第14巻 ここが旅の始点だった 第8章 旅立った可能性
空席へ続く通路は、ほかの通路より少し明るかった。
明るいのに、近くならない。
歩いても歩いても、空席は同じ距離にあるように見えた。追いかけると遠くなり、立ち止まると少しだけ近くなる。
旅人は、そろえない返事布を両手で持っていた。
布の上の七枚の札は、歩くたびに小さく鳴る。
聞く前の白点。
流れて戻る線。
測る前の余白。
照らしすぎない角度。
残してほどく輪。
試す前の空き。
送る前の間。
一つずつ鳴る。
一緒には鳴らない。
それが今は、足取りを落ち着かせた。
ミャオリンは通路の壁を見ながら歩いている。
「空席って、情報としては困るにゃ」
「困るんですか」
リオが聞くと、ミャオリンはしっぽを左右に揺らした。
「席があると、だれが座ったか知りたくなるにゃ。だれも座ってないなら、なぜ席があるか知りたくなるにゃ。どっちも速い問いにゃ」
ククルーは封筒を抱え直した。
「速い問いは、席を椅子にしてしまうことがあるね」
「椅子に」
旅人は言葉を繰り返した。
席は、座るもの。
そう思うと、すぐに人を探したくなる。
でも、ここで見えた空席は、椅子ではなかった。誰かが座っていた証拠ではなく、返事が一度だけ形を作った跡に近い。
通路の先に、低い部屋が開けた。
部屋の中央には、何も置かれていない。
その何もない場所の周りに、細い線が半円を描いている。
半円は入口にも見えた。
見送りの場所にも見えた。
誰かが振り返らずに立った足もとにも見えた。
旅人は、息を止めそうになって、ゆっくり吐いた。
ここにも、言いたくなる手がある。
ここから旅立った、と言いたくなる手。
ここに旅人がいた、と言いたくなる手。
ここが始まりだった、と言いたくなる手。
そのどれも、まだ台に置かれていない。
塔守りの声が低く響いた。
「ここでは、可能性を座らせます」
「可能性を」
旅人は聞き返した。
「人を座らせるのではありません」
その声で、胸の奥の力が少し抜けた。
リオが、そろえない返事布の横に小さな白い布を広げた。
「可能性用ですか」
塔守りは答えた。
「置くなら、低く」
リオはうなずき、白い布を半円の手前に置いた。
布の名前は、まだない。
ミャオリンが空席のまわりをゆっくり歩いた。
「記録は少ないにゃ。でも、少ないからって何もないとは言えない」
「多く見えるから、分かるとも言えない」
旅人が続けると、ミャオリンは笑った。
「塔に慣れてきたにゃ」
ククルーは笑わなかった。
封筒の細い光を見つめている。
旅人は、その目を見て、聞きたい手が動くのを感じた。
ククルーは、この席を知っているのか。
この半円を見たことがあるのか。
ここで何かを閉じたのか。
その問いは、どれも高くなりそうだった。
旅人は、そろえない返事布の端を軽く握った。
七つの札が、別々に小さく鳴った。
一つの問いへ寄りすぎないように、布が手の中で教えてくれる。
「ククルー」
「うん」
「この席について、言えることだけでいいよ」
ククルーは、旅人を見た。
それから、半円を見た。
「言えることだけ」
「はい」
「言えないことは、今は席に座らせなくていいよ」
ククルーの耳が、少しだけ下がった。
でも、それは悲しみだけではなかった。
ほっとしたようにも見えた。
「ここには、出発に似た形があるね」
ククルーは言った。
旅人は、その言葉を待った。
似た形。
出発、ではない。
出発に似た形。
「見送りに似た形もあるね」
ククルーは続けた。
「戻れなかったものに似た形もあるね」
旅人はうなずいた。
三つを一つにしない。
出発。
見送り。
戻れなかったもの。
どれも、半円の周りに置ける。
どれか一つを選べば、席は椅子になってしまう。
リオが白い布に小さく書いた。
`旅立ちに似た空席`
布の端が低く光った。
その光は、部屋の中央ではなく、半円の外側を照らした。
「外側が光るんですね」
リオが言う。
塔守りの声が答えた。
「座ったかどうかではなく、見送った手を見るためです」
ミャオリンが静かに言った。
「見送った手、か」
ネオン雨の音が、どこか遠くで聞こえた。
塔の中なのに、雨が降っているようだった。
けれど、床は濡れない。
音だけが降る。
その雨音の中で、半円の向こうに影が立った。
人の影に見える。
けれど、振り向かない。
前に見た後ろ姿に似ていた。
でも、同じとは言えない。
影は、何かを持っているようにも見えた。
何も持っていないようにも見えた。
影の足もとに、小さな札が落ちているように見えた。
旅人は、近づきたくなった。
読みたくなった。
札に名前があるのではないか。
行き先があるのではないか。
ここからどこへ向かったか、書いてあるのではないか。
その手が動いた瞬間、そろえない返事布の七枚が、ばらばらに鳴った。
急がないで。
そう言われたわけではない。
でも、七つの返事が同じ音にならなかったことで、旅人の足は止まった。
ククルーが低く言った。
「近づけるとは限らないよ」
「近づかないほうがいいかな」
「近づきたい手を、先に置いてみよう」
旅人はうなずいた。
リオが新しい札を出す。
旅人はそこへ、自分で書いた。
`近づきたい手札`
札を白い布の端に置くと、影の足もとの小さな札は、少しだけ薄くなった。
消えたのではない。
見えすぎなくなった。
ミャオリンが息を吐いた。
「見えすぎる札は、危ないにゃ。読めた気にさせる」
「読めた気になると、何が起きますか」
リオが聞いた。
「送っていい範囲を決めた気になるにゃ」
ククルーが続けた。
「戻れないものを、戻さなければならないものにしてしまうこともあるんだ」
戻れない。
その言葉で、部屋の奥の雨音が少し低くなった。
旅人は、半円の向こうを見た。
影はまだ振り向かない。
足もとの札は見えにくくなった。
それでも、そこに何かあるように思える。
旅人は、今度は聞き方を変えた。
「戻れなかったものが、ここにあるかもしれない」
塔守りの声が響いた。
「あります、とは言いません」
「ありません、とも」
「言いません」
旅人はうなずいた。
「戻れなかったかもしれないもの」
ククルーが、その言葉を聞いて目を伏せた。
リオは白い布の反対側に札を置いた。
`戻れなかったかもしれない札`
札は強く光らなかった。
むしろ、周りの光を少し下げた。
それで、影が見えやすくなるのではなく、影を見つめすぎないですむようになった。
ミャオリンが小さくうなずいた。
「いい低さにゃ」
旅人は、半円の部屋を見渡した。
ここには、旅立った可能性がある。
でも、旅立った人を決める場所ではない。
ここには、見送った可能性がある。
でも、見送った人を責める場所ではない。
ここには、戻れなかった可能性がある。
でも、戻すべきものを命じる場所ではない。
三つは、白い布の上で少し離れて置かれている。
旅立ちに似た空席。
近づきたい手札。
戻れなかったかもしれない札。
そろえない返事布は、その横で静かに鳴っている。
ククルーが、封筒を布ごと白い布のそばへ近づけた。
置かない。
近づけるだけ。
封筒の細い光が、半円の外側を照らした。
そこに、小さな足あとに似た点が三つ現れた。
三つの点は、外へ向かっているようにも見える。
内へ戻ろうとしているようにも見える。
ただの雨粒にも見える。
旅人は、名前をつけなかった。
リオも、すぐには札を書かなかった。
ミャオリンも、情報として扱わなかった。
沈黙の中で、塔守りが言った。
「可能性は、急ぐと証明になります」
「証明になると」
旅人は聞いた。
「席が閉じます」
旅人は、白い布の三つの札を見た。
席を閉じない。
それが、ここでできることだった。
半円の縁に、薄い指板が置かれていた。
指を置くための板なのに、縁をなぞるには少し短い。半円を一周できない長さだった。
旅人は手を伸ばしかけて、止めた。
一周できないなら、どこまで触れてよいかを決めたくなる。
どこまで触れたかを決めれば、どこから先が分からないかも決めたくなる。
ククルーがそっと言った。
「なぞらないための板かもしれないね」
リオは、板の横に札を置いた。
`空席の縁をなぞらない指板`
指板は、半円の端を隠さなかった。
ただ、手が一周した気になる前に止まれる場所を作った。
旅人は指板に指を置いた。
半円の縁は、少し冷たい。
でも、その冷たさは拒む冷たさではない。まだ席の形を最後まで手で追わなくていい、という冷たさだった。
旅人の指が止まると、半円の向こうで雨音が一拍だけ遅れた。
戻れなかったかもしれない。
そう言った時、胸の奥に息が足りなくなったことを、旅人は思い出した。
リオが、浅い息を一つ吐いた。
「戻れなかったかもしれない、って言うと、息が短くなります」
ミャオリンがうなずく。
「情報屋も、その言葉は急いで送ると詰まるにゃ」
ククルーは封筒を抱え直した。
「息継ぎを置こう」
リオは白い布のそばに、小さな半透明の札を置いた。
`戻れなかったかもしれない息継ぎ`
札は、戻れなかったかもしれない札の上に重ならなかった。
少し離れたところで、言葉と息の間を作った。
旅人はそこで、もう一度ゆっくり息をした。
可能性を持つためには、息継ぎも必要だった。
旅人は、そろえない返事布を白い布の端へ少し重ねた。
七つの返事は、旅立ちに似た空席を一つの答えにしなかった。
ただ、席のまわりに七つの低さを置いた。
その時、半円の向こうの影が、ほんの少しだけ薄くなった。
振り向いたのではない。
消えたのでもない。
見えすぎなくなった。
旅人は、少し寂しいと思った。
でも、その寂しさは、失ったと決める寂しさではなかった。
急いでつかまえなかったことで、席が残る寂しさだった。
ククルーが低く言った。
「残っているね」
「はい」
旅人は答えた。
「まだ決めないまま、残せました」
ミャオリンがしっぽをゆっくり振った。
「次は、空白が消えない理由を見ることになりそうにゃ」
リオが白い布をたたまず、端を持ち上げた。
「これは持っていきますか」
旅人はうなずいた。
「持っていきます。席を閉じないように」
ただ、たたむと、三つの札が重なりそうだった。
旅立ちに似た空席。
近づきたい手札。
戻れなかったかもしれない札。
その上に、息継ぎの札と指板もある。
どれかを内側に入れると、持ちやすくなる。
でも、持ちやすくするほど、席が包みの中で椅子になってしまいそうだった。
ミャオリンが、細い平たい包みを出した。
包みと言っても、袋ではない。上下を閉じず、横だけに低い支えがある板のようなものだった。
「席のまま運ぶ包みにゃ」
「包むのに、閉じないんですか」
リオが目を丸くする。
「閉じたら、席じゃなくて荷物にゃ」
ミャオリンはそう言って、白い布を包みの上へ滑らせた。
布はたたまれない。
半円の向きも変わらない。
ただ、持ち上げても端が落ちないように、左右だけが支えられた。
リオが札を書いた。
`席のまま運ぶ包み`
旅人はその包みを両手で受け取った。
重くはない。
でも、軽いとも言いにくい。
席を閉じないまま持つ重さがあった。
リオは布の端に、最後の札を添えた。
`席を閉じない布`
旅人は、そろえない返事布と席を閉じない布を、重ねずに持った。
二枚の布は似ている。
でも、同じではない。
七つの返事をそろえない布。
旅立った可能性を閉じない布。
どちらも、答えではないものを持っていくための布だった。
ミャオリンは、席のまま運ぶ包みの底を指で軽く叩いた。
「底も大事にゃ」
「落とさないためですか」
「落とさないためだけなら、深い箱にすればいいにゃ。でも深い箱にすると、席の向きが分からなくなるにゃ」
リオが包みの底をのぞき込んだ。
底は平らではない。ごく薄い段差があり、半円の向きを変えずに支えるようになっている。
「空席の向きを変えない底板」
旅人が言うと、リオが札を書いた。
`空席の向きを変えない底板`
底板は、席を固定しなかった。
ただ、持ち上げた人の都合で向きを変えないよう、足もとに小さな覚えを置いた。
旅人は、空席を運ぶとは、空席を自分の話へ向け直すことではないのだと思った。
どこから見れば分かるか。
誰の席だったか。
どちらへ旅立ったか。
そう聞きたくなる手はある。
でも、底板があると、その手は少しだけ止まる。
向きを変えないまま運ぶ。
向きを変えないから、分からないままの白さが残る。
ククルーが、席を閉じない布の端を見た。
「向きを変えないことは、冷たいことじゃないよ」
旅人はその言葉を、空席の横へ置いた。
言葉にしすぎないよう、札にはしなかった。
ミャオリンは、包みの左右の支えを少しだけ広げた。
「持つ人が変わると、席の向きも変わりそうになるにゃ」
「変わらないように固定しますか」
「固定すると、今度は動けなくなるにゃ」
リオは、底板の横へ細い滑り布を敷いた。
「向きを変えずに、手だけを変える布です」
`手だけ変える滑り布`
滑り布は、空席を滑らせなかった。
ただ、持つ手が替わる時に、席の向きを変えずに済む小さな余裕を作った。
旅人は、空席を持つことが、一人で抱えることではないのだと分かった。
でも、誰かへ渡すことも、答えにすることではない。
向きを変えず、手だけ替えられる。
その余裕が、次の白さへ進む足もとを少し軽くした。
旅人は、滑り布の端を見た。
布は薄い。
薄いから、いつの間にか席を動かしてしまいそうにも見える。
けれど、動かすためではない。
動かした気にならないために、そこにある。
空席は、誰かが座っていた証明にならない。
誰もいなかった証明にもならない。
それでも、持つ手が替わる時には、どうしても物のように扱いたくなる。
リオは、滑り布の横へ小さな札をもう一枚置いた。
`渡した気にならない端`
「渡した気にならない」
旅人が読むと、リオはうなずいた。
「手だけ変わると、もう渡したと思いたくなるね。でも、空席は渡し終えるものじゃないよ」
ククルーが、席を閉じない布を見た。
「持つ人が変わっても、聞くことは終わらないよ」
旅人は、その言葉を札にしなかった。
札にすると、持つ人を決めたように見える。
だから、言葉は空席のそばで低く残した。
ミャオリンは、包みの左右を支え直した。
「終わらないものを持つ時は、手も疲れるにゃ」
旅人は笑った。
疲れていい。
疲れたら、持ち替えればいい。
ただし、席の向きは変えない。
部屋を出る前に、旅人はもう一度だけ半円を振り返った。
そこから旅立ったのかもしれない。
そこへ戻れなかったのかもしれない。
そこには、見送った手があったのかもしれない。
でも今日は、そのどれも選ばない。
選ばないことで、空席は空席のまま残った。
空席が残ったから、次の空白を消さずに見られる気がした。




