砂漠の薬草市 第5章 試す前の買い物かご
空の買い物かごは、砂皿市のあちこちに置かれるようになった。
最初は、ミナモの棚の前だけだった。戸口へ持って帰りたい客が、かごから手を離すためのものだった。けれど、未登録棚の前で声が低くなるにつれ、ほかの棚でも、客たちは自分のかごを少しずつ下ろし始めた。
かごを下ろす音は、軽い。
乾いた竹のような素材で編まれているため、砂へ置くと、かさり、と鳴る。その音が市場のあちこちで起こると、ざわめきの中に別のリズムが混じった。買う声、聞く声、急ぐ声。その下に、かごを置く音が入る。
ネフェルは、その音を数えなかった。
バドゥも、水路瓶を抱えたまま音の方向を追わなかった。
「置いたかごの数は、見ないのですか」
セナリが聞いた。
「見れば、安心できます」
ネフェルは答えた。
「かごを置く人が増えた、と分かれば、この場が落ち着いているように見えます」
「落ち着いているように見えるのは、悪いことですか」
「悪くありません。けれど、置いた人が何を持って帰りたかったかを見ないまま、数だけで落ち着いたことにすると、また乾きます」
乾く。
その言葉を、セナリは覚え始めていた。
市場では、分かりやすいものが乾く。運びやすいものが乾く。数えやすいものも乾く。乾いたものは悪いのではない。だが、乾くと生活の湿りが落ちやすい。
ミナモは、低い試し台を市場の中央へ運んできた。
試し台と言っても、何かを試すための台ではない。試したくなった手を置く台だ。台の上には、薬草灯も星砂も置かれていない。白い砂が薄く敷かれ、その上に小さな円が三つ描かれている。
「買う前の円」
ミナモは一つ目を指した。
「測る前の円」
ネフェルが二つ目を指した。
「持って帰る前の円」
バドゥが三つ目を指した。
三つの円は、少しずつ重なっている。完全に別々ではない。買う前の手には、測りたい手が混じる。持って帰りたい手には、買いたい手が混じる。測りたい手には、戸口で待つ人への不安が混じる。
「ここに、かごを置きます」
ミナモが言った。
戸口へ持って帰りたい客は、自分のかごを抱えたまま、試し台の前へ来た。かごは空だ。だが、空だから軽いわけではなかった。入れる前のものが、かごの中にもうあるように見える。
「どの円へ置けばいいですか」
客が聞いた。
ミナモは、すぐには答えなかった。
「どこへ置きたいですか」
客は、かごを見た。
「持って帰る前、だと思います」
バドゥはうなずいた。
「足が戸口へ向いている」
客は、自分の足を見た。
確かに、片足が市場の出口へ向いていた。葉札の棚ではなく、星砂棚でもなく、市場の出口へ。客は、その足に気づいて、かごを三つ目の円へ置いた。
かごは、軽い音を立てた。
「これで、待てますか」
客が聞いた。
「まだ分かりません」
ミナモは答えた。
「置いたことで、待てることにしない」
バドゥは、待つ石をかごの横へ置いた。
「待てないかもしれない手も、横へ置く」
客は、少し困ったように笑った。
「待つために置いたのに、待てない手も置くんですか」
「置く」
バドゥは短く言った。
「待てない手を見ないまま待つと、あとで走る」
ククルーは、低い試し台の足元で鈴を鳴らさずに座っていた。
「買う前の台なのに、ずいぶん買うことから遠くなったね」
「遠くしたほうがいいですか」
旅人が聞くと、ククルーは首を振った。
「遠くしすぎると、買う手が悪いものに見えるね。ここでは、買う手を少し低くするだけだよ」
ネフェルは、星砂帳をまだ開いていない。
「買う手が低くなると、測る手も少し遅くなります」
「測る手も、買う手に引かれるのですか」
セナリが聞いた。
「引かれます。測れば買える、と思う時があります。測れば止められる、と思う時もあります。どちらも、測る前に速くなります」
セナリは、空の見出し欄を低い試し台の横へ置いた。
「書けば知らせられる、と思う時もあります」
「あります」
ネフェルは、セナリの空欄を見た。
「あなたのかごは、それですね」
セナリは、空欄を見た。
「かご」
「書きたいものを入れる前のかごです」
セナリは、少し息を吐いた。
「空だと思っていました」
「空は、空っぽとは限りません」
ミナモが言った。
「空のかごには、持って帰りたい手が先に入っています」
市場の人々は、低い試し台を囲むように立った。立っているが、足は少し止まっている。誰かがかごを置く。誰かが置けずに持ったままいる。誰かが、置く場所を決められずに三つの円の間で迷う。
迷う姿が、見えた。
それだけで、市場の声はまた少し変わった。
「買ってはいけないのか」
誰かが聞いた。
ミナモは首を振った。
「買ってはいけない、ではありません」
「では、買っていいのか」
「それも、まだです」
その答えに、不満の声が出かけた。
バドゥが、水路瓶を軽く揺らした。水の音がした。強い音ではない。だが、不満の声が形になる前に、その音へ少しだけ混じった。
「今は、買いたい手を見る」
バドゥは言った。
「見たあとで、買うかもしれない。買わないかもしれない。別の場所へ聞きに行くかもしれない」
「別の場所」
「戸口。水路。夜。棚の奥。使われた場所」
ネフェルは、閉じた星砂帳に手を置いた。
「星だけで、かごの中は見えません」
「水だけでも、棚の上は見えない」
バドゥが言った。
「薬草灯だけでも、戸口の時間は見えません」
ミナモが続けた。
三人の言葉が、低い試し台の上で重なった。
重なったが、ひとつにはならない。
旅人は、浅い連絡袋の外側を見た。銀葉の小片が、砂の風で小さく揺れている。前の街で、見出しの外側に残ったものだ。ここでは、買い物かごの外側に似て見える。似ているが、同じではない。
「外側に置くものが、また増えました」
旅人が言うと、ククルーはうなずいた。
「増えるね。旅は、持ち物より外側が増えることがあるよ」
セナリは、低い試し台の横に置いた空欄を見ていた。
「この記事も、外側が増えます」
「記事にしますか」
旅人が聞くと、セナリはすぐに答えなかった。
「まだです。書く前のかごが、まだ重いです」
その言葉を聞いて、ミナモは小さく笑った。
「重いなら、置けます」
セナリは、空欄を三つの円のどこにも置かなかった。円の外、低い試し台の足元へ置いた。
「これは、知らせる前のかごです」
ネフェルはうなずいた。
「四つ目の円を描かなくていい」
「なぜですか」
「描くと、手順になります。今は、足元でいい」
市場の中央で、かごを置く音がまた一つ鳴った。
その音に続いて、別の人が言った。
「家で待っている人の名前を、ここで言ってもいいですか」
市場が少し静かになった。
名前を言うと、物語になる。物語になると、人はその人のために買いたくなる。買いたくなる手は、悪くない。だが、名前を市場の真ん中に置けば、待っている人が市場の理由になる。
ミナモは、すぐに答えなかった。
バドゥは、待つ石を見た。
ネフェルは、星砂帳を見た。
ククルーは、鈴を鳴らさなかった。
旅人は、淡い記録紙を一枚、低い試し台の外へ置いた。
「名前を言う前の紙です」
名前は、まだ書かれない。
けれど、言いたくなった場所は見える。
客は、少しだけ肩の力を抜いた。
「言いたいです」
「言いたい手を、ここに置きます」
ミナモが言った。
低い試し台は、買う前のかごだけでなく、言う前の名前も受け止め始めた。
市場は、まだざわめいている。未登録棚には葉札がある。星読み札の穴はふさがったままだ。水路瓶の線も、戸口へ向いた足も、空のかごも、全部まだある。
だが、安心を買う前に、安心を持ち帰りたい手が見え始めていた。
それは終わりではない。
けれど、乾いた市場で、手元へ湿りが戻るための、最初の低い場所だった。
### 中盤前段増補4 かごの底に敷く空布
低い試し台の横に、空布が置かれた。
布には何も包まれていない。色も薄く、薬草灯の光を受けても目立たない。だが、かごの底へ敷くと、底の硬さが少し変わる。空のままのかごが、ただの空洞ではなく、何かを受ける前の場所に見える。
「入れるものを決める布ですか」
客の一人が聞いた。
ミナモは、布を広げたまま首を振った。
「決める前に、底を見失わない布です」
客は、かごを低くした。
空布を敷くと、かごは少し重くなった。何も入れていないのに、手に重さが来る。その重さに、客は小さく息を吐いた。
「もう持って帰るものがあるように感じます」
「感じるなら、まだ買いません」
ミナモの声は穏やかだった。
「感じた重さを、買ったものの重さにしないためです」
商人は、棚の前で困ったように笑った。
「空布まで置くと、余計に迷う」
「迷う手も、かごの底へ置けます」
「迷っている間に、日が暮れる」
「日が暮れることもあります」
ミナモは、商人を責めなかった。商人にも日暮れがある。売れない棚、戻れない品、待っている仕入れ先。市場の遅さは、客だけにやさしいものではない。
バドゥは、水路瓶を試し台の横へ置いた。
「空布は、水を吸うか」
「少し吸います」
「吸わせないのか」
「今は、吸わせません」
ミナモは、布を水へ近づけなかった。
「湿らせると、持ち帰る理由に見えます」
バドゥはうなずいた。
「乾いたままの布にも、重さがある」
旅人は、自分の浅い連絡袋を見た。袋の外側には、淡い記録紙と月光タグがある。中には銀葉の小片と遅い信号の余白がある。どれも、空ではない。だが、持っている理由を決めきらないまま、ここまで来た。
空布は、その持ち方に少し似ていた。
何も包まないことで、何でも包めるように見える。何でも包めるように見えるから、すぐ何かを包みたくなる。
旅人は、空布の端を持ち上げかけた。
すぐ下ろした。
「持ちたくなりました」
ククルーが、低い試し台の外側から見ていた。
「持つ前に見えたね」
「はい」
「なら、布はまだ働いているね」
セナリは、空の見出し欄を空布の横へ置きたそうにした。白い布と空の欄は、よく似ている。並べれば、何かを書き出す前の場面として美しく見える。
「置きません」
セナリは、自分で言った。
「なぜですか」
旅人が聞くと、セナリは欄を抱え直した。
「似ているものを並べると、ひとつの絵になります」
「絵になると」
「見た人が、分かった気になります」
空布は、かごの底に一枚ずつ敷かれた。
全部のかごではない。希望した人のかごだけでもない。手が熱くなっている人、底を見失っている人、空なのに軽すぎることが怖い人。その人たちが、自分で布を一枚選び、底へ置いた。
布を敷いたあと、かごを持ち上げる。
重い。
まだ何も買っていないのに、少し重い。
その重さが、客の足を一歩だけ遅くした。
低い試し台の上には、空のかごと、空布を敷いたかごが並んだ。どちらが正しいわけではない。軽いかごにも、重くなったかごにも、それぞれの手元がある。
薬草灯の光は、布の上で少し鈍くなった。
鈍い光は、選びやすくない。
選びやすくないから、客はかごの底をもう一度見た。
買う前の底。
試す前の底。
持って帰る前の底。
空布は、そこに何も入れないまま、入れたくなる手の重さだけを静かに受けていた。
### 序盤中盤増補9 置いたかごの持ち手
空布を敷いたあと、客たちはかごを置いたまま離れなかった。
かごを置くことはできた。
けれど、持ち手から指を離すことは、また別だった。
低い試し台の周りには、持ち手だけを握ったままの人が何人もいた。かごの底は砂に触れている。空布も底に敷かれている。何も入っていない。それでも、指は持ち手を離さない。
「置いたのに、持っているのですね」
セナリが言った。
その言葉は責める声ではなかった。自分の見出し欄を抱え直す声に似ていた。
ミナモは、かごの持ち手を見た。
「置く手と、離す手は違います」
「離さないと、置いたことにならないのですか」
「置いたことにはなります。離したことにはなりません」
バドゥは、水路瓶の取っ手から指を少しずらした。
「瓶も同じだ」
「置けますか」
「置ける。だが、取っ手の重さが手に残る」
ネフェルは、星砂帳を抱えたまま、かごの持ち手を見た。
「星砂帳も、閉じても手から離れない日があります」
「閉じたのに」
「閉じたことと、手放したことは違います」
旅人は、浅い連絡袋の肩紐を見た。まだ肩にある。袋を置いていない。だが、外側に差した淡い記録紙や月光タグは、持ち方を変えている。置くことだけが、手元を変えるわけではない。
ククルーは、低い試し台の外側で言った。
「離せない手を、早く離れた手にしないのが大事だね」
「離せないままでいいのかな」
「いい、にすると早いね。離せないことを見る、くらいで置いておこう」
ミナモは、小さな木片を持ってきた。
離す前の木片。
そう書かれてはいない。何も書かれていない木片だった。
木片は、持ち手を握ったままの指のそばに置かれた。指をこじ開けるためではない。離せない手が、自分を責めずに見られるようにするためだった。
客の一人が、かごの持ち手から指を一本だけ離した。
全部ではない。
一本だけ。
それでも、かごの底に敷いた空布が少し沈んだように見えた。
「少しだけ離れました」
客が言うと、ミナモはうなずいた。
「少しだけ、です」
少しだけ、という言葉が市場に残った。
それは、買う前にも、測る前にも、持って帰る前にも必要な弱い言葉だった。
### 序盤中盤増補10 戻る前棚へ向かない足
かごの持ち手を見たあと、旅人は戻る前棚の方を見た。
乾いた葉札は、まだ棚の前にある。
登録印のある葉札も、印のない葉札も、戻る前の場所へ低く置かれている。だが、低い試し台の周りに集まった人々の足は、すぐには戻る前棚へ向かなかった。
かごを置いた人は、自分のかごを見る。
空布を敷いた人は、底を見る。
持ち手を離せない人は、指を見る。
戻る前棚は、そこから少し遠くなっていた。
「棚を見なくていいのですか」
商人が聞いた。
バドゥは、戻る前棚へ水路瓶を向けなかった。
「今すぐ向けると、棚が答えになる」
「棚を見るために、棚を作ったのでは」
「見るためだ。向かわせるためではない」
ネフェルは、星砂帳を開かずに、客たちの足元を見た。
「足が向かないことも、見ます」
「向かわないと、戻れないのでは」
「向かない手前にも、戻る前があります」
ミナモは、低い試し台と戻る前棚の間に、湿り布を敷かなかった。
布を敷けば、道に見える。
道に見えれば、人は歩く。
歩けば、戻る前棚へ来たことが正しい手順に見える。
「布を敷かないのですね」
旅人が聞くと、ミナモはうなずいた。
「敷かない間も、必要だね」
セナリは、見出し欄の角を押さえた。
「戻る前棚へ向かない足、という言葉は、少し変だね」
「変なままで置けますか」
「置けます。短くないので」
ククルーは、薬袋の結び目を見た。
「向かない足は、逃げた足じゃないね」
「はい」
「まだ向きが決まらない足です」
戻る前棚へ向かない足は、市場の中にいくつもあった。
それは、棚を拒む足ではない。
棚へ行く前に、自分のかごや持ち手や空布を見る足だった。
戻る前棚は、その足を急がせず、低いまま待っていた。
### 序盤中盤増補11 試し台の下に入る砂
低い試し台の下には、砂が入り込んでいた。
台を置いた時には平らに見えた場所だった。だが、人が集まり、かごを置き、空布を敷き、持ち手を握り直すうちに、台の脚の周りへ細い砂が寄っていた。
「掃きますか」
商人が聞いた。
掃けば、台はきれいになる。
きれいな台は、試す前の場所として見やすくなる。
見やすくなると、人は台を使いやすくなる。
ミナモは、すぐには刷毛を取らなかった。
「台の下に入った砂は、邪魔です」
「では」
「邪魔だから、見ます」
バドゥは、水路瓶を台の下へ近づけなかった。
「水で固めると、脚が安定する」
「安定させませんか」
「安定した台は、正しい場所に見える」
ネフェルは、星砂帳の端を台の脚へ向けなかった。
「脚の周りの砂を点にできます」
「点にすると」
「台の位置が読めます」
「読まないのですね」
「今日は、読めそうな足元を読みません」
セナリは、見出し欄を低い試し台の足元へ置いたまま、台の下を見た。
「足元の記事は、読まれにくいです」
「読まれにくいものを、無理に読ませますか」
セナリは首を振った。
「読まれにくいまま、ここに置きます」
旅人は、台の下へ手を入れなかった。
砂を取れば、取った手が見える。
取らなければ、砂が残る。
どちらも意味になりやすい。
ククルーは、鈴を鳴らさずに台の下を見た。
「下に入った砂は、台のものでも、床のものでもあるね」
「どちらですか」
「今は、どちらかにしない砂だね」
ミナモは、刷毛を取った。
全部は掃かない。
台の脚に触れそうな砂だけを、指一本分横へ寄せた。残りはそのままにした。
「少しだけ掃きました」
商人が言った。
「少しだけです」
ミナモは答えた。
低い試し台は、完全にはきれいにならなかった。
完全には安定しなかった。
完全には読める場所にもならなかった。
それでも、かごを置く人の足元には、もう少しだけ場所ができた。
第6章へ向かう光は、その少し掃かれた砂の上を通ることになった。




