止まった時計塔 第9章 過去列車の影
翌朝、広場には足跡が残っていた。
雨は降らなかった。風も強くなかった。けれど、昨日の共同読み台の周りには、誰かが何度か戻ってきた跡があった。小布の角が少しずれている。紙の端が石畳の目地に沿っている。栞は外側に置かれたまま、倒れていない。写真棚の人が立っていた場所には、砂粒が二つだけ集まっていた。
旅人は、それを片づけ跡ではなく、戻ってきた跡として見た。
セリノは、木枠を持ってきていなかった。
かわりに、小さな木札を三枚持っている。昨日の無記名木片より薄い。黄昏駅から時計塔へ来る道で見た、琥珀点の木札道の札に少し似ている。けれど、琥珀色の点はない。まだ何も染みていない、白木の札だった。
「今日は、影を追いません」
セリノは最初に言った。
リカは、紙束を抱え直した。
「見ないのですか」
「見ます」
「でも、追わない」
「はい」
セリノは、三枚の木札を共同読み台の外側へ置いた。
一枚目は、針影の横。
二枚目は、木枠が置かれていた場所の少し外。
三枚目は、塔の窓が見える角度へ行く途中の石畳。
「影は、窓に出ました」
旅人が言う。
「はい」
「なら、窓へ行きたくなります」
「はい」
「でも、行く前に、ここへ戻る」
セリノは、うなずいた。
「戻る場所を持たないまま影を見ると、影の向こうへ足が行きやすくなります」
ククルーが、三枚目の木札を前足でつつかない距離から見た。
「列車の影は、足を急がせるからね」
旅人は、ククルーの横顔を見た。
ククルーは笑っている。
けれど、その笑いは、いつもの軽さより少し薄い。列車という言葉が出ると、首元の鈴ではなく、耳の先がほんの少し遅れて動く。旅人は、その遅れを名前にしなかった。
列車。
黄昏駅で、待たれていたもの。
戻ってこなかったもの。
でも、戻って聞ける場所だけは作れたもの。
この塔窓に現れた影を、あの列車そのものにしたくなる手が、旅人の中にあった。
それをすれば、話はつながる。
黄昏駅と時計塔が一つの謎になる。
過去列車と保存された一分が、一つの答えへ近づく。
けれど、近づきすぎる。
近づきすぎると、昨日の一歩が折れる。
「旅人」
ククルーが言った。
「はい」
「今、つなげたい顔をしました」
「しました」
「正直でよいです」
「つなげません」
「つなげない、と言い切るのも、少し硬いです」
旅人は、息を止めた。
「では、どう言えばいいですか」
ククルーは、塔の窓を見上げなかった。
共同読み台の木札を見た。
「今日は、まだ結び目を作らない、くらいでどうかな」
旅人は、その言葉を木札の上へ置いた。
まだ結び目を作らない。
黄昏駅の切符を閉じなかった時と、少し似ている。
けれど、同じではない。
今日は切符ではなく、影だ。
影は、持てない。
持てないから、追いたくなる。
追えば、持てる場所へ行ける気がする。
セリノは、三枚の木札を指した。
「一枚目は、見えた場所へ戻る札」
針影の横の札。
「二枚目は、見えなかった場所を残す札」
木枠の外側の札。
「三枚目は、行きたい途中で止まる札」
窓へ行く途中の札。
リカは、三枚を紙へ写そうとして、止まった。
「写してもいいですか」
「今日は、写す前に置いて歩きます」
セリノは答えた。
「歩くのですか」
「歩きます。追うためではなく、戻るために」
三人と街の人たちは、共同読み台から塔の窓が見える角度へ向かった。
広場を横切るだけだ。大きな旅ではない。けれど、窓を見ようとすると、足が速くなる。昨日の細い影がもう一度出るかもしれない。列車のように見えたものが、今日も見えるかもしれない。そう思うだけで、石畳の目地を飛び越えたくなる。
一枚目の札の前で、セリノは止まった。
「ここで、昨日の見えた場所へ戻ります」
旅人は、後ろを振り返った。
共同読み台が見える。
小布。
紙。
栞。
外側の木片。
あそこに戻れる。
戻れると思うと、窓へ向かう足が少し遅くなった。
二枚目の札の前で、リカが止まった。
「見えなかった場所を残す札」
リカは繰り返した。
「昨日、影がよぎった時、窓の中は見えませんでした」
「はい」
「影の前も、後ろも、見えませんでした」
「はい」
「それなのに、列車だと思いました」
リカの声は、恥ずかしがっていなかった。責めてもいなかった。ただ、自分の手を見えるところへ出している。
「思うことは、悪くありません」
セリノが言う。
「思ったことを、見えたことと同じ場所へ置かないようにします」
リカは、紙束の端へ小さく書いた。
思った。
それだけ。
見た、とは書かない。
分かった、とも書かない。
旅人は、その短さに助けられた。
三枚目の札は、塔の窓がよく見える場所の少し手前に置かれていた。
そこまで来ると、窓は視界に入る。
でも、窓の正面ではない。
首を少し傾ければ見える。立ち位置を変えれば、もっとよく見える。その「もっと」が、足を急がせる。
ククルーは、三枚目の札の手前で座った。
「ここが、行きたい途中で止まる札だね」
「はい」
「止まろう」
ククルーがそう言ったとき、首元の鈴が小さく揺れた。
鳴らない。
揺れただけ。
旅人は、その揺れを見た。
見た。
聞いてはいない。
鳴った、と書かない。
分かった、とも書かない。
リカも、紙を出さなかった。
ククルーは何も説明しなかった。
セリノは、塔の窓へ背を向けるようにして立った。
「窓を見る前に、背を向けるのですか」
パン屋の人が聞く。
「はい」
「見えなくなります」
「見えなくなることで、見たくなる手が見えます」
セリノは、窓を見ないまま言った。
旅人は、真似をして背を向けた。
背中側に窓がある。
見えない。
見えないと、気配が大きくなる。
昨日の細い影が、背中で伸びるような気がする。列車の輪郭が、窓から広場へ降りてくるような気がする。気がする、という言葉が、何度も胸の中で立ち上がる。
気がする。
見た、ではない。
聞いた、でもない。
セリノは、背中を向けたまま木札を一枚、地面へ置いた。
四枚目。
「これは、気がする札です」
「三枚ではないのですか」
リカが聞く。
「影を見る日は、三枚で足りないことがあります」
「増やしていいのですか」
「増やしたことが見えるなら」
リカは、紙束の端へまた短く書いた。
気がする。
その文字は、思った、よりも柔らかかった。
柔らかいぶん、どこへでも伸びそうだった。
「気がするは、危ないですか」
旅人が聞いた。
ククルーが答える。
「危ない日もあるよ。でも、気がするを追い出すと、見たことのふりをして戻ってくることがあるんだ」
「では」
「座らせよう」
ククルーは、四枚目の札のそばに前足を置いた。
「座っている気がするは、少し静かだね」
旅人は、笑いそうになった。
その笑いは、緊張をほどいた。
ほどけたからといって、影が安全になったわけではない。
けれど、影を怖がるだけの足ではなくなった。
セリノが合図をした。
「では、窓を見ます」
四枚の札。
戻る札。
残す札。
途中で止まる札。
気がする札。
それらを足元に置いたまま、旅人たちは振り向いた。
塔の窓は、朝の光を受けていた。
細い。
長い。
窓枠の奥は暗い。何かが通れば、影は見えるかもしれない。けれど、今は何も通っていない。
「いませんね」
パン屋の人が言った。
「はい」
古書店の人が、栞を握りしめかけて、やめた。
「いなかった、と書きたくなります」
リカは紙を見た。
「でも、今は見えなかった、ですね」
セリノはうなずいた。
「よいです」
今は見えなかった。
その言葉を置いた瞬間、窓の奥で何かが動いた。
細い影が、一度だけ横切った。
誰かが息を吸った。
影は短かった。
列車のように見えた。
昨日よりも、少しはっきりと。
窓の奥を、横へすべる線。
車輪のような丸さはない。
煙のような尾もない。
けれど、待っていた人の足が思わず前へ出るくらいには、列車に見えた。
旅人の足も、半歩だけ前へ出かけた。
三枚目の札が、視界の端に入る。
行きたい途中で止まる札。
旅人は、足を止めた。
止まりきらない。
進みすぎない。
第8章で覚えた一歩の幅を、今度は窓の前で使う。
「見えました」
リカが言った。
声が震えている。
「何が」
セリノが聞く。
リカは、すぐに答えなかった。
「影が」
「はい」
「列車のように、見えました」
「はい」
「列車が見えた、ではありません」
リカは、自分で言い直した。
「列車のように見えた影が、見えました」
ククルーは、静かにうなずいた。
「長いけれど、見えた場所を急いで一つにしていないね」
パン屋の人は、小布を胸元で握っていた。
「昨日の音と同じですか」
「同じにしたくなります」
旅人が答えた。
「でも、同じとはまだ言いません」
古書店の人が、栞を外へ向けた。
「黄昏駅で待っていた列車でしょうか」
旅人の胸が少し鳴った。
その問いは、みんなが持っていた。
言わなかっただけだ。
言われると、影が急に強くなる。
塔窓の奥から、黄昏駅のホームへ、一本の線が引かれるような気がする。琥珀色の切符、空のベンチ、戻ってきた声、駅灯の足元。全部が、影の向こうで一つに集まりかける。
ククルーの鈴は、まだ鳴らない。
旅人は、鈴を見なかった。
鈴を見れば、そこに答えを求めてしまう。
「その問いは、木札へ置こう」
旅人は言った。
セリノが、白木の札を一枚差し出した。
旅人は、そこに何も書かなかった。
書かないまま、四枚目の札の少し外へ置いた。
気がする札より外。
追い出す外ではない。
まだ手が触れない外。
「外側が増えました」
リカが言った。
「増えました」
旅人は答えた。
「増やしたことが、見えるなら」
セリノの言葉を借りる。
セリノは何も言わず、少しだけ笑った。
そのとき、塔の窓にもう一度影がよぎった。
今度は短い。
列車というより、窓枠を横切る鳥の影にも見えた。けれど、この街の空に鳥は少ない。風で揺れた布の影かもしれない。塔の内側で針布が揺れたのかもしれない。
「二つ目は、違います」
リカが言いかけた。
ククルーが、すぐに首を傾けた。
「違う、と言うと、少し早いね」
リカは口を閉じた。
「では」
「一つ目と、同じにしない」
「はい」
リカは紙へ書いた。
同じにしない。
それも、短かった。
旅人は、二つの影を胸の中で並べた。
一つ目。
列車のように見えた影。
二つ目。
列車とも、鳥とも、布とも言い切れない影。
同じにしない。
違うとも、まだ言わない。
並べるだけ。
第5巻と第6巻で学んだ、測る前に並べる作法が、ここで少し戻ってきたように思えた。けれど、それを古い祝福の証拠にはしない。旅で覚えた手が、今の足元で使えるだけだ。
セリノは、白木の札をもう一枚出した。
「これは、追わなかった札です」
「追わなかったことも、置くのですか」
旅人が聞く。
「はい。追わなかったことを置かないと、あとで追わなかったふりになります」
「ふり」
「ほんとうは追いたかったのに、最初から興味がなかったようにしてしまう。すると、次に影が出た時、足が急に走ります」
旅人は、その言葉がよく分かった。
追いたかった。
今も、追いたい。
塔の中へ入り、窓の裏を見て、影の通り道を探したい。
でも、追わない。
追いたい手を追い出さず、札へ置く。
旅人は、追わなかった札を三枚目の札の横へ置いた。
行きたい途中で止まる札の横。
そこなら、追いたい手が見える。
見えるけれど、足の先頭には出ない。
午後になって、影は出なくなった。
街の人たちは、すぐには散らなかった。窓を見上げ続ける人もいた。共同読み台へ戻る人もいた。パン屋の人は小布を置き直し、古書店の人は栞を本へ戻さず外側へ持っていた。写真棚の人は、両手を空けたまま、塔の影が薄くなる石畳を見ていた。
リカは、紙へ書いた短い言葉を読み返した。
思った。
気がする。
今は見えなかった。
列車のように見えた影が、見えた。
同じにしない。
追わなかった。
どれも、結論ではない。
でも、何もなかったことにもしない。
「これは、記録ですか」
リカが聞く。
「はい」
セリノは答えた。
「過去列車の記録ですか」
セリノは少し黙った。
その沈黙が、答えを急がせなかった。
「過去列車の影を見た日の記録です」
リカは、その言い方をゆっくり繰り返した。
「過去列車の影を見た日の記録」
「はい」
「過去列車の記録ではない」
「はい」
旅人は、胸の中でその違いを聞いた。
過去列車の記録。
過去列車の影を見た日の記録。
前者は、列車を持っている。
後者は、見た日を持っている。
今日持てるのは、後者だけだ。
ククルーが、共同読み台へ戻り始めた。
旅人も続いた。
戻る途中で、四枚目の札のそばを通る。
気がする札。
その外に置いた、書かない木札。
黄昏駅で待っていた列車でしょうか、という問いを置いた札。
旅人は、その札を持ち上げなかった。
置いたまま、横を通った。
ククルーは、横を歩きながら言った。
「置いたまま通れたね」
「持ちたくなりました」
「持ちたい手が見えていたね」
「はい」
「それなら、今日はここまで見えたね」
共同読み台へ戻ると、木枠はまだなかった。
でも、木枠があった場所は分かる。
小布、紙、栞、木片、空いた手。
昨日の修理が、今日の影を受け止める場所になっている。
旅人は、塔窓の影をここへ持ち帰ったわけではない。
影は窓にあった。
影はもう見えない。
けれど、影を追いたかった手と、影を列車にしたかった手と、同じにしたくなかった手は、ここへ戻ってきた。
戻ってきた手を、誰かが責めることはなかった。
夕方、遠い拍がした。
ち。
一つだけ。
たく、は来ない。
そのあと、塔の窓に影は出なかった。
代わりに、広場の端、琥珀点の木札道が始まるほうで、白木の札が一枚だけ夕色を受けた。
まだ琥珀色ではない。
でも、完全な白でもない。
旅人は、それを見た。
過去列車の影を追わずに置いた日。
その日が、白木の札の端に、ほんの少し色を持った。
色を持ったからといって、行き先が分かったわけではない。
それでも、明日戻って見られる場所は増えた。
ククルーの鈴は、最後に一度だけ揺れた。
鳴らなかった。
旅人は、鳴らなかった鈴を、影の答えにしなかった。
ただ、共同読み台の外側に、もう一枚だけ無記名の木札を置いた。
ククルーへ聞きたい手の札。
過去列車を追いたい手の札とは、別の場所に。
同じにしないために。
そして、違うと決めすぎないために。
夜になる前、セリノは白木の札を集めなかった。
集めずに、布をかけた。
全部を覆う布ではない。札の名前が見えなくなるほどでもない。端だけをやわらかくする薄い布だった。針布とは違う。パン屋の粉の白でもない。古書店の栞の色でもない。何も主役にしないための、うすい夕方色の布。
「置いたままにしておくのですか」
リカが聞いた。
「夜のあいだ、誰かが踏むかもしれません」
「踏まないように、道を少し変えます」
セリノは、石畳の脇へ小さな灯を一つ置いた。
灯は低い。
塔窓を照らさない。
札だけを照らすわけでもない。
歩く人が、ここに何かを置いた日があると分かるくらいの明るさだった。
パン屋の人は、小布を持ち帰るか迷った。
「明日の朝、粉が落ちていたら」
「落ちていた粉も、朝に見ます」
セリノが言う。
「今夜のうちに、きれいにしすぎません」
古書店の人は、栞を本に戻さず、札の外側へ置いたままにした。
「本が閉じられません」
「閉じられない本も、今夜は棚に立てられるよ」
ククルーが言った。
「ただし、倒れないように、横に一冊置いておこう」
古書店の人は、小さく笑った。
「案内役は、本棚にも詳しいのですね」
「本棚は、猫の道でもありますから」
その軽い言葉に、広場の空気が少しゆるんだ。
けれど、旅人は、ゆるんだ空気で影の問いを片づけなかった。
夜に布をかける。
低い灯を置く。
札を集めない。
それは、影を保存することではない。
影を見た日の手を、朝まで責めないための置き方だった。
リカは、最後に紙の端へ一行だけ足した。
夜も置く。
その四文字は、少し強く見えた。
リカは首をかしげ、もう一度考えたあと、その横に小さく書き添えた。
集めずに。
夜も置く。集めずに。
旅人は、その言葉を読んだ。
過去列車の影を、集めない。
黄昏駅の問いを、集めない。
ククルーの鈴の揺れを、集めない。
集めないことは、捨てることではない。
夜のあいだ、それぞれがそれぞれの位置で、朝を待てるようにすることだった。
塔窓は、もう暗かった。
暗い窓には、列車の影も、鳥の影も、布の影も見えない。
見えないから、なかったことにしたくなる。
見えないから、きっと中にあると決めたくもなる。
旅人は、その二つの手を、低い灯の外側へ置いた。
書かない。
話さない。
でも、置いたことが分かる距離に。
ククルーは、低い灯の向こうで目を細めた。
「夜は、答えを大きく見せるね」
「はい」
「だから、今夜は小さい灯で見ていこう」
「消さないのですね」
「消しません。暗くすれば安心、でもありませんから」
旅人はうなずいた。
明るくしすぎない。
暗くしすぎない。
追わない。
集めない。
それでも、明日戻れるようにする。
過去列車の影を見た日は、そうして夜へ入った。




