を聞くための耳を作る」


ロッカはそう言って、僕に五枚のうち一枚を渡した。


`同じ空に置く`


「僕が持っていいの?」


「持って。旅人は、すぐ一つにしたがる顔をするから」


「そんな顔してる?」


「してる」


ククルーとミナモが、同時にうなずいた。


「二人まで」


「案内役は観察を大事にするよ」


「ミナモも観察を大事にする」


僕は札を受け取った。


同じ空に置く。


薬草灯の岸で覚えた「足りないまま残す」と、似ている。でも、同じではない。足りないまま残すのは、言葉の戻る場所を空けるため。同じ空に置くのは、違う返事を一つに決めないため。


湖面の光が、少しだけ強くなった。


明るい。


けれど、明るいから読めるとは限らない。


僕はクロニクルブックを閉じず、ページを開いたまま歩き出した。閉じないのは、答えを持ったからではない。まだ書き足す場所を残すためだ。


気象棚の布が、背中の方で一拍遅れて鳴った。


ぱた。


湖は、そのさらにあとで低く返した。


ずん。


晴れは、まだ正解ではない。


霧も、まだ間違いではない。


僕たちは、戻りたがる音を持って、湖の浅い岸へ向かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。