第21巻 七つの輪番会議 第7章 ピペット教授の未完成議案
見えるのに決まらないものが増えると、試したくなる。
少なくとも、僕はそう感じた。
湿った石。
流れない水皿。
星砂袋。
法布。
遅れている席。
どれも、決まっていない。
決まっていないものが多いと、不安になる。
不安になると、試したくなる。
試せば、少なくとも何かは分かる。
分かれば、次に進める。
次に進めるなら、会議は止まっていないと説明できる。
「試したくなりましたね」
ピペット教授が言った。
僕は、また顔に出ていたのかと思った。
教授は、軽く首を横に振った。
「顔ではありません。場です」
「場」
「ええ。ここまで、みなさんは置いた。止めた。名前にしなかった。流さなかった。数えなかった。照らしすぎなかった。席にしなかった。すると次は、試したくなる」
教授は、未完成議案の横に置いていた仮止め紙を見た。
第6章で、先を見たくなった手を置いた紙だ。
そこには何も書かれていない。
けれど、紙の端は少し反っている。
書かれないまま置かれた紙は、書けることを隠さない。
「試すことは、悪いことではありません」
教授は言った。
「ただ、試す前に安心したくなる手があります」
彼は、丸めた未完成議案を持ち上げた。
紙の束は、巻物にも冊子にもなりきらない。
仮止めの位置が少しずつずれているせいで、手に持つと端がばらつく。
ばらついた端をそろえれば、提案書に見えるだろう。
提案書に見えれば、会議はそれを読むことから始められる。
始められると、安心する。
「開きますか」
受付係が聞いた。
教授は、笑った。
「開きたくなりました」
「開かないのですか」
「開くと、改定案に見えます」
改定案。
その言葉が出た瞬間、会議場の床に置かれたものが、少しだけ並び替えられそうに見えた。
言葉未満札は、議題名へ。
水皿は、合意手順へ。
星砂袋は、配分表へ。
法布は、進行規則へ。
遅れている席は、例外規定へ。
未送信紙は、通知手順へ。
すべてが、制度の部品に見える。
僕は、その見え方に少し怖くなった。
「今、全部が部品に見えました」
教授はうなずいた。
「それが便利すぎる案の怖さです」
彼は、未完成議案を開かず、冷まし皿の横へ置いた。
第1章で置かれた冷まし皿は、ずっとそこにあった。
何も冷ましていないように見えた。
けれど、未完成議案が近づくと、皿の意味が少し変わった。
熱を受ける場所に見える。
「この皿は、議案を冷ますためですか」
僕が聞くと、教授は首を横に振った。
「議案だけではありません。議案を見た時に、安心したくなる手を冷ますためです」
「安心したくなる手」
「ええ。案があると、人は少し安心します。まだ実行していなくても、案があるだけで、もう半分進んだように見える」
教授は、冷まし皿の外側へ小さな棚板を置いた。
棚と呼ぶには低い。
皿と呼ぶには平らすぎる。
台と呼ぶには、支えるものが少ない。
「仮説棚です」
「棚に置くのですか」
ネフェルが聞いた。
教授は、すぐ答えなかった。
「棚という言葉も強いですね」
「置く場所に見えます」
「はい。置く場所に見えると、置いたものが整理されたように見える」
教授は、棚板を一度手元へ戻した。
それから、冷まし皿から少し離し、未完成議案からも少し離した場所へ置く。
「棚になりきらない棚にします」
ミャオリンが耳を動かした。
「それは、棚未満にゃ」
「よい名前です。ですが、名前にすると棚未満という分類になります」
教授は、棚板の横へ小さな無名の木片を伏せた。
「ここでは、試す前の置き場所、とだけ見ます」
ククルーが、棚板の足元を見た。
「足が短いね」
教授は、少し楽しそうにうなずいた。
「高い棚にすると、置いた時点で研究成果に見えます。低い棚なら、まだ床の近くです」
「床の近くにあると、戻しやすいね」
「ええ。戻せる議案でいたい」
戻せる議案。
その言葉には、教授の誠実さがあった。
案を持っている。
試したい。
役に立てたい。
けれど、案があることを理由にして、場を先へ押さない。
「未完成議案を、そこへ置くのですね」
僕が言った。
教授は、また首を横に振った。
「すぐ置くと、未完成議案の席になります」
「では」
「置きたくなった手を先に」
彼は、未完成議案の下から小さな金色のクリップを一つ外した。
クリップは、紙を留めるには少し弱い。
だが、光っている。
目立つ。
便利そうに見える。
「便利すぎる案札」
教授は言った。
「札ですか」
「札に見えますね。困りました」
教授は笑った。
「では、札になる前の留め具です」
「長いです」
「長くしておくと、少し使いにくい」
教授は、金色のクリップを仮説棚の上に置かず、棚板の横へ置いた。
便利すぎる案を、棚に乗せない。
乗せれば、便利な案として試したくなる。
横へ置けば、便利に見えた手を見られる。
「便利な案は、悪くないにゃ」
ミャオリンが言った。
「送る時には、便利な案がないと困るにゃ」
「その通りです」
教授は、真面目に答えた。
「便利を責めると、次に本当に必要な時に手が縮む」
リンドが法布を見た。
「正しさも同じだ」
ネフェルが星砂袋を見る。
「分かりやすさも同じです」
バドゥが水皿を見る。
「流れも同じだ」
ガーネルが待つ席布を見る。
「待つことも同じです」
リリウムが言葉未満札を見る。
「沈黙も同じです」
それぞれが、自分の手元を責めない。
責めないまま、強くなりすぎる手を見ている。
教授は、未完成議案を少しだけ開いた。
紙の端に、いくつかの見出しが見えた。
輪番枠。
代表札。
送信遅延。
待機席。
仮説棚。
どれも、これまでの場面から生まれた言葉に似ている。
似ているから、読みたくなる。
読みたくなるから、会議が一気に進みそうに見える。
教授は、すぐ紙を閉じた。
「見えましたね」
「見えました」
僕は答えた。
「読みたくなりました」
「私もです」
教授は、未完成議案を胸の前へ戻した。
「自分で書いたものほど、読みたくなります。自分で書いたものほど、役に立つと思いたくなる」
その声は明るい。
明るいが、軽くない。
「教授でも、そうなのですか」
「もちろんです」
教授は、少し肩をすくめた。
「仮説を置く人間が、仮説に安心しないわけではありません。むしろ、安心したいから仮説を作る日があります」
ククルーは、未完成議案の閉じた端を見た。
「安心したい手があるから、仮説棚が低いんだね」
「そうです」
教授は言いかけて、少しだけ言い直した。
「そうだと思います」
断定を少し下げた。
その下げ方が、教授らしかった。
万能の解説ではない。
自分の手も熱を持つことを知っている人の声だった。
受付係が、書き具を持ち上げた。
「仮説棚、便利すぎる案、戻せる議案」
言葉が並ぶ。
記録しやすい。
説明しやすい。
後で探しやすい。
教授は、受付係を止めなかった。
止める代わりに、冷まし皿の横へ小さな白い砂時計を置いた。
砂時計と言っても、砂は落ちていない。
上下のくびれに、砂が引っかかっている。
「記録前の冷まし時間です」
「時間を決めるのですか」
ガーネルが尋ねた。
「決めません。時間を決めたくなった手を見ます」
「砂時計なのに」
「砂時計なのに、落ちません」
教授は少し笑った。
「落ちない砂時計は、役に立たないように見えます。でも、今日はそのほうがいい」
ネフェルが、砂時計を見た。
「落ちない砂も、数えたくなります」
「でしょう」
「でしょう、は少し嬉しそうです」
ネフェルが言うと、教授は素直にうなずいた。
「嬉しいです。見てもらえたので」
その言葉で、場の熱が少し上がった。
見てもらえた。
仮説を持つ人にとって、それは嬉しい。
嬉しいと、もう少し見せたくなる。
もう少し見せると、案は強くなる。
教授は、その嬉しさも隠さなかった。
「嬉しい手も、ここへ置きます」
彼は、砂時計の横へ小さな丸い木片を置いた。
「発表したくなった手です」
丸い木片は、思ったより明るく見えた。
木なのに、少し金属のような光を持っている。
発表したくなった手は、ただ前へ出たい手ではない。
役に立ちたい手でもある。
困っている場に、道具を差し出したい手。
歩きにくくなった会議場へ、少し歩きやすい道を示したい手。
それは、悪い手ではない。
だからこそ、強い。
「教授の説明があれば、場が少し分かりやすくなる気がします」
僕は言った。
言ってすぐ、その言葉の重さに気づいた。
教授の説明。
それは便利だ。
第11巻から、教授は何度も未完成のものを未完成のまま見せてくれた。
仮説を正解にしない人。
冷ますことを知っている人。
試す前の熱を見られる人。
だから、ここでも教授が説明してくれれば、会議場は楽になる。
楽になる。
その手が、僕の中にあった。
教授は、僕を見て、少しだけ苦笑した。
「分かりやすくしたい手が、私の方へ来ましたね」
「来ました」
僕は認めた。
「私の方にも来ています」
教授は、丸い木片の横へ、さらに小さな薄板を置いた。
薄板には、何も書かれていない。
けれど、書けばすぐ図になりそうな形をしていた。
「説明したくなった手です」
「発表したくなった手とは違うのですか」
リリウムが聞いた。
「近いです。発表は外へ向かう。説明は、相手の中へ道を作ろうとする」
教授は、薄板を僕の方へ向けなかった。
「向けると、あなたの中に道を作りたくなります」
「道があると、助かる時もあります」
僕は言った。
教授はうなずいた。
「あります。けれど、今は道を作る前に、道がほしくなったことを見ます」
ククルーは、薄板を見ていた。
「説明って、手を引いてくれることもあるけど、先に道を作っちゃうこともあるんだね」
「その通りです」
教授は言いかけて、また少し下げた。
「少なくとも、私はそうしがちです」
その言い直しで、薄板の光が少し弱くなった。
教授が自分を一般化しなかったからだ。
説明という大きな道具ではなく、教授自身の手癖として置かれた。
「手癖」
僕がつぶやくと、教授は目を丸くした。
「いい言葉ですね。いや、今の『いい』も危ない」
彼は、薄板のさらに外側へ小さなネジを置いた。
「褒めたくなった手です」
ネフェルが少し笑った。
「教授は、手を置きすぎています」
「ええ。置きすぎです」
教授は素直に認めた。
「だから、仮説棚だけでは足りません。棚が引き受けると、すべて研究の手元になります」
リンドが法布を見た。
「法でも同じだ。全部を法で引き受けると、場は裁きになる」
ガーネルが待つ席布を見た。
「全部を待つ話にすると、場は駅になる」
ミャオリンが未送信紙を見た。
「全部を送る前にすると、場は未送信箱になるにゃ」
バドゥが水皿を見る。
「全部を水にすると、場は水路になる」
ネフェルが星砂袋を見る。
「全部を星にすると、場は表になる」
リリウムが言葉未満札を見る。
「全部を言葉未満にすると、場は森に戻りすぎます」
七つの得意な道具が、それぞれ場を引き受けすぎる危うさを見せた。
教授だけではない。
誰か一人が場を分かりやすくしてくれると期待する手は、別の誰かにも向かう。
リンドなら正しくしてくれる。
ネフェルなら測ってくれる。
バドゥなら流してくれる。
ガーネルなら待ってくれる。
ミャオリンなら送らずに保ってくれる。
リリウムなら言葉の前で止めてくれる。
ククルーなら、やさしく見つけてくれる。
その期待は、どれも温かい。
温かいから、危ない。
ククルーは、僕の方を見た。
「ぼくにも、来ているね」
僕は少し言葉に詰まった。
ククルーに任せたい手。
ククルーが言えば、ちょうどよい場所が見つかるのではないかと思う手。
その手は、確かにあった。
「来ています」
「うん。来ていることを、ここに置こう」
ククルーは、自分の前へ何も置かなかった。
置かない代わりに、鈴のない首元から少し離れた床を見た。
そこに、僕は視線だけを置いた。
ククルーへ任せたくなった手。
それは、ククルーの手ではない。
僕の手だ。
そのことが見えると、少しだけ息が戻った。
教授は、薄板とネジと丸い木片の間に、何も置かない隙間を作った。
「発表、説明、褒め、期待。どれも棚に入れません」
「棚の外側ですか」
「棚の外側より、さらに外側です」
彼は、仮説棚の外側を指で広げるような仕草をした。
実際に棚は広がらない。
でも、棚が引き受けない場所が少し見えた。
リンドが、発言前の小札を見た。
「発言したい手に近い」
「近いです。でも、同じにしないほうがよいでしょう」
「発表は、勝ちではない」
「ええ。けれど、勝ちに見えることがあります」
ミャオリンがうなずいた。
「発表は速報にも見えるにゃ」
教授は、丸い木片を未送信紙のほうへ近づけなかった。
「近づけると、発表したくなった手が送信したくなった手になります」
「遠すぎると」
ミャオリンが言う。
「伝えることを忘れた手になります」
教授は、木片を中間へ置いた。
会議場の床には、どんどん中間が増えていく。
中間が増えると、歩きにくい。
歩きにくいから、足元を見る。
足元を見ると、置いたものが見える。
「この会議場は、歩きにくくなってきました」
僕が言うと、教授は目を細めた。
「よいことです、と言いたくなります」
「言わないのですか」
「言うと、歩きにくさを正解にしてしまいます」
教授は、冷まし皿の縁へ指を置いた。
「歩きにくくなったことも、困ったことです」
それは大事な言葉だった。
ここまで、僕たちは置くこと、止めること、遅らせることを続けてきた。
そのたびに、会議場は複雑になった。
複雑になれば、見えるものが増える。
でも、困ることも増える。
困ることを正解にしてはいけない。
「困ったことも、仮説棚へ置きますか」
僕が聞くと、教授は首を横に振った。
「困ったことを全部仮説棚へ置くと、仮説棚が便利すぎます」
「では」
「棚の外側へ、困った手を置きます」
教授は、仮説棚のさらに外へ、小さな灰色の布を敷いた。
「棚の外側」
「はい。棚が引き受けすぎないための外側です」
リリウムが、静かにうなずいた。
「言葉未満札も、引き受けすぎると議題名になります」
バドゥが水皿を見た。
「水皿も、引き受けすぎると水路になる」
ネフェルが星砂袋を見た。
「星砂も、引き受けすぎると表になります」
リンドが法布を見る。
「法布も、引き受けすぎると裁きになる」
ガーネルが待つ席布を見る。
「待つ席も、引き受けすぎると物語になります」
ミャオリンが未送信紙を見る。
「未送信紙も、引き受けすぎると秘密に見えるにゃ」
教授は、うなずいた。
「だから、棚も万能ではありません」
万能ではない棚。
それは、教授が自分の得意なものを少し低く置いた瞬間だった。
会議場の奥で、低い音がした。
今度は、紙が開きかけて閉じたような音だった。
教授は、すぐ見なかった。
「議案の音にしたくなりました」
「でも」
「まだ、議案の音にはしません」
彼は、仮説棚の外側に何も置かない小さな場所を作った。
そこへ、聞こえた音を置く。
紙にしないまま。
案にしないまま。
完成式にしないまま。
「完成式」
僕がつぶやくと、教授は少しだけ首を横に振った。
「その言葉は強いですね」
「すみません」
「謝らなくていい。言いたくなった手が見えました」
教授は、完成式と言いたくなった手を、便利すぎる案の留め具から少し離した場所へ置くように、床を指で示した。
何も置かない。
でも、置ける場所ができる。
「会議は、まだ改定案を持っていません」
教授は言った。
「未完成議案も、改定案ではありません。便利すぎる案でも、完成式でもない。試す前に、熱を持った紙です」
その言い方で、未完成議案は少し軽くなった。
軽くなったから、開きやすくなったわけではない。
開かないまま持てる重さに戻った。
第7章で、教授は未完成議案を出した。
けれど、会議はそれを読まなかった。
仮説棚はできた。
けれど、棚は万能ではなかった。
便利すぎる案札は、札になる前の留め具として横に置かれた。
記録前の冷まし時間は、落ちない砂時計の中で止まった。
発表したくなった手は、中間へ置かれた。
困った手は、棚の外側へ置かれた。
会議場はさらに歩きにくくなった。
でも、その歩きにくさを正解にしないための外側も、少しだけ見えてきた。
未完成のまま試せる場所は、まだ完成していない。
それでよかった。




