第11巻 歯車街の未完成式 プロローグ 冷めた音の先
からん。
その音は、道の向こうへ渡ったあとも、旅人の手の中に残っていた。
待つ針の包みは、軽い。けれど、空ではない。中に何かが入っているというより、開けないまま持つための重さがある。止まった時計塔の街で、写真棚の空きへ置かなかった針。その針を、答えの棚へ置かないための包み。
旅人は、ときどき包みを持ち直した。
持ち直すたび、指先に小さな冷たさが戻る。冷たいのに、冬の冷たさではない。熱いものが怒らずに落ち着いたあとの温度だ。
ククルーは、その包みを横目で見た。
「まだ開けないよ」
「開けようとしていましたか」
「していないよ。でも、開けたら何が入っているか考える手が、少し前に出ていたね」
旅人は、自分の手を見る。
たしかに、結び目の近くへ指が寄っていた。開けたいわけではない。けれど、開けたら分かることがあるのではないかと思う手は、気づかないうちに動く。
「前に出た手は、戻したほうがいいですか」
「戻しすぎると、手がすねるよ」
ククルーは、尾を小さく振った。
「今日は、包みの横に置こう。開けない手と、開けたい手は、隣に座れるよ」
旅人は、歩きながら包みの横を少し空けるように持った。
もう片方の手には、小さな札がある。
未完成式へ触れる前の仮置き。
セリノが渡してくれた無記名の札だ。文字はない。線もない。けれど、札の白さは、空っぽの白ではない。何かを書きたくなる前に、一度置くための白だった。
道は、黄金色の草原から少しずつ硬い色へ変わっていった。
土の下に、細い金属の粒が混じっている。石の表面には、歯車の歯に似た小さな影がある。風は乾いているが、砂漠の乾きではない。湯気が高いところで冷まされ、音だけ残して降りてきたような乾きだった。
遠くで、また音がした。
からん。
今度は、旅人の手の中ではない。
空の上だ。
見上げると、雲の切れ目に岩の影が浮いていた。
岩盤。
草原の向こうに、地面から離れた大きな岩がいくつも重なっている。その上に、細い塔や橋や煙突が見えた。煙突から上がる蒸気は白いだけではない。真鍮色の光を含み、夕方ではないのに、ところどころが橙に光る。
「ヴォルテクスだね」
ククルーが言った。
声が、少し弾んでいる。
「蒸気と魔導が渦巻く空の工房。浮遊する岩盤の上に、工場と研究所と、研究所だと言い張る物置と、物置だと言い張る研究所が並ぶ大陸だね」
「どちらもあるのですね」
「もちろんだよ。発明家の部屋は、名前より先に部品が増えるから」
旅人は、浮いている岩盤を見た。
空の上に街がある。
橋がある。
煙突がある。
小さな羽を持つ影が、岩盤と岩盤の間を横切った。鳥の住民か、翼竜の住民か、遠くてまだ分からない。けれど、影は高いところを怖がっていない。むしろ、風の流れを測るように、翼の先を細かく動かしていた。
道の下から、低い振動がした。
どん、ではない。
ごう、でもない。
歯車が大きく回る前に、歯と歯の間へ息を入れるような音。
くる。
すこし遅れて、金属の光が岩盤の下を走った。
「あれは」
旅人が聞く。
「歯車光だよ」
ククルーは小さく胸を張った。
「機巧樹ギアロートの祝福が、街の仕組みへ回るときに見える光だね。蒸気、歯車、配管、橋、飛空艇の発着台。いろいろな場所へ、少しずつ」
「祝福が動力になるのですか」
「うん。ただし、動力になるからといって、祝福を燃料のように食べていいわけじゃないよ」
ククルーは、そこで少しだけ声を低くした。
「ここでは、便利なものほど、たまに自分が便利だと忘れるんだ」
旅人は、その言葉をすぐ分かったとは思わなかった。
便利なものが、自分が便利だと忘れる。
それは、止まった時計塔とは違う問いの形をしている。時計塔は、動かないことで街を急がせていた。ここでは、動くものが、動けることを急ぎすぎるのかもしれない。
手の中の包みが、かすかに鳴った。
から。
最後の、ん、は来なかった。
旅人は包みを開けなかった。
かわりに、未完成式へ触れる前の仮置きを、包みの横へ重ねずに持った。
重ねると、包みと札が同じ意味になりすぎる。
包みは、待つ針を答えの棚へ置かない手。
札は、式へ触れる前に手を置く場所。
似ている。
同じではない。
その違いを持ったまま、旅人たちは岩盤へ向かう昇降橋の前に立った。
昇降橋は、橋というより、大きな金属の羽のようだった。板が何枚も重なり、風を受けると少し持ち上がる。橋の脇には、小さな歯車が並んでいる。その歯車の一つが、旅人の足音に合わせるように回りかけ、途中で止まった。
止まった、と思った次の瞬間、反対側の小さな歯車が回り出す。
それも、途中で止まる。
二つの歯車は、互いに相手が続きを回すのを待っているように見えた。
「壊れているのですか」
旅人は言いかけて、途中で止めた。
ククルーが、小さくうなずく。
「壊れている、と言う手前で止まったんだね」
「壊れている、と決める前に」
「うん。見てみよう」
橋の横に、小さな看板がある。
看板には、丸い文字でこう書かれていた。
ただいま試運転中。
完成したと言い張らないでください。
その下に、別の筆跡で小さく書き足されている。
でも、もう動きます。
さらにその下に、三つ目の筆跡。
動くことと、できたことは、まだ別です。
旅人は、三つの文字を読んだ。
一つ目は、慎重な文字。
二つ目は、待ちきれない文字。
三つ目は、どちらも追い出さない文字。
「歯車街らしい看板だね」
ククルーが言う。
「一枚の看板に、会議が住んでいるね」
旅人は笑いそうになったが、その前に昇降橋の奥から声がした。
「会議じゃないよ。仮説だね」
声は高いところから降りてきた。
見上げると、細い翼を持つ影が橋の上の手すりに立っていた。翼竜族の人物だ。長い白衣の裾が風に揺れている。白衣には、ポケットが多い。ポケットの一つから、小さなスプーン、もう一つから歯車、別のポケットから紙片がのぞいていた。
その人物は、丸い眼鏡を指で押さえた。
「仮説は、住んでいるんじゃないよ。仮住まいをしているんだ」
ククルーが、ひげをぴんと立てた。
「お久しぶりです、ピペット教授」
「お久しぶりです、ククルー案内役。あなたの鈴は、相変わらず案内の前に鳴るようで鳴りませんね」
ククルーの首元の鈴は、鳴らなかった。
旅人は、その沈黙を教授の言葉へ結びつけなかった。結びつけたくなる手だけを、包みの横へ置く。
ピペット教授は、旅人の手元を見た。
「いい持ち方だね」
「持ち方、ですか」
「ええ。包みと札を重ねていない。似ているものを同じにしない手です」
教授は、手すりからふわりと降りた。
着地の音は軽い。
けれど、白衣のポケットの中で、小さな歯車がいくつも鳴った。
からから。
からん。
その最後の音だけ、旅人の手の中の包みと似ていた。
「ようこそ、歯車街へ」
ピペット教授は言った。
「ここでは、完成していないものが、よく動きます」
昇降橋の歯車が、また片方だけ回った。
もう片方は止まっている。
橋はまだ上がらない。
でも、下がってもいない。
ピペット教授は、止まった歯車を責めなかった。
動いた歯車をほめ急ぎもしなかった。
「ちょうど見たいところへ来たね」
教授は、旅人とククルーを見た。
「未完成式が、街のあちこちで、完成する前に働きはじめています。止めたい人もいます。完成したと言いたい人もいます。どちらの手も、少し熱い」
旅人は、手の中の包みを持ち直した。
冷めた音が、遠くで小さく返事をする。
からん。
「まず、冷ましましょう」
ピペット教授は言った。
「検証は、そのあとです」
昇降橋の上で、蒸気が一つ、白くほどけた。
歯車街は、まだ旅人たちを上へ運んでいない。
けれど、未完成のまま動き出した問いは、もう橋の手前まで降りてきていた。




