第2巻 名前のない託宣 プロローグ 三つの名なし点
朝は、音より先に湿り気で来た。
目を開ける前から、苔の根元が少し温かいと分かった。夜のあいだ背中を支えてくれていた乾いた苔は、いつの間にか細かな露を抱き、外套の裾に小さな粒を並べている。粒は光っていない。ただ、光る準備をしているように、白い霧の中でじっと丸くなっていた。
僕はすぐには起き上がらなかった。
胸の上に置いたクロニクルブックが、昨日より少し重い。中身が増えたわけではない。名前も、持ち主欄も、まだ空白のままだ。けれど本の奥で、三つの点がそれぞれ別の眠り方をしている気がした。
水滴。
閉じかけた輪。
曖昧な灯り。
昨夜、地図の余白に浮かんだ三つの印だ。名前ではない。行き先とも言い切れない。けれど、完全な白紙ではなくなった。目を閉じていても、その三つだけは胸の内側に薄く残っている。
順番をつけたくなる。
水滴が先。輪が次。灯りが最後。
そう並べるだけなら、何も悪いことはないのかもしれない。旅には道順がいる。道順がなければ、足はどちらへ出ればいいか分からない。けれど、ミセリで見たものが、まだ手首の胞子膜の紐に残っていた。聞こえたこと。聞こえなかったこと。まだ置くこと。
まだ置くことに、順番をつけてもいいのだろうか。
考えた瞬間、クロニクルブックの表紙がかすかに温かくなった。
僕は息を止めた。
温かさは強くない。誰かに呼ばれたというより、遠くで誰かが息を吸った気配に似ている。ページを開くべきか迷っていると、足元の苔が短く三つ光った。
そのあと、少し遅れて、長く一つ。
ミセリで覚えた拍だ。短く三つ、長く一つ。集落の胞子灯が、もう遠くなったはずなのに、ここまで細い返事を伸ばしてくれている。
「起きているなら、寝たふりの見分けは少し厳しくなるよ」
根元の向こうからククルーの声がした。
僕は目を開けた。霧は昨日より薄い。けれど晴れているわけではない。遠くの木々はまだ白い布の奥にあり、枝先だけが少しずつ朝の形を取り戻している。ククルーは乾いた根の上に座り、眼鏡を片手で拭いていた。鈴は首に戻っている。鳴ってはいない。
「寝たふりじゃない」
「それじゃ、考えすぎかもしれないね」
「それは見分けられるんだ」
「ぼくにも好きな見方があるよ」
ククルーは眼鏡をかけ直し、尾の先で僕の胸元を示した。
「三つの点だね」
僕は体を起こした。クロニクルブックを開くと、古い地図の余白に三つの小さな印が浮かんでいた。水滴はページの左上で薄く震え、閉じかけた輪は右下で少しだけ回り、曖昧な灯りはその中間で点いたり消えたりしている。
昨日と同じようで、同じではない。
水滴は、落ちそうで落ちない。
輪は、閉じそうで閉じない。
灯りは、消えそうで消えない。
どれも途中だった。
「順番をつけたくなるんだ」
僕が言うと、ククルーはすぐには答えなかった。かわりに、前足で自分の鈴を軽く押さえる。押さえたまま、鳴らさない。昨日の夜に見た仕草と同じだった。
「順番は便利だよ。便利なものは、悪いものじゃない」
「でも、怖い」
「その怖さが残っているなら、昨日の案内は居眠りではなかったようだね」
「案内だった?」
「案内にしておくと、ぼくが少し落ち着くんだ」
ククルーはそう言って、少しだけ笑った。笑い方は軽いのに、鈴を押さえる前足は離れない。
僕はページの三つの点を見た。
「どれから行けばいい?」
聞いてから、自分でおかしいと思った。答えを急がない練習をしていたはずなのに、朝になった途端、ククルーに答えを求めている。
ククルーもそれに気づいたのだろう。眼鏡の奥で、片目だけ細くなる。
「旅人さんは、どれが最初だと思うかな」
「水滴」
答えは思ったより早く出た。
「どうして?」
「落ちそうだから」
「落ちそうなものから受け止めたい?」
僕は頷きかけて、止まった。
落ちそうだから、急いで受け止める。それは、よいことのように聞こえる。けれど、落ちることが悪いとは限らない。水滴は落ちて、土へ入る。土へ入って、根に届く。ミセリの水番なら、そう言うかもしれない。
「受け止めるって決めるのは、早いかもしれない」
「では?」
「落ちるのか、落ちないのか。まず見に行く」
ククルーは小さく尾を揺らした。
「帳面は?」
「朝食前の手には、これくらいがちょうどいいね」
「朝食あるの?」
「あるよ。リリウムが、茸茶ではなく霧粥に近いものを作っているんだ。ぼくとしては、あれを茸茶の親戚と呼ぶかどうかで少し迷っているよ」
根の向こうで、細い杖の先が霧を分けた。
リリウムが立っていた。昨日と同じ、茸の傘に似た飾りの杖を持っている。朝の霧を受けて、杖の内側の淡い点が一つだけ光っていた。表情は静かだが、こちらの会話は聞こえていたらしい。
「呼ばなくていいです」
「親戚ではないと」
「粥です」
「厳密だね」
「食べ物の名前を曖昧にすると、別のものが出ます」
リリウムはそう言って、僕のクロニクルブックへ視線を落とした。
「水滴が動いた」
僕はページを見た。
三つの点のうち、水滴だけがほんの少し下へずれている。落ちたのではない。ページの上で、次に落ちる場所を探しているように見えた。
「最初の聞く場所です」
リリウムが言った。
「聞く場所?」
「託宣そのものではありません。託宣が、まだ言葉になる前に立ち止まる場所です。ミセリの外にもあります。世界樹へ近づくほど、そういう場所が増える」
僕は水滴の点に指を近づけた。触れない高さで止める。
「そこへ行けば、名前のない託宣が分かる?」
リリウムは首を横に振った。
「分かるとは限らない」
「じゃあ、何ができる?」
「分からないまま、次の形を見られる」
その言い方は、やっぱり少し難しかった。
でも、嫌ではなかった。ミセリに着いたばかりの頃なら、分からないまま次へ行くことが怖かったと思う。今も怖くないわけではない。ただ、分からないものをすぐ閉じるより、怖さごと持つ方が、少しだけ呼吸がしやすい。
ククルーが、根元に置いてあった小さな包みを前足で押した。
「朝食だよ。水滴も輪も灯りも、空腹の旅人さんを待つほど親切とは限らないからね」
包みの中には、薄い緑色の粥が入っていた。ミセリの霧粥より少し水分が多く、表面に光る胞子はない。そのかわり、湯気の中に小さな水音が混じっている。匙で触れると、粥の表面に丸い波紋が広がり、すぐにほどけた。
「これも託宣?」
「朝食です」
リリウムが即答した。
ククルーは小さく頷く。
「そこは分けておこう。何でも託宣にすると、食べる前に冷めるよ」
僕は粥を一口食べた。
淡い味だった。甘くも塩辛くもない。けれど、喉を通ると体の中で水路が一本戻ったような気がした。昨日までミセリの灯りに向いていた体が、少しずつ道の先へ向きを変える。
食べ終える頃、霧の中で細い音がした。
水滴が葉の先から落ちる音。
けれど、目の前の葉からではない。もっと遠い。森の奥、まだ見えない場所で、何かが落ちずに待っている音だった。
クロニクルブックの水滴が、もう一度だけ下へずれた。
僕は本を閉じた。
「行こう」
「どこへ」
リリウムが聞いた。
僕は少し考えた。
水滴の場所。最初の聞く場所。ミケリオンへ続く道。
どれも正しい気がする。けれど、今そのどれか一つを名前にすると、道が狭くなる気がした。
「落ちる前の音がするところへ」
ククルーが尾を立てた。
「その言い方だと、余白を残して書きたくなるね」
リリウムは何も言わなかった。ただ、杖の先を霧へ向ける。
苔の下から、細い光が返った。
短く三つ。
長く一つ。
ミセリから続いてきた拍が、ここで別の拍に混じる。水が落ちる前の、小さな沈黙。閉じない輪の低い気配。点ききらない灯りの息継ぎ。
三つの名なし点は、まだどれも名前になっていない。
でも、歩き出すには十分だった。




