第11巻 歯車街の未完成式 第11章 歯車街の未完成式
朝の歯車街は、まだ発表会の音を出していなかった。
いつもなら、早く目を覚ました発明が、どこかで小さな鈴を鳴らす。湯気を混ぜる羽根が、眠そうな台所からくるくると回り出す。配達台車の車輪が、まだ荷物を載せていないのに、板の上で半歩だけ前へ出る。小窓は、風が来る前に少し開き、伝声管は、誰かが呼ぶ前に口を丸くする。
けれど、その朝は違った。
音がないのではない。
音が、低く置かれていた。
入口掲示板の前には、昨日までの札が、まだ外されずに並んでいた。
`そばで見る`
`中へ入ったことにしない`
`できたことにしない`
`置くことも急ぐ`
`熱は消さない`
その端に、夜のうちに誰かが新しい札を足していた。
`試す場所を先に作る`
字は少し斜めだった。ネジリの字に似ていた。
ククルーは札の前でひげを揺らした。
「おや。朝からいい字だね。少し走っているよ」
ネジリは、後ろから慌てて出てきた。
「走っていません」
「字が、だよ」
「字も、そんなには」
ネジリは自分の札を見て、肩を落とした。
「……少しだけ、走りました」
旅人は笑いそうになって、白い仮置き札の上に手を重ねた。笑うことも、すぐに発表したくなる。ネジリをからかうためではなく、ほっとしたから出る笑いでも、急ぐ時がある。
ピペット教授は、低い研究棟の扉を開けた。
今日は、扉の内側に布がかかっていない。
未完成式を隠すためではなく、見える範囲を小さくするための布は、部屋の奥で畳まれていた。そのかわり、床に大きな丸が四つ描かれている。
一つ目の丸には、白い布が敷かれていた。
`触れる前`
二つ目の丸には、細い青い紙が何枚も置かれていた。
`そば`
三つ目の丸には、低い台があった。風あと台と熱あと台を、横に並べず、少し離して置いてある。
`通ったあと`
四つ目の丸には、何も置かれていない。
ただ、床の板が少し広く空けられていた。
`まだ置かない`
旅人は、最後の丸の前で足を止めた。
何も置いていない場所に、札だけがある。
置かないことを決めた場所。
置き忘れた場所ではない。
「今日の試し場です」
教授は言った。
「未完成式は、あちらにあります」
部屋の奥の白い布の上に、式はまだ置かれていた。細い歯車、曲がりかけた金属線、途中で止まった硝子管、光を受けると少しだけ青くなる板。どれも昨日と同じように見える。
けれど、昨日よりも静かだった。
静かになったのではない。
静かに置かれていた。
「式をここへ持ってくるのですか」
ネジリが聞いた。
教授は首を振った。
「いいえ。式は奥のままです」
「では、試し場を式へ寄せるのですか」
「それもしません」
ネジリの羽根が、少し落ちた。
「では、どうやって試すのですか」
教授は、床の四つの丸を指した。
「式を街へ持ち出さない。街を式へ押し込まない。その間に、試せる場所を作ります」
ククルーは、しっぽをゆっくり巻いた。
「間に置く。机の端に置いたお茶菓子みたいだね」
「お茶菓子ではありません」
ネジリが言った。
「ですが、中央へ置くと、すぐなくなります」
ククルーはまじめな顔で言った。
ネジリは返事に困り、教授は小さく笑った。
旅人は、四つの丸をもう一度見た。
触れる前。
そば。
通ったあと。
まだ置かない。
昨日までに作ってきたものは、全部どこかへ置けそうだった。待つ針の包みは、触れる前。熱が触れたがる試し紙は、そば。風あと台と熱あと台は、通ったあと。まだ言えない大きな仮説は、まだ置かない。
けれど、置けそうだと思った瞬間に、旅人は手を止めた。
置けそう、は、置いていい、ではない。
教授も同じことを考えたように、旅人の手元を見た。
「今日は、最初に決めます。どの丸にも、全部は置きません」
ネジリが目を上げる。
「全部持ってきたのに?」
「全部持ってきたからです」
教授は、机の上に小さな木箱を三つ置いた。
一つには、赤い糸。
一つには、三つの木片。
一つには、湯気の紙帯。
それから、別の包みを開いた。
待つ針の包み。
昨日の試し紙。
鳴らない風重し。
祝福を見る三枚の薄板。
仮説を置く棚から外した、細い棚札。
どれも、役に立ちそうだった。
役に立ちそうだから、危ない。
旅人はそう思った。
「今日は、道具の会議ではありません」
教授は言った。
「道具の会議をすると、道具が自分の意見を言っているように見えます」
ネジリが首をかしげる。
「道具は、言いません」
「言いません。けれど、使いたい手は、道具の声に聞こえる時があります」
ククルーがうなずいた。
「この風重しが、ぼくを使いなさい、と言った気がしました」
「言っていません」
「ええ。言った気がしただけです」
ネジリは、風重しを見た。
小さな重しは、今日も鳴らない。
鳴らないから、えらいわけではない。
鳴らないまま、そこにいる。
最初に入ってきたのは、配達台車を作った職人だった。腕に赤い糸を巻いている。台車そのものは持ってきていない。
「台車を連れてこなくてよかったのですか」
ネジリが聞いた。
職人は首を横に振った。
「連れてくると、走らせたくなるので」
その声は、少し照れていた。
「今日は、糸だけです」
教授は赤い糸を受け取り、一つ目の丸にも二つ目の丸にも置かなかった。白い布の外側に、糸の端だけを少し出す。
「これは、台車のかわりではありません」
「はい」
「台車の気持ちでもありません」
「はい」
「半歩先へ行きたくなる手の、端です」
職人は、ゆっくりうなずいた。
「端なら、置けます」
次に来たのは、伝声管を直していた親子だった。子どもは、三つの木片を小さな袋に入れて持っている。
「今日は、返事しません」
子どもが先に言った。
ククルーは目を細めた。
「それは、返事をしないという返事ですか」
子どもは口を開け、閉じた。
「……そうかもしれません」
親が笑いかけて、すぐに笑いを小さくした。
「笑っていいところと、笑いで急がせるところがあるんですね」
教授は、三つの木片を受け取った。
「あります。今日は、三つとも同じ返事にしません」
木片は、二つ目の丸の外側に並べられた。試し紙の上ではない。紙のそばでもない。紙が触れたがる場所を見る前に、木片を木片として休ませる。
最後に、小窓の修理をしていた老人が来た。湯気の紙帯を二本、平たい箱に入れている。
「窓は持ってこないよ」
老人は言った。
「窓を持ってくると、外がないのに開けたくなる」
教授は深くうなずいた。
「では、紙帯だけを置きます」
「紙帯も、開きたがるかもしれん」
「その時は、開きたがる紙帯として見ます。窓のかわりにはしません」
老人は安心したように息を吐いた。
三つの街の手元が、研究棟の床に置かれた。
発明品は来ていない。
けれど、発明した人の手は、少しずつ来ていた。
ネジリは、その様子を見ながら、何度も未完成式の方を見た。
式は白い布の上で、静かに青くなる。
青くなるたび、ネジリの指が動いた。
つなぎたい。
確かめたい。
少しだけなら、当ててもいいのではないか。
旅人にも、その気持ちは分かった。
熱がどこへ行きたいか、昨日は少し見えた。風が通ったあとも、少し見えた。ならば今日、赤い糸と試し紙を近づければ、何かが見えるかもしれない。
何かが見える。
その言葉は、とても明るい。
明るすぎる。
旅人は、待つ針の包みを開き、まだ鳴らない針を布ごと床へ置いた。
触れる前の丸。
その中央ではなく、端。
からん、とは鳴らなかった。
から、とも言わなかった。
ただ、布の中で小さな硬さが休んだ。
「それは、何の役ですか」
ネジリが聞いた。
旅人は少し考えた。
役。
何かに役目を与えた瞬間、道具は働き始める。
「役にしないために、置いた」
旅人は答えた。
ネジリは目を丸くした。
「役にしないため」
「うん。触る前に、手が役を決めたがるから」
教授は静かにうなずいた。
「今日の一つ目の試しは、それにしましょう」
ネジリが慌てる。
「え、もう試しですか」
「はい。道具を動かす前に、手が役を決めたがるかを見る試しです」
ククルーは楽しそうに目を細めた。
「地味ですが、とても忙しい試しです」
試し場の空気が、少し変わった。
何かを動かすことが試しではない。
動かす前に、手が何をしたがるかを見ることも、試しだった。
教授は細い板を一枚取り出した。
板には何も書いていない。
「空走りの板です」
「走るのですか」
ネジリがすぐに聞いた。
「走りません」
「では、なぜ空走り」
「走らせたくなる手を見るためです」
教授は板を、赤い糸の近くへ置いた。触れさせない。糸の端から指二本分、離す。
それから、試し紙を一枚、板の向こう側へ置いた。
青い紙は、しばらく何も示さなかった。
部屋の中で、蒸気管の低い音がする。
遠くでギアロートの蒸気が上がる拍が、一つ遅れて聞こえた。
ネジリは、息を止めている。
子どもも、職人も、老人も、同じように息を小さくしている。
すると、青い紙の端に、薄い線が出た。
赤い糸へ向かう線ではない。
未完成式へ向かう線でもない。
空走りの板の、何も書かれていない角へ、ほんの少しだけ曇りが寄った。
「板です」
ネジリが言った。
すぐに口を押さえる。
「板へ熱が触れたがっているように見えます」
教授は、うなずいた。
「はい。ですが、まだ板が必要とは言いません」
「必要とは言わない」
「言いません。何も書いていない場所にも、手が先に走ることがある。今日はそれを見ました」
職人が赤い糸を見た。
「台車の半歩と、似ている」
教授は、その言葉をすぐには受け取らなかった。
「似ている、と置きましょう。同じとは置きません」
職人は、自分で札を取った。
`似ている`
その下に、もう一枚足す。
`同じではない`
二枚の札は、赤い糸のそばに置かれた。
旅人は、胸の奥の熱が少し下がるのを感じた。
似ている、と言える。
同じではない、とも言える。
どちらか一つにしなくていい。
二つ目の試しは、伝声管の木片だった。
教授は三つの木片を丸く並べなかった。一直線にも並べなかった。
一つは、触れる前の白布の端。
一つは、そばの青い紙から少し離した場所。
一つは、まだ置かない丸の、さらに外側。
子どもが不安そうに見た。
「一つ、仲間はずれですか」
教授は首を振った。
「いいえ。返事をまだ聞かない場所です」
「聞かないのに、置くのですか」
「置きます。聞かないことと、いないことは違います」
子どもは、ゆっくりとその言葉を繰り返した。
「聞かないことと、いないことは違う」
ククルーが、そっと言った。
「返事を待つ時に、大事な言葉だね」
旅人は、ノスタルジアの駅を思い出した。
待つ人。
聞ける場所。
持ち帰らない声。
ここは歯車街で、そこは黄昏駅ではない。けれど、待つ手の形は、少しだけ似ている。
似ている。
同じではない。
旅人は、その二枚の札を目で確かめた。
教授は、木片の間に小さな硝子の管を置いた。伝声管ではない。声を通すための管でもない。中は空で、端に薄い布がかかっている。
「声の前の管です」
ネジリが今度は何も言わなかった。
言いたそうな顔だけをした。
教授は、青い試し紙を管の横へ置く。
しばらく、何も起きない。
何も起きない時間が、前よりも長く感じた。
ネジリの手が、膝の上で何度も開いて閉じる。
子どもは、木片を見つめる。
親は、子どもの肩に手を置きかけて、置かなかった。置きたい手を、宙で止めたのではない。自分の膝へ戻した。
薄い青い紙に、今度は丸い曇りが出た。
管の口ではない。
三つ目の木片、まだ聞かない場所の外側に、小さな丸が出た。
「外です」
子どもが言った。
今度は、言い直さなかった。
教授も、すぐには直さなかった。
「はい。外に、丸く見えます」
「返事は、外にあるのですか」
「それは、まだ言えません」
子どもは少し困った顔をした。
「でも、外に丸が出ました」
「出ました。だから、返事は中にある、と決めなくてよくなりました」
子どもの表情が、少し変わった。
「中じゃないかもしれない」
「はい」
「外だ、と決めなくてもいい」
「はい」
子どもは、木片の袋を胸に抱いた。
「それなら、待てます」
伝声管の親は、小さく息を吐いた。
「待つことが、何もしないことじゃないなら」
教授は、三つ目の木片の外に札を置いた。
`聞かない場所も置く`
その札は、未完成式から遠い。
遠いから、関係ないわけではない。
遠いまま、見える。
三つ目の試しは、湯気の紙帯だった。
老人は紙帯を箱から出す前に、指を止めた。
「これを出すと、開くかもしれん」
教授はうなずいた。
「開いたら、開いたところまで見ます」
「閉じたら」
「閉じたところまで見ます」
「どちらがよい」
「どちらも、今日の返事です」
老人は笑った。
「便利な言い方だ」
「便利すぎたら、棚に置きます」
教授が真面目に言うので、老人はまた笑った。
湯気の紙帯は、箱から出されると、少しだけ丸まった。開きたがるのでも、閉じたがるのでもない。端が自分の影を見ようとしているような丸まり方だった。
ククルーは、鼻先を近づけすぎない距離で言った。
「紙帯にも、朝の寝ぐせがあるね」
「寝ぐせではありません」
ネジリが言いかけて、紙帯をもう一度見た。
「……寝ぐせみたいに見えます」
「みたいに見える、は使えます」
教授が言った。
紙帯は、そばの丸には入れなかった。通ったあとの丸にも入れなかった。四つ目の、まだ置かない丸の外側に置く。
「まだ置かない場所に置くのですか」
ネジリが聞いた。
教授は首を振る。
「まだ置かない場所の、外です」
「むずかしいです」
「はい。むずかしいままにします」
教授は、紙帯のそばに試し紙を置かなかった。かわりに、祝福を見る三枚の薄板のうち、一枚を遠くへ置いた。
青い灯りはつかない。
薄板は、ただ薄板のまま光を受けている。
しばらくして、未完成式の白い布の端が、少しだけ波打った。
誰も触れていない。
蒸気も直接当たっていない。
けれど、白い布の端が、紙帯の丸まりと同じ拍で、ほんの少し上がって下りた。
ネジリが立ち上がりかけた。
「つながっ」
そこで止まった。
つながった。
と言いたかった言葉を、手で受け止めるように胸の前へ置く。
「同じ拍に見えました」
教授は、ゆっくりうなずいた。
「はい。同じ拍に見えました」
「つながったとは」
「言いません」
「でも、同じ拍に見えたことは」
「消しません」
ネジリは、立ち上がりかけた膝を静かに戻した。
「消さないけれど、つながったとは言わない」
「はい」
老人は紙帯を見て、目を細めた。
「窓も、同じことがあった。外の風と同じ拍に見えたから、開けてよいと思った」
「それで、早く開いた」
「ああ。でも、同じ拍だったから悪い、ではないんだな」
「はい。同じ拍が見えた日は、同じ拍を置きます」
教授は、新しい札を作った。
`同じ拍に見えた`
その札は、白い布と紙帯の間に置かれた。線を引くかわりに、札を置く。
線を引くと、つなげたくなる。
札なら、間に立てる。
昼近くになると、研究棟の外に人が増えた。
発表を待つ人ではない。
心配してのぞく人でもない。
自分の小さな発明が、どこに置かれるのか見に来た人たちだった。
「入ってもよいですか」
入口で誰かが聞いた。
教授は、すぐには返事をしなかった。
研究棟の床を見る。
四つの丸。
置かれた素材。
置かない場所。
人が入ると、その人の期待も入る。
入れないと、その人の手元は外に残る。
どちらも、熱を持つ。
旅人は、入口へ行った。
「少しずつなら」
自分で言ってから、白い仮置き札に手を置く。
「少しずつ、という言葉も急ぐかもしれない」
ククルーが隣に来た。
「それじゃ、足元だけ先に入る、というのはどうかな」
入口の人が、きょとんとした。
「足元だけ?」
「はい。気持ちは外で一休み。足元だけ、線の手前まで」
冗談のようで、冗談だけではなかった。
教授は入口に細い紐を張った。紐の手前に、見学する人の足元だけが並ぶ。部屋の中へ大きな声や期待を運び込まないために、紐の手前で一度止まる。
`足元だけ入る`
札が増えた。
ネジリはそれを書きながら、少し笑った。
「変な札ばかり増えます」
「変な札は、急がない時に居場所ができるね」
ククルーが言った。
午後、ギアロートの蒸気の拍が変わった。
研究棟の窓が、白く曇る。
曇りはすぐに晴れず、窓の上で小さく横へ流れた。
樹守りが入口に来た。白い石の輪から外したものは持っていない。ただ、蒸気見送り水皿に浮かんだ小さな波の写しを、薄い硝子板に写して持っている。
「輪の中へは入りません」
樹守りは最初に言った。
「根も見ません。今日見たのは、外の水皿だけです」
教授は硝子板を受け取った。
「ありがとうございます」
ネジリは、息をのんだ。
ギアロートの蒸気の写し。
未完成式。
熱あと台。
風あと台。
それらが同じ部屋にある。
大きな仮説が、部屋の天井近くまで膨らみそうだった。
旅人も、その膨らみを感じた。
全部つながっているのではないか。
ギアロートの蒸気が乱れたから、式が熱を持ち、式が熱を持つから、小発明が早く動き、祝福が完成印に見え、風が通る場所が変わったのではないか。
そう言えば、部屋のすべてが一つにまとまる。
まとまると、安心できる。
安心は明るい。
明るすぎる。
旅人は、まだ置かない丸を見た。
何も置かれていない広い場所。
そこへ、今の大きな仮説を置きたくなった。
でも、置いた瞬間、その丸は「大きな仮説の置き場」になってしまう。
まだ置かない場所ではなくなる。
旅人は、手を胸の前で止めた。
ククルーが、小さく言った。
「持っている手も、見えているね」
旅人はうなずいた。
置かない。
でも、持っていることは隠さない。
教授は、硝子板をどの丸にも入れなかった。四つの丸のさらに外側、入口の紐の近くに置く。
ネジリが驚いた。
「遠すぎませんか」
「遠いです」
「ギアロートのものなのに」
「だからです」
教授は、硝子板に布を半分かけた。
「大きなものほど、近くへ置くと、部屋のすべてを自分の説明にしてしまいます」
樹守りは、静かにうなずいた。
「ギアロートも、説明にされると熱を持つ」
その言葉で、研究棟の中が少し静かになった。
ギアロートは街を支えている。
でも、何もかもをギアロートのせいにすれば、街はすぐに安心できる。
ギアロートのおかげにすれば、街はすぐに誇れる。
どちらも、速い。
教授は札を書いた。
`大きなものは遠くに置く`
ネジリが小さく読んだ。
「大きなものは、遠くに」
それから、自分の胸を押さえた。
「大きく言いたいことも」
教授は、嬉しそうにしすぎない顔でうなずいた。
「はい。大きく言いたいことも」
未完成式が、その時、初めて音を出した。
ちり。
小さな音だった。
歯車が回った音ではない。
硝子管が鳴った音でもない。
白い布の下で、熱が端へ触れたような音。
ちり。
もう一度。
ネジリの体が動いた。
今度は、誰も止めなかった。
ネジリは一歩だけ前へ出て、触れる前の丸の端で止まった。
自分で止まった。
「触りません」
声が少し震えていた。
「触らないけれど、聞きます」
教授は言った。
「はい」
ネジリは膝をついた。
旅人も、少し離れた場所に座る。
ククルーは、しっぽを足の横に置く。
職人も、子どもも、老人も、入口の紐の向こうで足元をそろえる。
ちり。
未完成式は、三度目の音を出した。
その音に合わせて、赤い糸の端が少しだけ浮いた。
三つの木片のうち、まだ聞かない場所に置いた木片が、ほんの少し影を伸ばした。
湯気の紙帯は、丸まりを深くしなかった。ただ、端の影を自分の方へ戻した。
青い試し紙は、薄く曇った。
風重しは、鳴らない。
祝福の薄板は、光らない。
光らないのに、部屋の中で、何かが見える。
旅人は息を吸った。
「未完成式が、みんなを動かしている」
言いかけて、止まる。
それでは大きすぎる。
でも、何も言わないと、見えたものが消えた気がする。
旅人は言い直した。
「未完成式の音と同じ時に、いくつかの端が動いたように見える」
教授は、深くうなずいた。
「はい」
ネジリが、泣きそうな顔で笑った。
「長いです」
「長いですね」
教授は言った。
「でも、今日はその長さが必要です」
ククルーが、そっと付け足した。
「短い言葉は、時々、とても速い乗り物になるね」
ネジリは涙をこぼさなかった。
かわりに、札を書いた。
`同じ時に、いくつかの端が動いたように見える`
とても長い札だった。
字は途中で小さくなり、最後の `見える` は端ぎりぎりに収まった。
ククルーが札をのぞいた。
「小さい字も、ここまで残っているね」
ネジリは少し笑った。
「札が長いです」
「長くていい札もあります」
教授は、その札を中央に置かなかった。
四つの丸の間。
どの丸にも入らない、細い通路のような床に置いた。
「ここです」
旅人はその場所を見た。
触れる前ではない。
そばではない。
通ったあとでもない。
まだ置かない場所でもない。
それらの間。
試し場の中に、さらに小さな間ができた。
「未完成のまま試せる場所」
旅人は、声に出して言った。
教授はすぐには答えなかった。
言葉が大きくなりすぎないように、少し待つ。
それから言った。
「はい。今日、ここまでなら、そう呼べます」
ネジリが、床の細い通路を見つめた。
「ここは、式ではない」
「はい」
「街でもない」
「はい」
「答えでもない」
「はい」
「でも、見えたものを置ける」
「はい」
ネジリは、長い札の横に、もう一枚、小さな札を置いた。
`未完成のまま`
その札を見た瞬間、部屋の中の空気が変わった。
完成していないから、隠す。
完成していないから、急ぐ。
完成していないから、誰かのせいにする。
そういう手が、少しだけ床へ降りた。
降りただけで、消えたわけではない。
消えなくていい。
そこにあると分かるだけで、手は少し冷える。
教授は、未完成式の白い布へ近づいた。
ネジリが息を止める。
教授は式には触れなかった。
白い布の端に、今日の日付を書いた小さな札を置く。
`試せる場所ができた日`
それだけだった。
「完成した日ではありません」
教授は言った。
「修理した日でもありません」
ネジリが続けた。
「原因が分かった日でもありません」
子どもが入口から言った。
「返事が来た日でも、まだない」
職人が赤い糸を見て言う。
「台車を走らせてよい日でもない」
老人が紙帯の箱を閉じながら言う。
「窓を開け放つ日でもない」
樹守りは、硝子板にかけた布を直した。
「ギアロートを説明にする日でもない」
ククルーは、最後にしっぽを揺らした。
「それじゃ、今日は何の日かな」
旅人は、床の細い通路を見た。
長い札。
小さな札。
四つの丸。
遠くに置かれた硝子板。
入口に並ぶ足元。
式のそばではなく、式と街の間にできた場所。
「未完成のまま、もう一度見られる日」
旅人が言うと、誰もすぐには拍手をしなかった。
拍手をすると、終わったように聞こえるから。
かわりに、研究棟の外で、蒸気が一つ、低く抜けた。
ふく。
それは、ギアロートの返事ではない。
歯車街の結論でもない。
ただ、熱を持った空気が、行ける場所を見つけたような音だった。
夕方、試し場は片づけられなかった。
片づけないことと、放っておくことは違う。
教授は四つの丸の周りに低い柵を置き、入口に札をかけた。
`明日も見る場所`
ネジリは、その下に小さく書き足した。
`できたことにしない`
旅人は、待つ針の包みを持ち上げた。
今度は、からん、と鳴った。
とても小さい。
でも、昨日よりも冷たい音ではなかった。
からん。
試す前に置いた音。
冷めたから終わった音ではなく、もう一度見られる温度へ戻った音。
ククルーは、旅人の手元を見た。
「持っていきますか」
旅人は少し考えた。
持っていくもの。
置いていくもの。
借りるもの。
返すもの。
今日は、その全部を一つにしなくていい。
「持っていく。でも、答えとしては持っていかない」
「それじゃ、旅の荷物として」
「うん。試し場を覚えている荷物として」
教授は、窓の外を見た。
遠くの空に、飛空艇の影があった。
今日は前よりも、少し低く見えた。
けれど、研究棟の誰も、そこへ走り出さなかった。
速く乗るためではない。
確かめずに飛ぶためでもない。
空へ出る前に、仮説を冷ます場所が、今ここにできたばかりだった。
ネジリは飛空艇の影を見て、手を上げかけた。
それから、手を下ろす。
「明日は、空へ行く準備ですか」
教授は答えた。
「空へ行く前の準備です」
「また、前の前です」
「はい。前の前があると、速いものに乗っても、手が少し遅くなれます」
ククルーが静かに目を細めた。
「手が少し遅くなれる旅。急ぐ前に息が入る響きだね」
旅人は、飛空艇の影を見た。
影は、空の端をゆっくり横切った。
歯車街の未完成式は、まだ完成していない。
完成していないまま、隠されてもいない。
白い布の奥で、式は静かに青くなる。
その青は、勝ち誇る光ではなかった。
責められて縮む光でもなかった。
まだ試せる場所があると知ったものの、細い明かりだった。




