第16巻 星読みと月光卿 第6章 星図にない祈り
星砂盤の端に生まれた小さな明るさは、朝になっても消えなかった。
強くなったわけではない。夜の星のように自分で光るのでも、月光の線のように布の上をまっすぐ進むのでもない。見ようとすると、星砂の粒に紛れる。見ないでいると、そこだけ砂の息が少し遅れる。点と言えば小さすぎる。影と言えば明るすぎる。誰かの声と言えば、まだ言葉がない。
サミルは筆箱を膝の前に置いたまま、何度も指を開いては閉じた。
「星図へ入れるなら、位置を測らないといけません」
その声には、焦りだけでなく、仕事をきちんとしたい誠実さがあった。星図係が星図にないものを見つけた時、最初に測りたいと思うのは自然なことだ。測らなければ、あとで誰かがその明るさを見失うかもしれない。見失えば、昨日見たものは、見た人の不安だけになってしまう。
ネフェルは星砂盤の縁へ刷毛を置いた。
「位置を測ることはできます」
サミルの肩が少し動いた。
「では」
「でも、位置を測ると、星図に入れたくなります」
サミルは言葉を止めた。
エレインは順番布を畳まず、白い布の端に広げたままにしていた。銀の小筆は布の上に置かれていない。余り糸と白い紙片の横で、光を受けない角度に寝かされている。書ける道具があるのに書かない。書かないことを罰にも誇りにもせず、ただ手元に見えるようにしている。
順番布の端には、昨夜より細かな砂がついていた。丘を渡る風が運んだものか、誰かの袖から落ちたものか、分からない。払い落とせば布はきれいになる。残せば、布が丘にいたことは見える。だが、砂を残すと、星砂盤と順番布が同じ話に近づきすぎるかもしれない。
エレインは砂を払わなかった。払わないだけではなく、砂へ筆を近づけもしなかった。
「この砂は、法典側の記録には入りません」
ルミエールの使いが言った。
「入りません」
エレインは答えた。
「だからといって、払ってしまえば、ここへ布を置いた手まで消えます」
ネフェルは星砂盤の端の明るさを見たまま、短くうなずいた。
「星図にも入りません」
「入らないものが増えますね」
サミルの声は少し苦かった。増えていく。星図に入らない明るさ。法典に入らない砂。記録にならない手。どれも近くにあるのに、どの帳面にも入らない。
ククルーは順番布の砂を見て、前足を浮かせた。
「払う係になりたくなる足があるね」
「今日は、払わない足でお願いします」
エレインが言うと、ククルーは前足を胸の前へしまった。
「とても難しい係だね」
その軽さで、サミルの苦い顔が少しほどけた。けれど、ほどけた顔も、すぐ安心にはしなかった。見落としたくない手は、まだ残っている。
「法典へ入れることもできます」
エレインが言った。
ルミエールの使いが顔を上げた。
「守るべきものとしてですか」
「そう読めます」
エレインはすぐに続けた。
「けれど、そう読んだ瞬間、この小さな明るさは、守られるべきものになります。守られるべきものになると、誰から、何から、どの順番で守るのかを決めたくなります」
旅人は、星砂盤の端の明るさを見た。
明るさは、何かを求めているようにも見えた。何も求めていないようにも見えた。助けを呼ぶ声にしたくなる。合図にしたくなる。見落とされた記録の欠けにしたくなる。だが、どれかにすると、その手前にあった小ささが消える。
ククルーは、低い席のひとつへ近づいた。昨日、七枚目として中央から少し外して置かれた席だ。ククルーはそこへ座らない。前足を乗せることもしない。席の横に丸くなりかけ、すぐにやめた。
「座ると、座った席になるからね」
サミルが小さく笑いかけ、すぐ真面目な顔に戻った。
「では、どこへ置けばよいのでしょう」
その問いは、明るさへ向けたものではなかった。測りたい手と、守りたい手と、名前をつけたい手へ向けた問いだった。
ネフェルは星砂盤の端を指ささず、盤の外側にある空いた砂を見た。
「星図に入らないものを、星図の外へ追い出したくはありません」
エレインも、白い布の中央ではなく、布の手前を見た。
「法典に入らないものを、法の外へ置いたことにしたくもありません」
二人の声は似ていない。ネフェルの声は砂の粒を数えすぎないための低さを持ち、エレインの声は光を向けすぎないための低さを持っていた。似ていないから、同じ場所で聞けた。
旅人は、浅い連絡袋を開いた。
袋の底には、銀でも金でも決まらない星砂の一粒があった。第15巻から運んできた軽い便札の端も、まだ外側に斜めに差さっている。旅人は袋から何も出さなかった。出せば、前の便と今の明るさを同じ話にしたくなる。けれど、袋を開けたままにしておけば、軽いものを軽いまま持ってきた手だけが見える。
「祈り、と呼んでもよいですか」
サミルが聞いた。
エレインはすぐ答えなかった。ネフェルも答えなかった。ルミエールの使いは法典片を見た。そこには、守るためには照らしすぎない、と書かれている。だが、その言葉を今使えば、明るさを守る対象へ押し込めてしまう。
ククルーは耳を少し倒した。
「名前に見える時ほど、少しだけ待ちたいね」
「名前ではなくても、呼べなければ記録できません」
サミルの声は弱くなった。責めているのではない。記録できないものを前にした記録係の、頼りなさだった。
旅人は七枚の低い席を見た。まだ何も座っていない。何も置かれていない。空いているから、役目がないのではない。空いていることで、置きたくなる手を見せている。
「名前未満札を作れますか」
サミルは瞬きをした。
「名前未満、ですか」
「名前をつけないためではなく、名前にしたくなる手をなくさないために」
サミルは筆箱を開けた。今度は、誰も止めなかった。
筆箱の中から、小さな紙片が一枚取り出された。昨日の白い紙片より少し厚く、星砂が貼りつきにくい紙だった。サミルは記録筆を持ち、すぐには書かない。筆先を紙に近づけ、戻し、もう一度近づけた。
エレインが順番布の端を指した。
「その札は、布の上ではなく、席の横へ」
サミルはうなずき、紙片に小さく書いた。
名前未満。
その四文字は、明るさの名前ではなかった。明るさを見た人たちの手を置くための札だった。サミルはそれを七枚目の低い席の横へ置いた。席の上ではない。席に置けば、名前未満が席の役目になってしまう。横に置くと、席はまだ空いている。
星砂盤の端の明るさが、ほんの少し揺れた。
揺れたと言えるほどの動きではない。だが、見ていた全員の息が一拍遅れた。サミルは筆を握りしめかけ、すぐ緩めた。エレインは銀の小筆に触れかけ、触れなかった。ネフェルは刷毛へ目を落とし、手を伸ばさなかった。
「記録外へ出ている」
ルミエールの使いが、ぽつりと言った。
その言葉は、丘の上で思ったより重く響いた。記録外。星図にも、法典にも、祭の支度にも入っていない場所。外と言えば、遠くへ追いやったように聞こえる。だが、今の明るさは遠くない。星砂盤の端に、すぐそこにある。すぐそこにあるのに、入らない。
ネフェルは首を横に振らなかった。
「そう見えます」
エレインも否定しなかった。
「そう呼びたくなる手があります」
ククルーは、名前未満札の横を見た。
「それじゃ、記録外と決める前の席も必要だね」
サミルは筆を持ち直した。
「また札を作りますか」
「札ばかり増やすと、札のために手が忙しくなります」
ククルーはそう言い、七枚目の低い席の空いた中央を見た。そこには何もない。だが、何もないだけでは、明るさが戻って来られる場所にならない。座らせれば決めてしまう。空けておくだけでは、見落としに似てしまう。
旅人は、星砂盤のそばに置かれていた細い灯芯を見つけた。観測祭で夜の器具を確かめるための、小さな灯りの芯だった。まだ火はついていない。燃やすための油もない。灯りと呼ぶには足りないが、灯りになれる形はある。
灯芯は、道具箱の中でほかの芯と一緒に束ねられていた。束の中にある時は、どれも同じ小さな芯に見えた。一本だけ取り出すと、先のほつれ方が違う。まっすぐなもの、少し曲がったもの、紙の繊維が外へ出ているもの。旅人が見つけた芯は、先がほんの少し開いていた。火を待っているようにも、まだ火から離れていたいようにも見える開きだった。
サミルはその開いた先を見て、筆を持つ手をまた動かしかけた。
「形を書いておけば、あとで分かります」
「書けば、芯の形が先に残ります」
エレインが静かに言った。
サミルは息を吸い、筆を戻した。書かない手は、さっきよりも遅かった。遅くなったことで、弱くなったのではない。書ける手のまま、席の横へ降りてきたのだ。
ネフェルは灯芯を持ち上げず、道具箱の縁ごと少しだけ近づけた。芯だけを取り出せば、選ばれた芯になる。箱ごと動かせば、束の中から一本を見た手も残る。
「戻れる席は、戻るものを選ぶ席ではありません」
ネフェルはそう言った。
「では、この芯も、選ばれた灯りではない」
リンドが低く続けた。
「灯りになれる形が、ここにあると見えるだけです」
その言い方で、七枚目の低い席は少し広くなったように見えた。実際に大きさが変わったわけではない。だが、席へ入る前の手前がひとつ増えた。戻るものを決める前に、戻れる形があるかどうかを見る手前だった。
「灯せますか」
ネフェルはその芯を見た。
「強い灯りにはできません」
「強くしないで」
エレインが銀の小筆を持ち上げ、筆先で月待ち布の折り端を少しだけ開いた。そこに残っていた月光の薄い粉が、灯芯の先へひと粒落ちた。ネフェルは星砂盤の端から、明るさに触れない場所の星砂を一粒だけ取った。サミルは名前未満札の横から、何も書いていない紙の端を細く裂いた。
三つは同じ皿へ入れられなかった。
月光の粉は銀の小皿へ。星砂の粒は浅い砂皿へ。紙の端は七枚目の席の横へ。それぞれ別の場所に置かれたまま、灯芯だけがその真ん中より少し手前へ置かれた。
「これは、何の灯りですか」
サミルが聞いた。
旅人はすぐ答えなかった。
祈りの灯り、と言えばきれいだ。記録外の灯り、と言えば苦しい。星図にない灯り、と言えば星図が足りないように聞こえる。法典にない灯り、と言えば法典が冷たく聞こえる。
どれも違う。
「戻って測れるための、小さい灯り」
ネフェルがうなずいた。
「測るためではなく、戻るために」
エレインが続けた。
「照らすためではなく、消えないために」
サミルはその言葉を札にしたがった。手が動いた。けれど、名前未満札の横で止まった。
「書くと、灯りの役目になりますね」
「今日は、そうかもしれません」
エレインはやわらかく答えた。
サミルは筆を置いた。書かなかった手が、少しだけ震えている。その震えは、失敗ではなかった。書きたい手が、まだここにあるということだった。
ククルーの鈴が、首元で小さく揺れた。
音は鳴らない。だが、揺れた影が七枚目の低い席の端をなぞり、名前未満札の上を通らず、その横を抜けた。誰も意味にしなかった。意味にできそうなものが増えていく時ほど、意味にしない場所が必要だった。
星砂盤の端の明るさは、灯芯の方へ移ったわけではない。星砂盤に残ったままだ。だが、低い席の横に置かれた灯芯が、まだ灯っていないのに、そこへ戻る道のように見えた。
「これを、観測記録に入れないのですか」
ルミエールの使いが聞いた。
ネフェルは星砂盤を見た。
「入れません」
サミルの顔が少し強ばった。
エレインが法典片を見た。
「法典にも入れません」
今度はルミエールの使いが息を止めた。
「では、なくなってしまいませんか」
旅人は七枚目の席の横に置かれた名前未満札を見た。札は小さい。灯芯も小さい。星砂盤の端の明るさも小さい。小さいものばかりだ。だが、小さいものが三つあると、なくなっていないことだけは分かる。
「入れないことと、なくすことは違う」
その言葉を聞いて、サミルは筆箱の蓋に手を置いた。閉じるのではない。開けたまま、蓋を支える手だった。
「では、星図の外ではなく」
サミルは言いかけて止めた。
ネフェルが続きを急がせなかった。
「法典の外でもなく」
ルミエールの使いも言いかけて止めた。
エレインが続きを急がせなかった。
二つの言いかけが、白い布の中央へ落ちず、七枚目の低い席の横へ静かに降りた。席はまだ空いている。空いているが、見落としではない。
風が通った。
順番布の狭い縫い目が震え、広い縫い目が遅れて揺れた。星砂盤の端の明るさは、その風では動かなかった。動かないから星だとは言えない。消えないから答えだとも言えない。ただ、見た手を急がせずに残している。
ククルーは、灯芯の前で小さく息を吐いた。
月光の粉が、ほんの少しだけ光った。星砂の粒も、それとは別の間で光った。紙の端は光らない。光らないことで、そこが紙だと分かった。
「祈りの小灯」
サミルが、声に出すか出さないかの小ささで言った。
誰も、その言葉を正式名にしなかった。
けれど、誰も取り消さなかった。
小灯は、まだ灯っているとは言えなかった。
月光の粉がある。星砂の粒がある。細く裂いた白い紙の端がある。灯芯もある。けれど、火はない。火がないのに、小灯と呼びたくなる。その呼びたさが、丘の上に低く残った。
サミルは、灯芯へ手を伸ばしかけた。
「火を、少しだけ」
言い終える前に、サミルは自分で手を止めた。火をつければ、灯りになる。灯りになれば、見える。見えれば、見たものとして書ける。書ければ、誰かへ説明できる。説明できれば、安心する。
その順番は、あまりにもなめらかだった。
なめらかすぎるものほど、途中の手を隠す。
ネフェルは、止まったサミルの手を見た。
「火をつけたい手は、自然です」
サミルはうなずいた。
「見えなくなるのが怖いです」
「はい」
ネフェルは、星砂盤の端に生まれた小さな明るさを見た。
「見えなくなるのは、怖い」
エレインも、銀の小筆を持たない手で順番布の縫い目を押さえた。
「守れなくなるのも、怖い」
二つの怖さは、同じではない。見えなくなる怖さと、守れなくなる怖さ。似ているから、すぐ一つの対策にしたくなる。火をつける。記録する。法典へ入れる。席へ置く。だが、一つの対策は、一つで済む安心を連れてくる。
旅人は、小灯の手前に膝をついた。
近づきすぎると、息で粉が動く。離れすぎると、ただの道具に見える。息が届かず、目が届く距離を探すだけで、思ったより時間がかかった。
ククルーは、その横でしっぽを動かさずに座った。
「息の距離だね」
「息」
サミルが繰り返した。
「うん。小さいものは、手より先に息で動くことがあるよ」
ククルーの声は軽い。けれど、その軽さで、全員の息が少し整った。
エレインは、月待ち布の折り端から、さらに細い糸くずを一本だけ取った。布をほどいたのではない。最初から端に残っていた余りだった。糸くずはあまりに細く、指で持つと消えたように見える。
「灯りにしない囲いを作れます」
「囲うのですか」
サミルの声が少し強くなった。
「閉じ込める囲いではありません」
エレインは糸くずを灯芯から離して置いた。近すぎれば、そこが境界になる。遠すぎれば、ただの糸になる。彼女は三度置き直し、四度目で手を止めた。
「ここまで息を近づけると、動くかもしれない。ここからなら、まだ見られる。その目印です」
ネフェルは星砂盤から、明るさに触れていない外側の砂をほんの少し取り、糸くずのさらに外へ散らした。線にはしない。輪にもならない。点がいくつか、低く散るだけだった。
「測る線にしないために、点のままにします」
サミルは筆箱へ目を落とした。
「書かなくても、覚えられますか」
旅人は、名前未満札の横にある白い紙片を見た。
「忘れるかもしれません」
サミルが顔を上げる。
旅人は続けた。
「だから、忘れないために全部書くのではなく、忘れそうな手をここへ置く」
サミルはその言葉を聞いて、筆箱のふたを閉じなかった。開けたまま、ふたの角を指で押さえた。書ける。けれど、今は書かない。忘れそうな手だけが、ふたの角に見える。
ルミエールの使いは、法典薄板を抱え直した。
「法典にも、灯りにしない囲いはありますか」
エレインは少し考えた。
「あります。けれど、法典の言葉で呼ぶと、今日の小灯より大きくなります」
「では、呼ばない」
「はい。呼ばずに、似た手だけ持っておきます」
その言い方で、使いの肩がわずかに下がった。法典の言葉を使わなくても、法典側の手がなくなるわけではない。守りたい手は、名前を借りなくてもそこにある。
小灯の周りには、火のない灯芯、月光の粉、星砂の粒、白い紙の端、細い糸くず、外側の砂点、名前未満札がある。
数えれば、道具が増えすぎているように見える。だが、それぞれは役を主張していない。どれも少しずつ足りない。足りないものが、足りないまま周りにいることで、小さな明るさは一つの説明にされずに済んでいた。
そこへ、サミルが小さな空の水差しを持ってきた。
水は入っていない。観測丘で使う水差しは、星砂を湿らせるためのものだ。湿らせれば、砂は動きにくくなる。動きにくくなれば、形を残しやすくなる。だが、今日の小灯の周りへ水を入れれば、足りないものを固めることになる。
サミルは水差しを持ったまま、立ち止まった。
「置かない方がよいですか」
ネフェルはすぐに答えなかった。エレインも答えない。ルミエールの使いは、法典薄板を少しだけ抱え直した。水差しはアルカディアの道具だ。けれど、置きたい手はアルカディアだけのものではなかった。形を残したい手は、どの大陸にもある。
旅人は水差しの口を見た。口の内側に、昨日の水の跡が薄く残っている。乾いて白くなった輪。水はないのに、水があったことだけが見える。
「水を入れない水差しなら、置けますか」
旅人が言うと、サミルは水差しを見下ろした。
「空のままですか」
「空のまま、湿らせたい手だけを置く」
サミルは、息を吐いた。ほっとしたというより、持っていた手が少し軽くなった息だった。
水差しは、小灯から離れた場所へ置かれた。近すぎれば、いずれ水を入れる約束に見える。遠すぎれば、関係のない道具になる。サミルは二度置き直し、最後には名前未満札からも、糸くずからも、星砂の点からも少し外れた場所へ置いた。
「空の水差し」
サミルが言いかけた。
ククルーが首を傾ける。
「名前を付けるには、まだ早そうだね」
サミルは口を閉じ、うなずいた。
名前を付けない水差しは、ただの水差しだった。けれど、ただの水差しがそこにあることで、湿らせたい手、固めたい手、形を残したい手が見える。小灯は、その手に触れられず、けれど見捨てられもせず、低い明るさのまま残った。
「小灯は、灯らないままでもよいのですか」
サミルが聞いた。
ネフェルは答えを急がなかった。
「今日、灯らないままで見られるなら」
エレインが続けた。
「明日、灯す必要があるかどうかを、また見られます」
ククルーは目を細めた。
「灯す日を残す。いい残し方だね」
旅人は、浅い連絡袋の口を少し閉じた。完全には閉じない。袋の中の軽い便札が、外の小灯と同じ話になりすぎないように、けれど、まったく関係ないものにもならないように。
小灯は、火を持たないまま、そこにあった。
それだけで、丘の上の誰もが少し静かになった。
祈りの小灯。名前ではなく、今だけの呼び方。呼び方であって、持ち主ではない。持ち主でなく、原因でもない。星図にない祈りを、星図の失敗にしないための、小さな灯り。
旅人は浅い連絡袋の口を少し閉じかけ、やめた。
袋は開いたままでよかった。閉じれば、今日置いたものを持ち帰る形になる。開けたままなら、丘に残すものと、次へ持つものが同じにならずに済む。
「法廷前へ持って行くものはありますか」
ルミエールの使いが聞いた。
法廷、という言葉が丘の上に置かれると、空気が少し硬くなった。裁く場所へ向かうのではない。けれど、法廷という言葉は、どうしても勝ち負けや証拠を呼びやすい。
エレインは銀の小筆をしまわなかった。しまえば、法典側の手を閉じたように見える。持ったままにもしなかった。持てば、書く準備をしているように見える。だから、筆を順番布の手前へ置いた。
「持って行くのではなく、休ませたまま見に行きます」
ネフェルは刷毛を星砂盤の縁へ残した。
「星図薄板も、今日は重ねません」
サミルは名前未満札を低い席の横へ残した。
「この札も、ここに」
ククルーは七枚目の席を見た。
「席も、空いたまま」
旅人は星砂盤の端の明るさを見た。
明るさは、まだそこにある。星図にない。法典にもない。けれど、なくされたわけではない。名前未満札が横にあり、祈りの小灯が手前にあり、低い観測席が空いたまま残っている。
見えないものを見落とした怖さは、消えていなかった。
むしろ、はっきりした。正確に測るほど、守ろうとするほど、その外へ出てしまうものがある。けれど、その怖さをすぐ誰かのせいにしなかったぶん、怖さは少しだけ、次に見られる形になった。
丘の下から、月光の石段へ続く細い道が見えた。
法廷前の観測台は、その途中にあるという。裁く前に、証拠にしたい手を休ませる台。勝ち負けへ進むためではなく、勝ち負けにしたくなる手を見落とさないための場所。
旅人は歩き出す前に、もう一度だけ星砂盤を見た。
星図にない祈りは、まだ星図にない。
それでよかった。
今日の仕事は、星図へ入れることでも、法典へ入れることでもなかった。
戻って測れる席を、空けたまま残すことだった。




