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クイズクロニクル  作者: pj.masta


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止まった時計塔 第7章 忘れないための扉

次の朝、塔の影は短かった。


短いのに、薄くはなかった。


広場の石畳に落ちた影は、時計面の形を持たない。ただ、塔がそこにあることだけを、足元へ置いている。見上げれば、進まない針がある。けれど、足元だけを見ても、塔の問いは消えない。


旅人は、パン屋の前で立ち止まった。


昨日、一つだけ鳴った左の時計は、今日は鳴らなかった。かわりに、パン屋の人が棚の端へ小さな布を敷いていた。そこには、何も置かれていない。何も置かれていないのに、布の四隅だけがきちんと伸ばされている。


「昨日の音のためですか」


旅人が聞くと、パン屋の人は、粉のついた手を見た。


「忘れないため、だと思います」


思います。


その言い方が、旅人の足を止めた。


断言ではない。説明でもない。昨日の `ち` を、今日の棚へ置くための言い方だった。


「鳴らなかったら、片づけますか」


ククルーがたずねる。


パン屋の人は少し笑った。


「片づけると、昨日の音を追い出したみたいになるかもしれないね」


「では、置きっぱなしですか」


「置きっぱなしにすると、今日の音が入れない気もします」


パン屋の人は、布の端を指先で押さえた。


「だから、端だけ伸ばしておきます」


ククルーは、うんうんとうなずいた。


「端だけなんだね。中央を占領しないで、残せるんだ」


「忘れ方ですか」


「忘れないための置き方、と言ったほうが近いかもしれないね」


旅人は、その言葉を胸の中で持った。


忘れないための置き方。


それは、保存時計の小部屋で見たものと似ていた。けれど同じではない。


中央の時計。


差し出しかけた手。


一分へ寄る日が多い店。


写真棚の空き。


進んでいないのに落ちた二つの音。


どれも、忘れないために置かれているように見えた。けれど、どれも中央を占領してしまうと、今日が入れなくなる。


広場の向こうから、セリノが来た。


針布の包みを持っている。今日は、包みのほかに細い木枠を持っていた。木枠は扉の形をしている。昨日の小さな板より大きい。人がくぐれるほどではないが、両手で持つと、胸の前に小さな戸口ができる。


「今日は、扉を作ります」


セリノは言った。


旅人は、思わず塔の脇を見た。


「小部屋へ、また入るのですか」


「いいえ」


セリノは首を横に振った。


「今日は、入らないための扉を作ります」


入らないための扉。


ククルーが、木枠の内側をのぞかずに、外側の角を見た。


「開けるためでも、閉めるためでもないんだね」


「はい」


「では、何のために」


セリノは、パン屋の棚の布を見た。


「忘れないために、中央を空けるためです」


広場の低い台へ、三人は移動した。


そこは、第1章で手を休ませた場所だった。布を敷いた低い台。今は、リカの三枚の紙片と、セリノの三枚の木片が、端に重ならないよう置かれている。片づけられていないのではない。片づける前の形を、今日のために残してあるようだった。


リカも、台のそばにいた。


紙束を胸に抱えている。昨日より少し薄い束だ。書き急ぐ紙を減らしたのかもしれない。


「小部屋のことを書こうとしました」


リカは先に言った。


セリノは責めなかった。


「書けましたか」


「書けませんでした。書こうとすると、三つの場面を一つにしたくなります」


旅人は、胸の奥で小さく息をついた。


同じだ。


リカは紙束から一枚を抜いた。そこには、三本の線だけが引かれていた。上から下へまっすぐではない。途中で少しずつ角度が違う。一本目は左へ寄り、二本目は中央で止まり、三本目は右へ抜けかけている。


「差し出しかけた手は、見送り損ねた人の手かもしれない。毎日一分遅れる店は、その人を待つ店かもしれない。写真棚の空きは、その人の写真かもしれない」


リカの声は速くなりかけて、途中で止まった。


「でも、そう書くと、全部を一つの話にしてしまいます」


「一つの話にしたい手は、悪い手ではありません」


セリノが言う。


「でも、先に出ると、ほかの手が入れなくなります」


リカは紙を台へ置いた。


「だから、扉がいるのですね」


セリノはうなずいた。


木枠を低い台の中央へ立てる。


しかし、台には扉を固定する溝がない。木枠はすぐ倒れそうになる。セリノは倒れないように持つのではなく、木枠の片側だけを台へ触れさせた。もう片側は少し浮いている。完全には立っていない。完全には寝てもいない。


扉の前の半歩。


旅人は、その言葉を思い出した。


出る前。


聞く前。


開ける前。


そして今は、忘れないために、中央へ入りすぎない前。


「この扉は、開けたらどうなりますか」


旅人が聞く。


セリノは答えを急がなかった。


「開ける、という形にはしません」


「閉める形にも」


「はい」


セリノは針布をほどいた。


木の針を包んでいた布ではなく、昨日、小部屋の中央の時計へかけたほうの布だ。布は、完全には白くない。小部屋の薄暗さを少しだけ吸ったように、灰色がかっている。


セリノは、その針布を木枠の真ん中へかけなかった。


片側の角へだけかけた。


木枠の内側は、ほとんど空いている。針布は、向こう側を隠すほどではない。ただ、木枠がただの空きではないと分かる程度に、角をやわらかくしている。


「忘れないための扉は、真ん中をふさぎません」


セリノが言った。


「真ん中をふさぐと、守ったものだけが通れなくなることがあります」


リカは、自分の三本線の紙を見た。


「では、何を置けばいいですか」


「開けたい手です」


セリノは三枚の木片のうち一枚を、木枠の手前へ置いた。


「閉めたい手です」


二枚目を、木枠の向こう側へ置く。


「忘れないために押さえたい手です」


三枚目を、針布のかかった角のそばへ置く。


三枚は、どれも木枠の中央には置かれなかった。


旅人は、自分の手を見た。


開けたい手。


昨日の小部屋へ戻り、中央の時計をもっと見たい手。


閉めたい手。


見えたものをこれ以上動かさず、小部屋ごと布へ包みたい手。


忘れないために押さえたい手。


ククルーの短い「助かるよ」を、意味のある合図として自分の中へしまい込みたい手。


三つともあった。


どれか一つを選べば、楽かもしれない。


開ければ、答えを探せる。


閉めれば、傷つけずに済む。


押さえれば、忘れないで済む。


でも、そのどれか一つだけが前に出ると、ほかの手の行き場がなくなる。


ククルーは、低い台の下に座った。前足をそろえ、木枠の真ん中ではなく、少し横から見ている。


「旅人、今、ぼくのほうを見たね」


旅人は、返事に少し迷った。


「はい」


「見ても、いけないことじゃないよ」


ククルーの声は、いつもより少し低かった。


「でも、ぼくを扉にしないでね」


旅人は、言葉をすぐに返さなかった。


ククルーを扉にしない。


ククルーの表情を開ければ、保存された一分の意味が分かる。


ククルーの鈴を閉めれば、怖さを見ずに済む。


ククルーの短い言葉を押さえれば、忘れないで済む。


どれも、旅人の手だった。


でも、ククルーは扉ではない。


「分かりました」


旅人は、やっと言った。


「まだ分かっていないと思うよ。でも、そうしないように、ここへ置こう」


旅人は、台の端にあった空の木片を一枚取った。


そこへ何も書かず、木枠の真ん中ではなく、少し手前に置く。


ククルーは、その木片を見た。


「名前を書かないのですか」


「書くと、ぼくの手ではなくなりそうです」


「名前を書かない札も、ここに置けるんだね」


セリノが言った。


「名前を書かない札も、置き場所があれば迷子になりません」


リカは、それを聞いて、自分の三本線の紙を折らなかった。


破らなかった。


書き足さなかった。


ただ、三本の線の下に小さな空きを作るように、紙を少し下へずらした。


「一つの話にしたい手」


リカは言った。


「開けたい手の近くに置きます。でも、中央には置きません」


パン屋の人も、いつのまにか広場の端に来ていた。棚の布と同じ大きさの小布を持っている。


「昨日の音を押さえたい手は、どこですか」


セリノは、針布のかかった角を示した。


パン屋の人はそこへ小布を重ねようとして、途中で止めた。


重ねると、針布の角が厚くなりすぎる。


「ここに、触れるだけにします」


パン屋の人は、小布の端だけを針布へ触れさせた。


布と布が重なる音はしなかった。


けれど、旅人には、昨日の `ち` がほんの少しだけ広場の空気へ戻ったように感じられた。


鳴ったのではない。


思い出したのでもない。


置き場所が、音のために少し空いた。


古書店の人は、栞を持ってきた。写真棚のそばにいた人は、何も持ってこなかった。ただ、空いている両手を見せた。


その両手が、旅人にはいちばん静かに見えた。


「持ってこない手は、どこへ置きますか」


写真棚の人が聞く。


セリノは、少し考えた。


「木枠の向こうへ置くと、閉めた手に見えます。手前へ置くと、開けたい手に見えます。角へ置くと、押さえたい手に見えます」


「では、どこにも置けませんか」


「いいえ」


セリノは、低い台の脇にある石畳を指した。


「台に置かない手もあります」


写真棚の人は、両手を石畳の上へ下ろした。


手のひらを置くのではなく、影だけを置くように、少し浮かせる。


木枠の中央が、さらに空いた。


「ここで終わりにすると、台の上の話だけになります」


セリノは言った。


「扉は、手で持つものでもあります」


木枠を持ち上げると、置かれていた三枚の木片と紙片が、急に心細く見えた。中央を空ける形は、台の上では分かる。けれど、持ち上げた途端、どこへ向ければよいのか分からなくなる。


セリノは木枠を旅人へ渡した。


軽い。


軽いのに、腕の中でまっすぐにはならない。片側だけにかかった針布の重みで、木枠は少し傾く。傾きを直そうとすると、針布が落ちそうになる。針布を守ろうとすると、中央をふさぎたくなる。


「持つと、分かります」


セリノが言った。


「忘れないための扉は、持つ手を急がせます」


旅人は、木枠を胸の前に持った。


その向こうに、広場が見える。


パン屋の棚が見える。


リカの紙束が見える。


ククルーの耳の先が見える。


木枠越しに見ると、どれも扉の向こうのものに見えてしまう。ほんとうは同じ広場にあるのに、木枠が間へ入るだけで、こちらとあちらができる。


旅人は、木枠を少し下げた。


「向こう側にしたくなります」


「はい」


セリノはうなずいた。


「だから、今日は向こう側を作りすぎないようにします」


一行は塔の脇へ歩いた。


正面の扉へは行かない。昨日、小部屋へ入った壁龕の前にも、まっすぐには向かわない。石段の手前で一度止まり、木枠を地面へ置いた。


塔の壁には、古い戸口の跡があった。


戸口と呼ぶには浅い。石の色が少しだけ違うだけだ。昔、そこに扉があったのかもしれない。扉の絵を誰かが見たのかもしれない。最初から、扉に似た石の並びだっただけかもしれない。


「開きますか」


リカが、ほとんど息だけで聞いた。


セリノは、すぐに答えなかった。


旅人は、木枠を見た。


軽い木枠をその戸口跡へ合わせれば、扉になる気がした。


扉になれば、開けたくなる。


開けたくなれば、答えを期待する。


答えを期待すれば、昨日見えた三つの場面を、ここから出てくる一つの話にしたくなる。


「開くかどうかを、今日の問いにしません」


旅人は言った。


セリノが、少しだけ目を細めた。


「よいです」


ククルーは石段のいちばん下に座り、しっぽを足元へ寄せた。


「扉の跡を見ると、開いた話を作りたくなるね」


「はい」


「閉じた話も作りたくなるね。昔は開いていたけれど今は閉じた、とか」


「はい」


「でも、扉の跡があるだけの日もあるよ」


ククルーは、戸口跡ではなく、その横の石の欠けを見た。


「欠けが、扉より先に見つけてほしそうだね」


旅人は、ククルーの視線を追った。


戸口跡の右下に、小さな欠けがある。


欠けの内側には、細い草が一本だけ伸びていた。塔の石のすきまから出た草だ。黄金色ではない。まだ緑が濃い。風に揺れても、折れない。


パン屋の人が持ってきた小布の端が、その草の揺れに合わせて少し動いた。


「ここに置くと、扉ではなく草を見ますね」


パン屋の人は言った。


セリノは、木枠を戸口跡へ合わせなかった。


少し離れた石畳の上へ立てた。


木枠の中央からは、戸口跡が見えない。右下の草だけが見える。草の向こうに、塔の影の端が見える。


「忘れないための扉は、見たい中心から少し外します」


セリノは言った。


「中心をまっすぐ見せると、開けるか閉めるかだけになりやすいからです」


リカは、三本線の紙を胸元で押さえた。


「では、記録も中心を外して書きますか」


「外す、というより、中心以外にも行を残します」


「余白ではなく」


「通る場所です」


リカは紙を裏返した。


裏は白い。


旅人は、そこに何も書かれていない白さを見た。空白は、欠けているようにも見える。けれど今は、通る場所にも見えた。


「昨日の三つの場面を、裏へ書くのですか」


リカは首を振った。


「いいえ。裏は、今は通る場所にします」


紙を閉じない。


書かない。


でも、捨てない。


その選び方が、木枠の中央をふさがないことと似ていた。


写真棚の人は、戸口跡を見てから、自分の両手をもう一度見た。


「持ってこなかった手も、通れますか」


セリノは答えた。


「通るかどうかは、こちらで決めません」


「決めないと、忘れませんか」


「決めすぎると、忘れることもあります」


写真棚の人は、少しだけ笑った。笑いきれない顔だった。けれど、泣く顔でもなかった。


「写真を置けば忘れないと思っていました」


「置くことで忘れない日もあります」


セリノは言った。


「置かないことで、あとから通れる日もあります」


その言葉に、旅人は昨日の小部屋を思い出した。


写真棚の空き。


空いているから、失われたと読みたくなる。


でも、空いているから、あとから通れるものもある。


見えた場面を一つの写真にしてしまえば、空きは埋まる。埋まれば安心する。けれど、あとから通ろうとする手は、行き場をなくすかもしれない。


ククルーが、草の前に片方の前足を置いた。


踏まない。


触れもしない。


ただ、草の揺れる幅が分かるくらいの距離に置いた。


「草にも、半歩があるね」


ククルーは言った。


「近づきすぎると折れるね。遠すぎると、揺れたかどうか分からないんだ」


旅人は、木枠をその距離に合わせて少し動かした。


戸口跡は、まだ見えない。


草は見える。


塔の影の端も見える。


木枠の中央は空いている。


空いている中央を、誰かがくぐることはない。


けれど、視線は通った。


それだけで、昨日の二つの音が、少し遠くへ行きすぎずに済む気がした。


広場へ戻る途中、リカは紙の裏へ何も書かなかった。


かわりに、紙の端へ小さな折り目を一つだけつけた。


「これは、何の印ですか」


旅人が聞く。


「ここから先を書かない、ではありません」


リカは言った。


「ここから先を、まだ通せるようにする印です」


ククルーは、ひげを小さく動かした。


「書かないことにも、書き方があるね」


「難しいね」


「難しいことは、たいてい一度で案内役の言う通りにはならないよ」


「案内役でもですか」


「もちろんだよ。ぼくは、難しいことを簡単だったふりで渡さない係でもあるんだ」


リカが、少しだけ笑った。


旅人も、少しだけ息をゆるめた。


ククルーの声は明るかった。


けれど、その明るさを、旅人は安心の証拠にしなかった。


明るい声にも、半歩がある。


近づきすぎると折れる。


遠すぎると揺れが分からない。


旅人は、空いた中央を見た。


そこには、何もない。


けれど、何もないことが、昨日より少し怖くなかった。


空いているから、答えが欠けているのではない。


空いているから、誰かの手があとから通れる。


そのとき、塔のほうで、遠い拍がした。


ち。


旅人の肩が動いた。


でも、木枠の中央には何も置かなかった。


たく、は来ない。


来ない音を急がせるための手も、出さなかった。


ククルーの首元の鈴は、鳴らなかった。


鳴らないことを、旅人は証拠にしなかった。


ただ、低い台の手前に置いた無記名の木片が、少しだけ軽く見えた。


「忘れないための扉は、これでできたのですか」


リカが聞いた。


セリノは、木枠から手を離さないまま答えた。


「まだ、できていません」


木枠は少し傾いた。


セリノが支えているから立っている。


「でも、倒れないように押さえるだけでは、扉にはなりません」


「では、どうしますか」


「周りを直します」


直します。


旅人は、その言葉に身構えなかった。


動かす修理ではない。


開ける修理でも、閉める修理でもない。


木枠の周りに、手の置き場を作る修理。


針を動かさないまま、針の周りを整える修理。


「明日は、針の周りへ行きます」


セリノは言った。


「針を動かすためではなく、動かさなくても倒れない置き方を探すために」


旅人は、木枠の中央の空きをもう一度見た。


そこへ入りたい手は、まだある。


そこを閉めたい手も、まだある。


そこへククルーの短い言葉を押さえたい手も、まだある。


でも、三つの手は、同じ場所へ押し合っていなかった。


低い台の周りに、少しずつ置かれている。


忘れないための扉は、開いていない。


閉じてもいない。


ただ、今日の中央を空けたまま、次の修理を待っていた。

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