第21巻 七つの輪番会議 第3章 バドゥの流れない水皿
低い音は、一度きりでは終わらなかった。
会議場の奥で、もう一度だけ鳴った。
こん。
鐘ではない。
木でもない。
水皿の縁に、小さな石が触れたような音だった。
全員が、音のしたほうを見た。
そこには、誰の席でもない低い床がある。
席になる前の影の外側。
中央でもなく、入口でもない。
第1章で作った隙間の一つが、少しだけ濃くなっていた。
「水の音に似ている」
僕が言うと、バドゥはすぐにはうなずかなかった。
水路係のナナムなら、音の種類を細かく聞き分けたかもしれない。
バドゥは、音の名を先に決めなかった。
ただ、自分の流れない水皿を見た。
皿の水面は、まだ動いていない。
底の細い線も、流れではなく、流れかけた跡のままだ。
「似ている音は、呼びやすい」
バドゥが言った。
「呼ぶと、来たことにできる」
来たことにできる。
その言い方で、僕は第15巻の連絡便を思い出した。
届いた、と言いたくなる便。
返事が来た、と言いたくなる灯。
水音がしたなら、水が来たことにできる。
水が来たことにできれば、会議は少し進んだように見える。
「進んだことにしたくなります」
僕は言った。
バドゥは、浅い水皿を両手で持ち上げた。
持ち上げたが、中央へ運ばない。
石の台へも置かない。
リリウムの沈黙布と、ネフェルの星砂袋の間へ、少し離して置いた。
「ここへ置く」
「そこは、水の席ではありません」
受付係が言った。
声は硬くない。
けれど、確認する手がある。
会議場には、どの台がどの大陸のものかを守りたい手がある。守らなければ、持ち寄り物はすぐ混ざる。混ざれば、違いが見えなくなる。
バドゥは、受付係を責めなかった。
「水の席ではない。だから置く」
「なぜですか」
僕が聞いた。
聞いた瞬間、なぜ、という言葉が水皿の底へ落ちそうに見えた。
理由を求めると、水が理由になる。
水が理由になると、流れなかったものは理由の不足に見える。
バドゥは、僕の手元を見た。
「今の問いは、悪くない」
「でも、少し早い」
ククルーが、そっと続けた。
バドゥは短くうなずいた。
「理由を水にすると、水が強くなる。水が強くなると、流れないものが弱く見える」
彼は、水皿の横に小さな石を置いた。
石は丸くない。
水路で削られた石ではない。
むしろ、流れに乗らず残った角のある石だった。
「戻る前石」
バドゥは言った。
「戻るための石ですか」
僕が聞くと、バドゥは石から手を離さなかった。
離さないのに、押さえつけてもいない。
水に入れれば沈む。
水皿の外に置けば、ただの石になる。
その中間で、石はバドゥの指先に支えられていた。
「戻るため、と言うと、戻る場所が先に決まります」
バドゥは言った。
「戻る前、です」
戻る前。
その言葉は、水より重かった。
戻る、という動きの前にある足元。
戻ればいいと決める前に、戻りたいのか、戻れないのか、戻すべきなのか、まだ分からない時間。
水は、そういう時間を流してしまいやすい。
僕は、皿の水面を見た。
さっきより静かだ。
静かすぎて、そこへ理由を映したくなる。
低い音がした。
水に似ている。
だから水皿を見た。
水皿を見たから、バドゥに理由を聞いた。
理由を聞いたから、水が強くなった。
僕の中で、順番ができかけていた。
その順番は自然に見える。
自然に見えるから、危ない。
「順番が、今できそうでした」
僕は言った。
バドゥはうなずいた。
「音、水皿、理由。よく流れる順番です」
「よく流れる」
「はい。流れやすいものは、流れているときには気づきにくい」
ククルーが、皿の向こう側へ回り込まなかった。
僕の隣で、同じ側から水皿を見ている。
「きみが順番に気づいたところで、少し水が浅くなったね」
「浅くなった?」
「うん。深い流れになる前に、足元が見えた感じかな」
その言い方で、僕は皿の底の細い線をもう一度見た。
線は、道ではない。
けれど、道に見える。
見えるから、たどりたくなる。
たどれば、どこかへ着く気がする。
着けば、会議が進んだことになる気がする。
「たどらない線もあります」
リリウムが言った。
沈黙布の端が、ほんの少し湿った。
「森の根も、見えた線を全部たどると、近くの湿りを踏みます」
ネフェルは星砂袋を開かなかった。
「星図も同じです。線を引けば、二つの星が関係したように見える」
リンドは法布を見た。
「法でも、つながった二点を順序と誤ることがあります」
ガーネルは遅れの布へ触れた。
「駅でも、時刻表の線を見れば、列車が必ず来るように見える。来なかった時、その線が人を責めることがある」
教授は冷まし皿を回さない。
「研究では、もっと危ない。線が見えた瞬間、式にしたくなる」
ミャオリンは未送信紙を伏せたまま、耳を小さく振った。
「通信でも、線がつながると、送れると思うにゃ。送れると、送らない理由を聞きたくなるにゃ」
七つの声が、水皿のまわりへ集まった。
でも、水皿の中へ入らなかった。
それぞれの線が、それぞれの場所で止まる。
同じ線ではない。
同じ危うさでもない。
ただ、線を見れば進みたくなる手が、七つの場所にあった。
バドゥは戻る前石を、水皿の縁へ置いた。
水には入れない。
縁の上に置くと、石の重みで皿が少し傾きそうになる。
傾きそうになるだけで、水は動かない。
「この石は、戻る場所を示しません」
彼は言った。
「戻る前に、皿が傾きそうになることだけを見ます」
皿が傾きそうになる。
水が流れそうになる。
理由が落ちそうになる。
会議が進みそうになる。
その全部が、まだ手前にあった。
僕は、さっきの「なぜ」を心の中で拾った。
拾って、水皿へ入れない。
僕の膝の上へ置く。
「理由を聞きたい手を、ここに置きます」
「そこなら、水にはなりません」
バドゥが言った。
「でも、なくなりもしない」
ククルーが、僕の手元を見た。
「うん。聞きたい手も、乾かしすぎないで見ておこう」
乾かしすぎない。
その言葉で、僕は少し笑いそうになった。
でも、笑うと場が軽くなりすぎる気がして、息だけを戻した。
水皿の縁に置かれた戻る前石は、静かだった。
静かなのに、水の形を変えている。
変えているのに、水を流していない。
そのくらいの重さで、今は足りていた。
ネフェルが尋ねる。
「戻ることを決める石ではない。戻したくなった手を止める石だ」
星砂袋の口が、少しだけ鳴った。
ネフェルの指が、袋を閉じ直した音だった。
測りたい手。
水を道にしたい手。
音を合図にしたい手。
それぞれが、少しずつ動いて、少しずつ止まる。
バドゥは、水皿の水面を見た。
「合意も、流れると気持ちがいい」
リンドが法布の影を見た。
「気持ちがいいだけでは、正しさにならない」
「正しさにしなくても、流れると、進んだ顔をする」
バドゥの声は、ゆっくりしていた。
「流れたものは、戻すのが難しい。戻すと、逆らったように見える」
ガーネルが、遅れの布の端を見た。
「列も同じです。進んだ列を止めると、遅れた人が悪いように見えます」
「水路も同じにゃ」
ミャオリンが言った。
「流れに乗った知らせを止めると、止めた人が隠したみたいに見えるにゃ」
ピペット教授は、未完成議案へ手を伸ばしかけた。
今度も止める。
「議案も似ています。いちど案として流すと、あとから仮説に戻すのが難しくなる」
リリウムは、言葉未満札の端を見た。
「言葉も、流れます」
七つの大陸が、同じことを言っているように見えた。
流れるものは、戻しにくい。
けれど、同じことにしてしまうと、それも早い。
「似ているけれど、同じではない」
僕が言うと、ククルーは小さくうなずいた。
「うん。似ているものが集まると、まとめたくなるね」
「まとめないために、どうすればいいのでしょう」
言ってから、僕は少し口を閉じた。
また、どうすれば、と聞いてしまった。
会議場は、手順を求めやすい。
代表がいる。
台がある。
札がある。
議案がある。
手順を作りたくなるものが、最初から多い。
バドゥは、水皿を指で押さえなかった。
「手順にする前に、流れなかった線を見る」
皿の底の細い線。
僕は、今までそれを水の跡だと思っていた。
流れかけて止まった線。
けれど、近くで見ると、線は少し途切れている。
一本ではない。
水が通ったところ。
通りかけて乾いたところ。
指が触れそうになって引いたところ。
皿を持つ手が少し傾いたところ。
それらが重なって、一本の流れに見えていた。
「一つの線ではない」
僕は言った。
「一つに見える」
バドゥは答えた。
「一つに見えるから、流したくなる」
リリウムが、沈黙布を水皿のほうへ少しだけ近づけた。
触れない。
水皿の湿りが、沈黙布へ移らない距離で止める。
「沈黙も、流れに乗ることがあります」
「黙っていたから合意した、と読まれることがある」
リンドが言った。
その声は、法廷の鋭さを少し含んでいた。
だが、すぐに法布の光を見て、声を低く戻した。
「読まれることがある、だな。合意したとは限らない」
ミャオリンは、伏せた未送信紙を裏返さなかった。
「送らなかったから反対、でもないにゃ」
ネフェルは、星砂袋を開かない。
「数えなかったから存在しない、でもありません」
教授は、未完成議案を開かない。
「出さなかったから考えていない、でもない」
ガーネルは、遅れの布へ足を近づけない。
「来ていないから待っていない、でもない」
七つの否定が、会議場に並んだ。
ない、ではない。
でも、ある、ともまだ言わない。
僕は、その中間を見ようとした。
見ようとすると、すぐ言葉にしたくなる。
中間。
保留。
未確定。
どれも便利な言葉だ。
便利だから、すぐ札になる。
ククルーが、床へ視線を落とした。
「言葉にしたくなるところまで来たね」
「うん」
僕はうなずいた。
「でも、まだ札にしないほうがいい気がします」
「気がする、を置ける場所が要るね」
バドゥは、水皿の横に、もう一つ小さな皿を置いた。
水は入っていない。
皿というより、皿になりかけたくぼみだった。
「水を入れないのですか」
僕が聞くと、バドゥは首を横に振った。
「入れると、水の話になる」
「では、何を」
「流れなかったことを、入れないまま置く」
空のくぼみ。
水皿の横にあるが、水を受けない。
水路にはならない。
けれど、水の話から遠すぎもしない。
「低い水音の皿だ」
バドゥは言った。
「音だけですか」
「音だけではない。水が来たように聞こえた手、流したくなった手、戻したくなった手。その三つを水にしないための皿だ」
三つ。
また三つだ。
第20巻から持ってきた糸くず、葉柄、湿った木片も三つだった。
ここでも三つが出る。
三つを見つけると、すぐ形にしたくなる。
僕の目が、低い水音の皿へ吸い寄せられた。
バドゥは、それに気づいた。
「三つにしたいなら、三つにしたくなった手も置く」
「数えないほうがいいですね」
ネフェルが言った。
少しだけ笑っていた。
「今の言葉は、私の手にも来ました」
彼女は星砂袋の横へ、何も入っていない小さな布を置いた。
数えないための布ではない。
数えたくなったことを、星砂へ入れないための布だった。
会議場の床に、少しずつ外側が増えていく。
中央はまだ空いている。
中央を埋めないために、外側が増える。
外側が増えると、散らかって見える。
散らかって見えると、整えたくなる。
整えたくなる手が、また見える。
「このままだと、会議場が道具でいっぱいになりそうです」
僕は言った。
教授が、冷まし皿の向こうでうなずいた。
「いっぱいになる前に、棚がほしくなりますね」
「棚を作ると、分類が始まるにゃ」
ミャオリンが言った。
「分類しないと、なくしそうに見える」
ガーネルが、遅れの布を見た。
「なくしそうなまま待つのは、難しいです」
リリウムは、言葉未満札を見た。
「難しさも、会議の外へ出さないほうがいい」
バドゥは、流れない水皿のそばに置いた戻る前石を、少しだけ水皿から遠ざけた。
「水皿に近すぎると、戻る前石も水の道具になる」
「遠すぎると」
僕が言うと、バドゥはうなずいた。
「水のことを忘れた石になる」
近すぎると水の道具。
遠すぎると関係のない石。
その間に置く。
置く場所は、正解ではない。
今日の距離だ。
「今日の距離」
僕がつぶやくと、ククルーが少し目を細めた。
「今日の距離、までならここに置けるね。でも、札にすると少し強いかな」
「うん。まだ言葉だけにしておきます」
言葉だけ。
それも危ない。
言葉だけと言っても、言葉は残る。
残ると、あとで誰かが拾える。
拾えると、議題になる。
僕は、その危うさも一緒に見た。
受付係が、入口のほうで書き具を持ち直した。
「低い水音の皿は、記録しますか」
バドゥは、すぐ答えなかった。
ミャオリンが口を開きかけた。
送らない議事録のことを言いそうになって、やめる。
リリウムは沈黙布を見た。
ネフェルは星砂袋を見た。
リンドは法布を見た。
ガーネルは遅れの布を見た。
教授は未完成議案を見た。
それぞれが、自分の持ち寄り物で考えている。
同じ答えを出さないために。
バドゥは、ようやく言った。
「名前だけ記録すると、水音が道具になる」
「では、記録しませんか」
受付係が聞く。
「記録しないと、なかったことに見える」
バドゥは、戻る前石の隣へ、小さな乾いた葉を置いた。
葉は、水を吸わない。
吸えば変わるかもしれない。
でも、今は乾いたまま置かれる。
「記録したくなった手を、ここへ置く」
受付係は、書き具を下ろした。
「記録したくなった手」
「それも、まだ書かない」
ククルーが言った。
声は低い。
誰かの代わりに決めたのではない。
書き具へ走りそうになった場の手を、一緒に見ただけだった。
受付係は、短くうなずいた。
「まだ書かない」
その言葉も、議事録にはならなかった。
けれど、会議場の床には、乾いた葉が一枚増えた。
乾いた葉。
低い水音の皿。
流れない水皿。
戻る前石。
水が来たように聞こえた手。
流したくなった手。
戻したくなった手。
記録したくなった手。
すべてが水へ入らない。
水に入らないから、流れない。
流れないから、消えない。
「合意も、今日はまだ流さないほうがいいのですね」
僕が言うと、バドゥは少し首を傾けた。
「流さないほうがいい、と決めると、流れないことが正しくなる」
「では」
「流したくなった時に、流れる前の水皿を見る」
僕は、皿を見た。
水は動かない。
けれど、止まっているだけではなかった。
止まっている水の横に、低い水音の皿がある。
戻る前石がある。
乾いた葉がある。
それらがあるから、動かない水は、ただ動けないものではなくなった。
流れないことを責めないための場所になった。
会議場の奥で、さっきの低い音がもう一度だけした。
今度は、誰もすぐ振り向かなかった。
聞こえたことは、分かっている。
けれど、聞こえたからといって、会議をそこへ流さない。
音は、低い水音の皿の横に置かれた。
見えないまま。
水にしないまま。
合意にしないまま。
第3章で進んだことは、少なかったかもしれない。
けれど、流れなかったものを責めない場所が一つ増えた。
それは、合意できない部分をいつか置くための、最初の水音だった。




