第4巻 淀む湖のクロニクル 第2章 晴れない気象棚
気象棚は、薬草灯の岸から少しだけ高い場所にあった。
高い、といっても、丘ではない。湖の縁に沿って根が盛り上がり、そこへ板を渡し、濡れても倒れないように細い杭で支えた場所だ。歩くたび、足元の板が小さく鳴る。
ぎし。
その音にも、湖はすぐ返事をしなかった。
僕は一度、足を止めた。
ククルーが横を歩きながら、ひげを揺らす。
「板にも返事を待つの?」
「待ちたくなる」
「進みながら待てると、水辺では少し楽になるよ」
「水辺の基本、多いね」
「ぼくの案内は、だいたい基本から増えるよ」
ミナモは薬草灯の棚を別の見守り手に任せ、僕たちの前を歩いていた。彼女の腰には、濡れても字がにじまない葉札が何枚も下がっている。歩くたび、葉札同士が触れ合って、乾いた音ではなく、湿った紙を重ねるような音を立てた。
ぺたり。
ぺたり。
棚札の差し替え音と似ている。でも、薬草灯の棚より少し軽い。
「気象棚は、湖の上を見る場所じゃないの?」
僕が聞くと、ミナモは振り向かずに答えた。
「上も見る。横も見る。下も見る」
「下?」
「風は上だけを通らないから」
ククルーが、板の隙間をのぞいた。
「下を通る風は、猫の足に失礼なことをするね」
「冷たい?」
「冷たい上に、知っている顔で来るんだ」
その言い方がおかしくて笑いそうになった時、湖の向こうから、薄い霧が一枚、こちらへ滑ってきた。
霧は、白くない。少し緑を含んでいた。薬草灯の光を受けているのか、それとも湖の底から滲んでいるのか、すぐには分からない。けれど、分からない、と置く前に、僕は反射的に思ってしまった。
晴れた方がいい。
晴れれば、見える。
見えれば、読める。
読めれば、先へ進める。
足元で、ククルーが小さく咳をした。
「今、頭の中でだいぶ速い階段を上ったね」
「見えた?」
「ひげが感じました」
「ひげ、便利すぎない?」
「便利だね。でも、万能じゃないよ。だから棚があるんだ」
ミナモが立ち止まった。
そこが、気象棚だった。
棚は、薬草灯の棚よりも広い。けれど、物が多いわけではない。湖に向かって半円形に作られた棚が三段あり、上段には薄い葉札、中段には小さな石札、下段には細い水差しが並んでいる。棚の奥には、風を受けるための布が何枚も吊られていた。
布は、旗ではない。どれも短く、端がわずかに違う形に切られている。丸い端。尖った端。切らずに残した端。穴を一つだけ空けた端。風が来ると、それぞれ違う揺れ方をする。
その布の下に、一人の人が座っていた。
ロッカ。
そう呼ぶ前から、たぶんこの人だと分かった。
髪は湖霧の色に近い灰緑で、肩のあたりで不揃いに結ばれている。服の袖には、小さな雲の印ではなく、濡れた線が何本も刺繍されていた。顔は眠そうに見えるのに、目だけが湖面の動きに遅れずついていく。
ロッカは、僕たちを見て、手を上げた。
「来たね。晴れたがっている湖を見に来た人たち」
「晴れたがっているって、湖が言ったの?」
僕が聞くと、ロッカは首を横に振った。
「言った、までは行ってない。言いかけて、風だけ先に出した」
「風だけ」
「うん。言葉になる前の、風」
ロッカは棚の上段から葉札を一枚取った。そこには、短く書かれている。
`晴れたがる`
僕は、その札を見て少しほっとした。やっぱり晴れが近いのだと思ったからだ。
ロッカは、僕の顔を見る。
「今、良かったって思った?」
「少し」
「普通だよ。でも、ここでは普通をそのまま答えにしない」
ロッカは同じ形の葉札を、もう一枚重ねた。
`晴れたがる`
二枚目には、小さな点がひとつ付いていた。
「同じ言葉?」
「似ている言葉」
「何が違うの?」
「一枚目は、湖面が光を欲しがっている時。二枚目は、沈んだ記録が明るさから隠れたがっている時」
僕は、二枚の札を見比べた。
同じ言葉に見える。
けれど、点が一つだけ違う。
「隠れたがっているなら、晴れない方がいい?」
ロッカは、すぐには答えなかった。布のひとつが揺れるのを見て、石札を一つ動かす。
かた。
湖は、まだ返さない。
「晴れない方がいい、も速い答え」
「じゃあ、どう言うの?」
「晴れたいものと、晴れたくないものが、同じ湖面にいる」
ロッカは、葉札を三枚目へ重ねた。
`同じ空に置く`
「だから、すぐ晴らさない。すぐ曇らせもしない。同じ空に置いて、どちらが先に返事をするか見る」
同じ空に置く。
薬草灯の棚では、返事を待つために札を置いた。気象棚では、違う返事を同じ空に置くらしい。
僕は湖面を見た。
薄い霧がある。風もある。日差しもある。どれか一つを選べと言われたら、僕は日差しを選んでしまう気がした。明るい方が、安心するからだ。
でも、明るい方が安心することと、湖が読めることは、同じではない。
「ロッカは、天気を当てる人?」
そう聞いた瞬間、ミナモが少しだけ目を細めた。責める顔ではない。けれど、その問いが少し速かったことを、僕は自分でも分かった。
ロッカは笑った。
「当てる日もある。でも、当てるだけなら、棚はいらない」
ククルーが、すぐにうなずく。
「棚が当てるためだけのものじゃない、と分かるね」
「猫案内役に伝わると、少し誇らしい」
「案内料は、濡れていない布でお願いします」
「ここに濡れていない布があると思う?」
「ないと思って言いました」
ロッカは声を立てて笑った。その笑い声に、吊られた布が一拍遅れて揺れた。
僕はその遅れを見た。
笑い声が先。
布があと。
風はその間にいた。
ロッカは、中段の石札を三つ並べた。
`軽い風`
`重い風`
`遅い風`
「軽い風は、葉の表だけをめくる。重い風は、葉の裏まで押す。遅い風は、音だけ先に来て、布があとから揺れる」
「今のは、遅い風?」
「うん。笑い声に乗って来たけど、布へ届くのが遅かった」
「風も、返事が遅いんだ」
「風だけじゃないよ」
ロッカは水差しを一本持ち上げた。中には水が入っていない。透明な管の底に、薄い曇りだけがある。
「空の水差し?」
「気象棚の水差し。水は入れない。入れると、水の重さで風の遅れが隠れる」
空の小瓶と似ている。
そう思ったけれど、僕は言い切らなかった。
似ている。けれど同じとはまだ言えない。
ロッカは、水差しの口を湖へ向けた。すぐには何も起きない。
棚の布が揺れる。
湖面の霧が少し薄くなる。
水差しの底の曇りが、ほんの少しだけ上へ伸びる。
「晴れてきた」
僕は言った。
「少しだけ」
ロッカは答えた。
「いいこと?」
「まだ分からない」
「分からないって言えるの、すごいね」
僕がそう言うと、ロッカは少し困った顔をした。
「すごくないよ。分かったふりをすると、あとで棚が怒る」
「棚が?」
「棚は怒らないけど、札が増える」
ククルーが、真面目な顔で言った。
「それは実質、棚の怒りだね」
ロッカはうなずいた。
「そう。気象棚は、分かったふりをすると仕事を増やしてくる」
僕は笑った。けれど、ロッカは笑いながらも、目を湖面から離さない。
霧が薄くなった場所に、湖面の色が見えた。明るい緑。濁った灰。ところどころ、祝祭雨の名残のような虹色。その虹色がきれいで、僕はまた、明るくなった方がいいと思いかけた。
ロッカは、僕より先に札を置いた。
`きれいに見える`
そして、その下にもう一枚。
`読めるとは限らない`
「きれいなのに?」
「きれいだよ」
「きれいなら、よくない?」
「きれいなだけなら、絵にすればいい。ここでは、湖が返したいものを読む」
ロッカは、吊られた布の一枚をそっと押さえた。押さえると、布は止まる。けれど、止まった瞬間、別の布が揺れた。
「今、風を止めた?」
「一枚だけ止めた。一枚を止めると、別の布が遅れて動く。どれか一つだけ見ていると、全部止まったように見える」
ミナモが、薬草灯の葉札を一枚出した。
`葉の裏だけ返る`
ロッカはそれを見て、気象棚の石札を一つ足した。
`布の裏だけ動く`
「薬草灯と似てる」
「似ている。でも、薬草灯の返事と風の返事は同じ棚に入れない」
ミナモが言った。
「同じ棚に入れると、楽に見えるから」
「楽だとだめ?」
「楽な見方が必要な時もある。でも、今は違う。薬草灯は体の返事を待つ棚。気象棚は空と水の間を待つ棚」
体の返事。
空と水の間。
どちらも待つ。けれど、待つ場所が違う。
僕はクロニクルブックを開きかけた。書きたいことが増えている。でも、書く前に、ロッカが僕の手元を見た。
「書くなら、晴れって一文字で終わらせないで」
「どう書けばいい?」
「今見た分だけ」
僕はページを開いた。未登録欄の端に出た薄い水の線は、相変わらずそこにある。濃くなってはいない。広がってもいない。
その横ではなく、次の空いた行に書いた。
`晴れたがる湖。晴れたくない記録。同じ空に置く。`
書き終えると、気象棚の布が一枚、音を立てずに裏返った。
ロッカの顔が、少しだけ変わった。
「今の、見た?」
「布が裏返った」
「音は?」
「しなかった」
「うん。音のない風」
ロッカは中段から新しい札を取った。
`音のない風`
その札は、他の札より古かった。角が少し丸くなり、何度も使われた跡がある。
「よくある風?」
僕が聞くと、ロッカは首を横に振った。
「よく来る風。でも、よく分かる風ではない」
ミナモが、少しだけ声を低くした。
「湖面の家へ行く前に、それを見た方がいいと思ったの」
「家?」
「湖畔の家。言葉が戻る順番が遅れている家。そこへ行く前に、この風を見ておいた方がいい」
「どうして?」
ロッカは、音のない風の札を棚の中央へ置いた。
「この風が来る日は、晴れても、戸口の音が戻らないことがある」
「戸口の音?」
「誰かが帰ってきた時の音。木戸のきしみ。椀を置く音。布を払う音。そういう小さい音が、晴れの下で戻らない」
晴れても戻らない。
僕は、胸の中でその言葉を置いた。
晴れれば見える。
でも、晴れても戻らない音がある。
ロッカは布を離した。裏返った布は、ゆっくり戻ると思った。けれど、戻らない。裏返ったまま、湖の方を向いている。
「戻さないの?」
「今戻すと、風がどこへ行きたかったか分からなくなる」
「裏返ったままでいいの?」
「いい、じゃなくて、今はそう置く」
ククルーが、僕の足元で静かに座った。
「今はそう置く、で止めたんだね」
「棚らしいって、便利な言い方になってない?」
「便利だね。でも、万能じゃないよ」
ロッカは笑わなかった。湖面を見ている。
霧はさらに薄くなった。けれど、薄くなるほど、湖面の奥が読みにくくなる場所があった。濁りが消えたのではない。光が強くなって、濁りの端が見えにくくなっている。
「明るいのに、見えにくい」
僕が言うと、ロッカはうなずいた。
「それ。気象棚で最初に覚えること」
ロッカは上段の空いた場所へ札を置いた。
`明るいほど見えない端がある`
「暗いから見えない、だけじゃない。明るいから見えないこともある。晴れは、全部を見せるわけじゃない」
その言葉を聞いた時、僕は自分の中で何かが少し静かになるのを感じた。
明るくなれば、読める。
そう思うのは、たぶん悪いことではない。暗い場所を明るくしたいと思うのは自然だ。でも、明るさだけを正解にすると、明るさの下で見えなくなる端をなくしてしまう。
「晴れない託宣って、晴れない方がいいって意味じゃないんだ」
「うん」
ロッカは、初めて僕の方をまっすぐ見た。
「晴れだけで読まない、って意味」
風が来た。
今度は、音がある。
さわ。
葉札が揺れ、石札の一つが小さく鳴り、水差しの底の曇りが、また少し上へ伸びた。
湖面は明るくなった。
けれど、裏返った布は戻らない。
ロッカは、その布の下へ新しい札を置いた。
`晴れても戻らない音`
「これを持って、次に家へ行く」
「今すぐ?」
「まだ」
ロッカは、水差しを棚へ戻した。
「この風が、湖面へ届くまで待つ」
「どれくらい?」
「布が戻りたがるまで」
「時計じゃないんだ」
「時計も見る。でも、風が時計を読むとは限らない」
どこかで聞いたような言い方だった。湖畔の人たちは、時間を数字だけにしない。鳥の声、桶を洗う間、布が戻りたがるまで。正確ではないのに、雑ではない。
ロッカは、気象棚の横から細い桟橋へ降りた。
桟橋は湖へまっすぐ伸びているようで、途中で少しだけ曲がっていた。まっすぐに作れなかったのではない。湖面へ出る風が、いつも同じ向きから来るとは限らないからだと、ロッカは言った。
「曲がっていると、風が迷わないの?」
「風は迷うよ。迷った時、どこで迷ったかが分かる」
桟橋の板には、短い線がいくつも刻まれていた。長さも向きもばらばらだ。足跡かと思ったが、近くで見ると、どれも板の端から少し離れたところで止まっている。
「これは?」
「風の足跡」
「風に足跡があるの?」
「あるように読まないと、遅れた場所が残らない」
ロッカは、裏返った布を小さな木枠ごと外し、桟橋の途中にある低い杭へ掛けた。気象棚に吊られていた時より、布は湖に近い。けれど、湖水には触れない。触れそうで、触れない高さにある。
「水につけないんだ」
「つけると、風の返事じゃなくて水の返事が混ざる」
「混ざるとだめ?」
「混ざったことが分かる時はいい。分からない時は、あとで全部を風のせいにしてしまう」
全部を風のせいにする。
それは、全部を湖のせいにすることと似ている気がした。似ているけれど、同じとは言えない。僕はその言葉を、まだ書かなかった。
ロッカは水差しを桟橋の切れ目へ置いた。底の曇りは、さっきより少し高くなっている。曇りは水ではない。けれど、水になりそうな気配を持っている。息を吹きかけたガラスの内側に、まだ言葉になる前の白さが残っているようだった。
「見る順番がある」
ロッカは言った。
「まず布。次に水差し。最後に湖面」
「湖面を最初に見ないの?」
「最初に湖面を見ると、広すぎて勝手に分かった気になる」
ククルーが、ごく小さくうなずいた。
「広いものは、案内役でもときどき偉そうに見えるね」
「湖が?」
「見ている側が、です」
その言葉に、僕は少しだけ背筋を伸ばした。
広いものを見ると、分かった気になる。晴れた湖面は、特にそうだ。全部が見えているように見えるからだ。
ロッカは、手を上げた。
「今は、布」
裏返った布の端は、まだ湖の方を向いている。風が来る。布は動かない。もう一度、風が来る。今度は端だけが震えた。
「戻った?」
僕が聞くと、ロッカは首を振る。
「震えた」
ロッカは札を置く。
`戻る前に震える`
次に、水差しを見る。底の曇りは、上へ伸びるのをやめていた。止まったように見える。でも、ロッカは水差しの口へ耳を近づけた。
「止まった?」
「止まったように見える時ほど、音を聞く」
僕も耳を近づけた。
最初は何も聞こえなかった。湖の低い音も、板のきしみも、ククルーの息も遠くなる。耳の中だけが、水のない器みたいに空く。
その空いた場所へ、かすかな音が届いた。
ふ。
音というより、音の手前だった。
「今の」
「水差しが風を持ち上げた」
ロッカは札を重ねる。
`音の手前`
最後に、湖面を見る。
霧は薄く、光は強い。きれいだった。けれど、さっきよりも、湖の端が遠く感じる。近くの水は明るいのに、向こう岸の手前だけが少し曇っている。曇っているのに暗くはない。明るいまま、そこだけ読めない。
「明るい空白」
僕が言うと、ロッカは少し驚いた顔をした。
「いい言い方」
「決めすぎ?」
「まだ大丈夫。空白って言ったから。答えって言っていたら、棚札が増えた」
ククルーが、しっぽで僕の足首を軽く叩いた。
「棚の怒りは、ここでは横に座っているね」
「棚、すぐ怒る」
「怒らせているのは、だいたい人です」
ロッカは、三枚の札を並べた。
`戻る前に震える`
`音の手前`
`明るい空白`
「この三つがそろったら、戻りたがる、と読める」
「戻った、じゃなくて」
「うん。戻ったと書くには、戸口の音を聞く必要がある。ここではまだ、戻りたがる」
布の端が、もう一度震えた。
今度は、震えたあと、ほんの少しだけ元の向きへ傾いた。
戻ったわけではない。
けれど、戻る場所を思い出したように見えた。
バドゥは、少し離れた板の端に立っていた。薬草灯の岸で棚の外側にいたように、ここでも棚の中へ入りすぎない。けれど、足裏は板の揺れを読んでいる。
「バドゥ、この風、分かる?」
僕が聞くと、バドゥは肩をすくめた。
「足には分かる。でも、棚の言葉にはしない」
「どう違うの?」
「足は、今沈むかどうかを読む。ロッカは、沈まない音がどこへ遅れるかを読む。俺がそれを言葉にすると、速すぎる」
ロッカは、バドゥへ短くうなずいた。
「入口の人は、入口の風だけ読んでくれるから助かる」
「奥まで読むと、怒られる」
「怒らない。札が増える」
「それは怒られるのと同じだな」
バドゥが笑うと、板が少し揺れた。湖は、また遅れて返す。
ずん。
その低い音のあと、裏返った布の端が、ほんの少しだけ戻りたがった。
完全には戻らない。
でも、戻る方向を思い出したように見えた。
ロッカはその瞬間を逃さず、札を一枚足した。
`戻りたがる`
「今のが、次へ行く合図」
「晴れたからじゃなくて?」
「戻りたがったから」
「戻る、じゃなくて?」
「戻りたがる。まだ戻っていない」
僕はうなずいた。
戻りたがる。
返りたがる。
晴れたがる。
どれも、まだ終わっていない言葉だ。終わっていない言葉を、終わったことにしないために、棚がある。
ククルーが立ち上がり、濡れた板を避けながら僕の横へ来た。
「今日見るものが増えたね」
「棚の宿題?」
「棚、風、布、音。あと、晴れへの短絡」
「短絡って言葉、ちょっと厳しくない?」
「案内役だからね、時々は厳密だよ」
ロッカが、裏返った布の下の札をまとめた。
`晴れたがる`
`同じ空に置く`
`音のない風`
`晴れても戻らない音`
`戻りたがる`
五枚の札は、答えではなく、道順のように見えた。
「この札を持って、湖畔の家へ行く前に、浅い岸へ寄る。家に入る前に、戸口の音を聞くための耳を作る」
ロッカはそう言って、僕に五枚のうち一枚を渡した。
`同じ空に置く`
「僕が持っていいの?」
「持って。旅人は、すぐ一つにしたがる顔をするから」
「そんな顔してる?」
「してる」
ククルーとミナモが、同時にうなずいた。
「二人まで」
「案内役は観察を大事にするよ」
「ミナモも観察を大事にする」
僕は札を受け取った。
同じ空に置く。
薬草灯の岸で覚えた「足りないまま残す」と、似ている。でも、同じではない。足りないまま残すのは、言葉の戻る場所を空けるため。同じ空に置くのは、違う返事を一つに決めないため。
湖面の光が、少しだけ強くなった。
明るい。
けれど、明るいから読めるとは限らない。
僕はクロニクルブックを閉じず、ページを開いたまま歩き出した。閉じないのは、答えを持ったからではない。まだ書き足す場所を残すためだ。
気象棚の布が、背中の方で一拍遅れて鳴った。
ぱた。
湖は、そのさらにあとで低く返した。
ずん。
晴れは、まだ正解ではない。
霧も、まだ間違いではない。
僕たちは、戻りたがる音を持って、湖の浅い岸へ向かった。




