↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クイズクロニクル  作者: pj.masta


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/317

第2巻 名前のない託宣 プロローグ 三つの名なし点

朝は、音より先に湿り気で来た。


目を開ける前から、苔の根元が少し温かいと分かった。夜のあいだ背中を支えてくれていた乾いた苔は、いつの間にか細かな露を抱き、外套の裾に小さな粒を並べている。粒は光っていない。ただ、光る準備をしているように、白い霧の中でじっと丸くなっていた。


僕はすぐには起き上がらなかった。


胸の上に置いたクロニクルブックが、昨日より少し重い。中身が増えたわけではない。名前も、持ち主欄も、まだ空白のままだ。けれど本の奥で、三つの点がそれぞれ別の眠り方をしている気がした。


水滴。


閉じかけた輪。


曖昧な灯り。


昨夜、地図の余白に浮かんだ三つの印だ。名前ではない。行き先とも言い切れない。けれど、完全な白紙ではなくなった。目を閉じていても、その三つだけは胸の内側に薄く残っている。


順番をつけたくなる。


水滴が先。輪が次。灯りが最後。


そう並べるだけなら、何も悪いことはないのかもしれない。旅には道順がいる。道順がなければ、足はどちらへ出ればいいか分からない。けれど、ミセリで見たものが、まだ手首の胞子膜の紐に残っていた。聞こえたこと。聞こえなかったこと。まだ置くこと。


まだ置くことに、順番をつけてもいいのだろうか。


考えた瞬間、クロニクルブックの表紙がかすかに温かくなった。


僕は息を止めた。


温かさは強くない。誰かに呼ばれたというより、遠くで誰かが息を吸った気配に似ている。ページを開くべきか迷っていると、足元の苔が短く三つ光った。


そのあと、少し遅れて、長く一つ。


ミセリで覚えた拍だ。短く三つ、長く一つ。集落の胞子灯が、もう遠くなったはずなのに、ここまで細い返事を伸ばしてくれている。


「起きているなら、寝たふりの見分けは少し厳しくなるよ」


根元の向こうからククルーの声がした。


僕は目を開けた。霧は昨日より薄い。けれど晴れているわけではない。遠くの木々はまだ白い布の奥にあり、枝先だけが少しずつ朝の形を取り戻している。ククルーは乾いた根の上に座り、眼鏡を片手で拭いていた。鈴は首に戻っている。鳴ってはいない。


「寝たふりじゃない」


「それじゃ、考えすぎかもしれないね」


「それは見分けられるんだ」


「ぼくにも好きな見方があるよ」


ククルーは眼鏡をかけ直し、尾の先で僕の胸元を示した。


「三つの点だね」


僕は体を起こした。クロニクルブックを開くと、古い地図の余白に三つの小さな印が浮かんでいた。水滴はページの左上で薄く震え、閉じかけた輪は右下で少しだけ回り、曖昧な灯りはその中間で点いたり消えたりしている。


昨日と同じようで、同じではない。


水滴は、落ちそうで落ちない。


輪は、閉じそうで閉じない。


灯りは、消えそうで消えない。


どれも途中だった。


「順番をつけたくなるんだ」


僕が言うと、ククルーはすぐには答えなかった。かわりに、前足で自分の鈴を軽く押さえる。押さえたまま、鳴らさない。昨日の夜に見た仕草と同じだった。


「順番は便利だよ。便利なものは、悪いものじゃない」


「でも、怖い」


「その怖さが残っているなら、昨日の案内は居眠りではなかったようだね」


「案内だった?」


「案内にしておくと、ぼくが少し落ち着くんだ」


ククルーはそう言って、少しだけ笑った。笑い方は軽いのに、鈴を押さえる前足は離れない。


僕はページの三つの点を見た。


「どれから行けばいい?」


聞いてから、自分でおかしいと思った。答えを急がない練習をしていたはずなのに、朝になった途端、ククルーに答えを求めている。


ククルーもそれに気づいたのだろう。眼鏡の奥で、片目だけ細くなる。


「旅人さんは、どれが最初だと思うかな」


「水滴」


答えは思ったより早く出た。


「どうして?」


「落ちそうだから」


「落ちそうなものから受け止めたい?」


僕は頷きかけて、止まった。


落ちそうだから、急いで受け止める。それは、よいことのように聞こえる。けれど、落ちることが悪いとは限らない。水滴は落ちて、土へ入る。土へ入って、根に届く。ミセリの水番なら、そう言うかもしれない。


「受け止めるって決めるのは、早いかもしれない」


「では?」


「落ちるのか、落ちないのか。まず見に行く」


ククルーは小さく尾を揺らした。


「帳面は?」


「朝食前の手には、これくらいがちょうどいいね」


「朝食あるの?」


「あるよ。リリウムが、茸茶ではなく霧粥に近いものを作っているんだ。ぼくとしては、あれを茸茶の親戚と呼ぶかどうかで少し迷っているよ」


根の向こうで、細い杖の先が霧を分けた。


リリウムが立っていた。昨日と同じ、茸の傘に似た飾りの杖を持っている。朝の霧を受けて、杖の内側の淡い点が一つだけ光っていた。表情は静かだが、こちらの会話は聞こえていたらしい。


「呼ばなくていいです」


「親戚ではないと」


「粥です」


「厳密だね」


「食べ物の名前を曖昧にすると、別のものが出ます」


リリウムはそう言って、僕のクロニクルブックへ視線を落とした。


「水滴が動いた」


僕はページを見た。


三つの点のうち、水滴だけがほんの少し下へずれている。落ちたのではない。ページの上で、次に落ちる場所を探しているように見えた。


「最初の聞く場所です」


リリウムが言った。


「聞く場所?」


「託宣そのものではありません。託宣が、まだ言葉になる前に立ち止まる場所です。ミセリの外にもあります。世界樹へ近づくほど、そういう場所が増える」


僕は水滴の点に指を近づけた。触れない高さで止める。


「そこへ行けば、名前のない託宣が分かる?」


リリウムは首を横に振った。


「分かるとは限らない」


「じゃあ、何ができる?」


「分からないまま、次の形を見られる」


その言い方は、やっぱり少し難しかった。


でも、嫌ではなかった。ミセリに着いたばかりの頃なら、分からないまま次へ行くことが怖かったと思う。今も怖くないわけではない。ただ、分からないものをすぐ閉じるより、怖さごと持つ方が、少しだけ呼吸がしやすい。


ククルーが、根元に置いてあった小さな包みを前足で押した。


「朝食だよ。水滴も輪も灯りも、空腹の旅人さんを待つほど親切とは限らないからね」


包みの中には、薄い緑色の粥が入っていた。ミセリの霧粥より少し水分が多く、表面に光る胞子はない。そのかわり、湯気の中に小さな水音が混じっている。匙で触れると、粥の表面に丸い波紋が広がり、すぐにほどけた。


「これも託宣?」


「朝食です」


リリウムが即答した。


ククルーは小さく頷く。


「そこは分けておこう。何でも託宣にすると、食べる前に冷めるよ」


僕は粥を一口食べた。


淡い味だった。甘くも塩辛くもない。けれど、喉を通ると体の中で水路が一本戻ったような気がした。昨日までミセリの灯りに向いていた体が、少しずつ道の先へ向きを変える。


食べ終える頃、霧の中で細い音がした。


水滴が葉の先から落ちる音。


けれど、目の前の葉からではない。もっと遠い。森の奥、まだ見えない場所で、何かが落ちずに待っている音だった。


クロニクルブックの水滴が、もう一度だけ下へずれた。


僕は本を閉じた。


「行こう」


「どこへ」


リリウムが聞いた。


僕は少し考えた。


水滴の場所。最初の聞く場所。ミケリオンへ続く道。


どれも正しい気がする。けれど、今そのどれか一つを名前にすると、道が狭くなる気がした。


「落ちる前の音がするところへ」


ククルーが尾を立てた。


「その言い方だと、余白を残して書きたくなるね」


リリウムは何も言わなかった。ただ、杖の先を霧へ向ける。


苔の下から、細い光が返った。


短く三つ。


長く一つ。


ミセリから続いてきた拍が、ここで別の拍に混じる。水が落ちる前の、小さな沈黙。閉じない輪の低い気配。点ききらない灯りの息継ぎ。


三つの名なし点は、まだどれも名前になっていない。


でも、歩き出すには十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。