砂漠の薬草市 第10章 乾きすぎた記録
夕方の砂皿市で、乾いた葉札はまだ棚の端に傾いていた。
落ちてはいない。
戻ってもいない。
そのままの角度で止まっている。
市場の人々は、何度もその札を見た。見るたびに、札は少し読みやすくなった。傾いた札は、まっすぐ置かれた札より目に入りやすい。影がつくと、文字の端も見えやすい。見えやすいから、意味が決まったように見える。
旅人は、その見えやすさを怖いと思った。
怖いと言っても、札が怖いのではない。
読みやすくなりすぎたものへ、手が寄っていく速さが怖かった。
セナリは、閉じていた見出し欄をまだ抱えている。欄の角には、乾いた砂がついていた。砂は払えばすぐ落ちる。だが、落としたあとに残る白いところも、また見出しのように目立つ。
「短く書けそうです」
セナリが言った。
誰に向けた言葉でもなかった。自分の手元へ、先に知らせるための言葉だった。
旅人は、うなずいた。
「短く書けると、強く見えます」
「強く見えると、運びやすいです」
「運びやすいと、遠くまで行きます」
二人は、そこで止まった。
遠くまで行くことが悪いわけではない。だが、遠くまで行く言葉が、戻る道を持っていないことはある。
バドゥは、水路瓶を持って、傾いた葉札の下へ近づいた。
「濡らすのですか」
客の一人が聞いた。
バドゥは首を振った。
「濡らすと、別の札になります」
「では、何を」
「湿りを見ます」
バドゥは、水を葉札にかけなかった。瓶の底を棚板の近くへ置いただけだった。瓶の中の水は、札の文字を映さない。距離がありすぎる。だが、棚板に残った細い影の横で、水の揺れだけが見えた。
文字ではないもの。
意味ではないもの。
乾いた札のそばにある、まだ読めない揺れ。
ミナモが湿り布を持ってきた。第8章で棚と棚の間に敷いた布だ。布は少し乾いていた。端に砂が入り、中央の湿りは薄くなっている。
「布も乾きます」
ミナモは言った。
「役目を持った布でも」
「はい。役目を持つと、乾かないわけではありません」
ミナモは、湿り布を葉札の上へかけなかった。傾きを直す道具にもしなかった。ただ、棚の前に低く敷き、布の端を少し折った。
折られた端に、砂が集まる。
砂は、文字にならない。
けれど、そこに人の足が止まる。
ネフェルは、星砂皿を持ってきた。皿の中の粒は、昼よりも少し重く見えた。光が弱くなったからかもしれない。市場の声が低くなったからかもしれない。
「星砂で読むのですか」
旅人が聞いた。
ネフェルは、皿を首の高さまで持ち上げず、膝の前に置いた。
「読めそうな時ほど、低く置きます」
星砂皿は、傾いた葉札を照らさない。粒は何かの形にも並ばない。皿の縁に、一粒だけ寄った砂がある。その一粒を見た客が、声を出しかけた。
ネフェルは、先に言った。
「一粒は、一粒です」
客は、口を閉じた。
意味にしたかった手が、皿の前で少し止まった。
ククルーは、薬袋を低い試し台の外側に置いたままだった。結び目は、昨日より少しほどけて見える。開いてはいない。ほどけて見えるだけで、開いたと読みたくなる。
「袋も、読みやすくなっているね」
ククルーが言った。
旅人は、袋を見た。
確かにそうだった。何度も市場の人々が見たせいで、袋は市場の中で見慣れたものになっている。見慣れると、分かった気がする。分かった気がすると、使えそうに見える。
「開けていないものまで、読まれ始めるのですね」
「うん。閉じたものも、長く置かれると形を持つね」
ククルーは、袋へ触れなかった。
「だから、閉じているだけでは足りない日があるんだ」
「では、どうしますか」
「閉じていることも、読まれるものだと見よう」
旅人は、淡い記録紙を取り出した。
今度は、手元に隠さなかった。
ただし、葉札のそばには置かなかった。水路瓶の横にも、星砂皿の横にも、湿り布の上にも置かなかった。低い試し台の外側、ククルーの薬袋からも一歩離れた場所へ置いた。
紙は、薄い。
薄いから、下の砂の色を少し受ける。紙だけを見ると白いが、砂の上に置くと、完全には白くない。前の街で反応を数えなかった紙は、ここでも数える紙にはならなかった。
セナリが、淡い記録紙を見た。
「書く紙ですか」
「書ける紙です」
旅人は答えた。
「書く紙と、書ける紙は違いますか」
「違うと思います。今は、違うものにしたいです」
セナリは、筆を持ち直した。
「書けるのに書かない紙が、必要なんだね」
「書かないことを、答えにしないためにも」
セナリは、少し笑った。
「難しいです」
「はい」
難しいという言葉は、市場で久しぶりにまっすぐ聞こえた。難しいものを難しいまま置くと、人は少し疲れる。だが、疲れることを避けて短くすると、湿りが落ちる。
バドゥは、傾いた葉札の下に手を入れなかった。
「この札は、乾きすぎています」
その言葉に、客たちが少しざわついた。
乾きすぎている。
それは、強い言葉に聞こえる。悪い札だと言っているようにも聞こえる。
バドゥは、続けた。
「乾いているから読めます。乾きすぎているから、戻り方が見えにくいです」
ざわめきは、少し低くなった。
「悪い札ではないのですか」
客の一人が聞いた。
「悪い札にすると、捨てる手になります」
バドゥは、水路瓶を指で支えた。
「読みやすい札にすると、持ち上げる手になります。どちらも速いです」
ネフェルが、星砂皿の一粒を指さした。
「星砂も同じです。点がはっきりすると、道に見えます。でも、点はまだ道ではありません」
ミナモは、湿り布の折り目を開いた。
「布も同じです。濡れていると、戻せる気がします。でも、濡れた布は戻すものではありません。戻る手元を見るものです」
三人の言葉は、それぞれ違う。違うから、ひとつの説明にならない。ひとつの説明にならないことが、今は市場を少し支えていた。
旅人は、空欄札を探した。
未登録棚の横に、まだ何も書かれていない札が数枚ある。登録するための札にも見える。見出しを立てるための札にも見える。誰かの名前を入れるための札にも見える。
旅人は、その中から一枚を取った。
何も書かないまま、傾いた葉札の横へ立てかけた。
すぐ隣ではない。
触れない距離。
空欄札は、乾いた葉札より白く見えた。白いから、書きたくなる。書けば落ち着く。何も書かれていない場所は、見る人の不安を引き受けすぎる。
旅人は、空欄札の下に待つ石を置いた。
待つ石は、字を止める石ではない。書くなと命じる石でもない。書きたくなった手を、一度低くする石だった。
「正しい記録にするのですか」
セナリが聞いた。
旅人は、首を振った。
「正しい記録にしすぎないためです」
「正しくない記録のままにするのですか」
「正しさを急がない記録にしたいです」
言ってから、旅人は自分の言葉を見た。
また、言葉が強くなるところだった。
「したい、です。まだ」
付け足すと、セナリはうなずいた。付け足した弱さが、かえって市場の声を低くした。
ククルーは、薬袋の横で目を細めた。
「弱く言い直せるところが、ここに残ったね」
「弱くすると、伝わりにくいです」
「伝わりにくいものの中に、残るものもあるよ」
夕方の風が、布屋根を鳴らした。
傾いた葉札は、まだ落ちない。
空欄札も、まだ書かれない。
水路瓶の揺れは、まだ意味にならない。
星砂皿の一粒も、まだ道にならない。
湿り布は、まだ濡れた答えにならない。
市場の人々は、それらを順番に見た。順番に見ても、順番は決まらなかった。ただ、読みやすいものを読みやすいまま持ち上げる前に、何が落ちているかを見始めた。
乾いた記録は、読める。
乾きすぎた記録は、戻り方を見失いやすい。
その違いは、見出しにはしにくい。値札にもなりにくい。星砂の点にも、薬草灯の影にも、水路瓶の揺れにも、ひとつでは入りきらない。
だから、旅人は、淡い記録紙をそのまま置いた。
書ける紙として。
書かない紙としてではなく。
まだ書く前の湿りを、砂の上に残す紙として。
夜が近づくころ、傾いた葉札の影は、棚板の上で少し長くなった。
長くなった影を、誰も道とは呼ばなかった。
けれど、その影の先に、薬草棚ではなく、市場の外へ向かう細い足跡が見えた。
使われた場所へ戻る足跡だった。
### 後半前段増補5 影を道にしない足元
細い足跡は、すぐには追われなかった。
追えば、道になる。
道になれば、どこへ行けばよいか分かるように見える。分かるように見えれば、市場の人々は安心する。だが、足跡はまだ一人分ではなかった。棚の前を歩いた人、かごを返した人、皿を片づけた人、見出し欄を抱えたセナリ、待つ石を動かしたバドゥ。いくつもの足が、砂の上で少しずつ重なっている。
ネフェルは、星砂帳を足跡へ向けなかった。
「星で足跡をつなげますか」
旅人が聞くと、ネフェルは首を振った。
「つなげると、歩く順番になります」
「順番が分かると、助かることもあります」
「あります。ですが、今は誰の順番かも分かりません」
バドゥは、水路瓶を足跡のそばへ置いた。
水は足跡へ触れない。触れれば砂が固まり、足跡の形が強く残る。残れば、見やすくなる。見やすくなった足跡は、行き先に見える。
「固めないのですか」
客が聞いた。
「固めると、そこを歩かせる」
バドゥは短く答えた。
ミナモは、湿り布の端を持っていた。
「拭けば消えます」
「消しますか」
「消すと、戻る場所を見なかったことになります」
ミナモは、布を畳んだ。消さない。固めない。つなげない。その三つだけでも、足跡の前にはずいぶん手が必要だった。
セナリは、足跡を見たまま言った。
「足跡は、記事にしやすいです」
「なぜですか」
「誰かが動いたことが見えるからです」
「誰か」
「はい。誰か、です」
その誰かを一人にした瞬間、市場はまた探し始める。誰が先に歩いたのか。誰が棚へ近づいたのか。誰が葉札を見たのか。誰が止め、誰がしまい、誰が買おうとしたのか。
旅人は、足跡の端に待つ石を置いた。
足跡の上ではない。
端。
「歩いた人を止める石ではありません」
旅人は言った。
「歩きたくなった人の手前に置きます」
ククルーは、薬袋の紐を少し見た。
「足跡も、袋の紐に似ているね」
「どこがですか」
「ほどけば進めるように見えるね。結べば止められるように見える。でも、どちらも答えにすると速いんだ」
旅人は、足跡を見た。
たしかに、たどりたくなる。たどれば、使われた場所へ行けるかもしれない。だが、たどる手が速すぎれば、生活の場所も市場の続きにしてしまう。
「戻る場所を見ることと、足跡を追うことは違います」
旅人が言うと、バドゥがうなずいた。
「戻る場所は、向こうからも見ている」
「向こうから」
「戸口で待つ人も、井戸端の人も、火の手前の人も、市場を見る」
市場から行くだけではない。生活の側からも、市場は見られている。足跡を道にすると、その向こう側の目が消える。
ネフェルは、星砂帳の表紙を少し撫でた。
「道は、一方向に見えやすいです」
「だから、まだ道にしない」
「はい」
足跡は、夕方の砂に薄く残った。
長くなった影も、足跡も、まだ呼び名を持たない。道ではない。証でもない。誰かを示す印でもない。
それでも、市場の外へ向かう気配はあった。
旅人は、その気配を急がせないように、足元の砂を少しだけ見続けた。




