止まった時計塔 第5章 時計守セリノ
セリノの作業机は、塔の中ではなく、塔の外にあった。
それを見た時、旅人は少し驚いた。
時計守の作業机というからには、塔の扉の向こう、厚い壁の内側、針の根元に近い暗い部屋を思い浮かべていた。歯車や鍵や古い記録が並び、窓のない場所で、塔の秘密を一つずつ開くような机。
けれど、セリノが案内したのは、広場から少しだけ外れた軒下だった。
塔の影は届く。けれど、時計面は見えない。軒の上に古い蔦が絡まり、葉の隙間から光が入る。机は低く、片側だけが少しすり減っている。誰かが何度も同じ場所に手を置き、急ぐ手をそこで止めてきた跡だった。
机の上には、歯車はなかった。
鍵もない。
大きな工具もない。
あるのは、布だった。
薄い灰色の布、琥珀色の布、白に近い布、古い紙のような茶色の布。細いもの、四角いもの、巻かれたもの、畳まれたもの。どれもきちんと整っているが、展示物のようには見えない。使われて、洗われて、また畳まれた布だった。
「ここが作業机ですか」
旅人が聞く。
「はい」
セリノは、机の端に手を置いた。
「塔の中ではないのですね」
「中でしかできないこともあります」
セリノは答えた。
「でも、中でしなくていいことを中で始めると、塔の中でしか考えられなくなるよ」
ククルーは、パンの包みを机の端に置こうとして、すぐに引っ込めた。
「これは作業道具じゃないね」
「休み道具にはなります」
セリノが言うと、ククルーは少し考え、包みを机の隅ではなく自分の足元に置いた。
「足元で休ませるよ」
「足元なら、机の上を急がせずにすむね」
旅人は、布を見た。
第1章で直したい手を置いた布。
第4章で胸の中の聞きたい手へかけた布。
リカが紙束へかけた布。
どれも、隠すためだけのものではなかった。押し寄せるものを少し弱くする。見えすぎるものを、見えないことにせず、見える量へ整える。手を急がせない。
「これが、針布ですか」
旅人が聞くと、セリノは一枚の細長い布を持ち上げた。
それは、灰色と琥珀色のあいだの色をしていた。幅は指三本ほど。長さは、机の端から端へ届くくらい。布の片側には、細い丸い跡がいくつも並んでいる。針に巻かれた跡のようにも、誰かの指が触れた跡のようにも見えた。
「針を包む布です」
セリノは言った。
「針を隠す布ではありません」
旅人は、その違いをすぐに言葉にできなかった。
包む。
隠す。
似ている。けれど、同じではない。
「隠すと、見えなくなります」
セリノは、旅人の沈黙を急がせずに続けた。
「包むと、形は残ります。触れ方が変わります」
ククルーが、布の端を見つめた。
「触れ方」
「針は細い。細いものは、理由より先に指へ刺さります」
セリノは、布を机の上に置いた。
「痛いと、人はすぐ誰かを責めます。針を責める。持った手を責める。そんな場所へ置いた人を責める。だから、まず包みます」
「刺さらないように」
「それもあります。でも、刺さらないだけなら厚い箱へ入れればいい」
セリノは、布を二つ折りにした。
「箱へ入れると、針がどちらを向いていたか分からなくなります。布なら、向きが残ります」
旅人は、布の細いふくらみを見た。
たしかに、そこに針があるとしたら、向きは分かる。先端がどちらか、根元がどちらか。強く握れば刺さるかもしれない。けれど、すぐには刺さらない。見える。触れられる。でも、急いで決めるほど裸ではない。
「止めた理由も、布で包むのですか」
旅人は聞いた。
聞いたあとで、自分の声が少し急いでいたことに気づいた。
セリノは、布をたたみ直した。
「理由を包むこともあります」
「今日、聞けますか」
「理由をですか」
「はい」
ククルーの首元で、鈴は鳴らなかった。
鳴らないことが、かえって聞こえる。
さっき、ククルーは言った。今言うと、言ったものだけが本当になりそうだと。セリノの理由も同じかもしれない。止めた理由を言えば、その理由だけが塔の本当になってしまう。
旅人は、言い直した。
「理由を、全部ではなく」
セリノは首を横に振らなかった。
「全部ではなく、なら少し見られます」
見られます。
聞けます、ではない。
セリノは机の奥から、小さな木箱を出した。
蓋はない。
中には、針の形をしたものが何本か入っている。けれど、どれも時計塔の本物の針ではない。木で作られたもの、紙で巻いたもの、布だけで細く形を作ったもの。先端は丸く、どれも刺さらない。
「本物ではありません」
旅人が言う。
「本物に触れる前の手を見るためのものです」
セリノは、木の針を一本、机の中央へ置いた。
「これを動かしてください」
旅人は、手を伸ばしかけた。
すぐに止めた。
第2章の入口の外で、動かしたい手を見たばかりだ。木の針は本物ではない。動かしても塔は変わらない。だから、気軽に動かせそうに見える。
その気軽さが、少し怖かった。
「動かしても、よいのですか」
「それで足りるね」
セリノは答えた。
「でも、何を動かしたことにするかを見てください」
旅人は、木の針へ指を添えた。
軽い。
軽いから、すぐ動く。
旅人が少し押すと、木の針は机の上で向きを変えた。ほんの少し。けれど、向きは変わった。
胸の奥が、少し楽になった。
動いた。
そう思った。
「今、安心しました」
旅人は言った。
「はい」
セリノはうなずく。
「本物ではないのに」
「はい」
「それは、悪いことですか」
セリノは問い返した。
旅人は考えた。
本物ではない針を動かして安心した。悪いことのようにも思える。代わりのもので自分をだましているようにも見える。でも、安心した手を見られた。見えたものを悪者にすると、手は隠れる。
「悪いことではありません」
「はい」
セリノは、木の針を元に戻さなかった。
「ただ、本物を動かしたわけではありません」
「はい」
「だから、安心を本物の結果にしない」
旅人はうなずいた。
木の針は、少し向きを変えたまま机の上にある。戻されない。けれど、塔の針と混ぜられない。
ククルーが、布で作られた細い針を見た。
「こちらは、動かすとどうなりますか」
「形が崩れます」
「崩してもよいのですか」
「崩れる手を見るためなら」
ククルーは前足を伸ばしかけ、止めた。
「ぼくは、やめておくよ」
「なぜですか」
セリノが聞く。
ククルーは、少しだけ目を細めた。
「崩れるものを見ると、直したくなります」
「直したい手はあるかな」
「あります」
ククルーは、軽く答えようとして、少しだけ遅れた。
首元の鈴が鳴る。
しゃら。
塔の拍は来ていない。
何に遅れたのか分からない。
けれど、ククルーの答えのあと、鈴だけが少し遅れて席についたようだった。
旅人は、見た。
見て、聞かなかった。
第4章で置いた三つの聞きたい手が、まだ胸の中にある。薄い布をかけてある。端は見える。でも、一度に押し寄せない。
セリノも、鈴の意味を聞かなかった。
「直したい手を、ここへ」
セリノは、机の端に小さな布を置いた。
ククルーは、そこへ前足を置いた。
前足だけ。
言葉は置かない。
布は、ククルーの前足の下で少し沈んだ。
「消えませんね」
セリノが言う。
「消えません」
ククルーは答えた。
「でも、今は布の上にあるね」
その声は、とても小さかった。
旅人は、その小ささを、全部の本当にはしなかった。けれど、聞いた。聞いたものを消さなかった。
セリノは、机の左端から古い紙を一枚出した。
紙には、何も書かれていないように見えた。近づくと、薄い線が何本も入っている。時刻表ではない。図面でもない。布の折り目の記録のようだった。
「これは、針布の畳み方ですか」
旅人が聞く。
「畳んだ日の記録です」
セリノは言った。
「針を包んだ日の記録ではなく?」
「包んだ日もあります。でも、包まなかった日も記録します」
「包まなかった日」
「包む必要がなかった日。包みたくなったけれど包まなかった日。包まないほうがよいと分かった日」
セリノは、薄い線の一つを指でたどった。
「守ることは、何かをいつも覆うことではありません」
旅人は、机の布を見た。
布が多いから、セリノは何でも包む人なのだと思いそうになっていた。けれど、包まない日も記録する。包みたくなったけれど包まなかった日も。
「守らないことも、守り方ですか」
「守らない、とは少し違います」
セリノは考えた。
「覆わずにそばにいることがあります」
覆わずにそばにいる。
それは、ククルーの鈴へ聞かずにいる旅人の手に似ていた。似ているけれど、同じとは決めない。セリノの守り方は、セリノのものだ。
「塔を止めた理由も、覆わずにそばにいるのですか」
旅人は、また理由へ近づいた。
セリノは、今度はすぐ答えなかった。
机の上の木の針を見る。
少し向きを変えたままの針。
ククルーの前足が乗った小さな布。
針布の畳んだ日を記した紙。
それらを見てから、セリノは言った。
「理由は、一つではありません」
その言葉だけで、机の上の空気が少し重くなった。
旅人は、続きを聞きたくなった。
何があったのですか。
誰が止めたのですか。
いつからですか。
その一分は、どこへ置かれていたのですか。
四つ目、五つ目、六つ目の問いが立ち上がる。
セリノは、旅人の顔を見た。
「今、理由が増えましたね」
旅人は、うなずいた。
「増えました」
「増えた理由を、どれか一つの針へ刺さない」
「はい」
セリノは、木箱から布だけで作られた針を取り出した。
形は針だが、先端はない。どちらが先か分からない。持ち上げると、少し曲がる。
「これは、理由を置く前の針です」
「先がない」
「まだ、どちらを向くか決めないためです」
旅人は、その布の針を見た。
理由を聞きたい手は、すぐ先端を作りたがる。誰が、いつ、なぜ。その先端で、答えを指したくなる。けれど、今ここにあるのは先のない針だ。
「止めた一分を、悪者にしないためですか」
旅人が聞く。
セリノは、少しだけ目を伏せた。
「それもあります」
「それだけではない」
「はい」
セリノは、布の針を机に置いた。
「止めた一分を悪者にしないことは、止めた人を正しい人にすることではありません」
旅人は、息を止めた。
「正しい人にしない」
「はい。悪者にしない。正しい人にも、まだしない」
セリノの声は穏やかだった。
けれど、そこには長い時間が入っていた。何度も、誰かを悪者にしそうになり、誰かを正しい人にして安心しそうになり、そのたび机へ戻ってきた時間。
「セリノさんは」
旅人は言いかけて、止めた。
あなたは何をしたのですか。
そう聞きそうになった。
聞く前の半歩は、ここにもある。
旅人は、机の手前に見えない線を探した。石畳ではない。作業机の木目の中に、浅い線がある。手前と向こうを分けるほど強くはない。けれど、そこに手を置くと、机の奥へ届きすぎない。
旅人は、その線の手前へ指を置いた。
「聞きたいです」
「はい」
セリノは答えた。
「でも、今日は聞く前の机にします」
「うん。聞く前の机だね」
ククルーの前足が、布の上で少し動いた。
「机にも半歩があるんだね」
「あります」
セリノは言った。
「高い塔へ向かう階段だけじゃないよ。机にも、棚にも、布にも、人の言葉にも」
ククルーは小さく笑った。
「半歩だらけだね」
「急ぐ手が多いからだね」
セリノの返しに、ククルーは少しだけ負けたような顔をした。
旅人は、笑った。
その笑いで、机の重さが少し軽くなった。
セリノは、木の針、布の針、針布、畳んだ日の記録を、順に机の上へ並べた。どれも中央には置かない。少しずつずれている。三枚の木片や三枚の紙片と似ているが、もっと長く使われてきた配置だった。
「ここで、毎日同じことをするのですか」
旅人が聞く。
「同じように始めます」
セリノは答えた。
「同じことにはなりません」
「なぜですか」
「手が違うからです」
セリノは、自分の手を見た。
「昨日の手と今日の手は違います。塔も、針も、街も、同じ顔をしているように見えて、外の時間を受けています。だから、同じ作法で始めても、同じ答えにはしません」
旅人は、塔を見ようとした。
軒の上の葉で、時計面は見えない。
見えないのに、塔がそこにあることは分かる。針が動かないことも分かる。見えないまま、セリノの机は塔とつながっている。
「塔の中へ入らないまま、守れるのですね」
「入らないまま守れることがあります」
セリノは言った。
「入らないことで守れることもあります」
「入らなければ、分からないこともあります」
旅人が言うと、セリノはうなずいた。
「あります。だから、第6の扉は閉じたまま、場所だけ覚えます」
第6の扉。
その言葉に、旅人の胸が少し動いた。
扉。
第6。
保存時計の気配。
けれど、セリノはすぐに手を上げた。
「今日は開けません」
「はい」
旅人は、すぐに答えた。
「言葉だけ、置いたのですか」
「はい。次の章の入口に置いただけです」
セリノは、少しだけ笑った。
「言いすぎましたか」
「少し」
ククルーが答えた。
セリノは、素直にうなずいた。
「では、布をかけよう」
セリノは、机の上に細い白い布を一枚置いた。第6の扉、という言葉を覆うように。もちろん、言葉そのものは見えない。けれど、旅人にはその布が、今聞いた言葉の上へかかったように見えた。
「忘れないためですか」
旅人が聞く。
「忘れないために、見えすぎないようにします」
セリノは答えた。
その言葉は、第5章の中でいちばん静かに置かれた。
忘れないために、見えすぎないようにする。
旅人は、胸の中でその言葉をくり返した。
見えすぎると、答えにしたくなる。見えないと、忘れそうになる。だから、布をかける。形は残す。向きも残す。けれど、指に刺さらないようにする。
セリノの守り方は、直さないことではなかった。
閉じることでもない。
ただ守っている、でも足りない。
見えすぎないようにしながら、形を消さず、向きを残し、手が急ぎすぎる前に机へ戻ること。
「セリノさん」
旅人は言った。
「はい」
「塔を直したい手は、まだありますか」
セリノは、机の上の木の針を見た。
少し向きを変えたままの針。
「あります」
「毎日」
「毎日ではありません」
セリノは言った。
「でも、なくなったとは言いません」
「なぜですか」
「なくなったと言うと、次にその手が戻った時、私は自分を責めます」
旅人は、ゆっくり息をした。
直したい手を持たない時計守は、塔の前に立てない。セリノは第1章でそう言った。その手は消えない。消した手は、あとで別の形で急ぐ。
「では、あるまま」
「あるまま、机に戻します」
セリノは、自分の手を針布の上へ置いた。
手のひら全部ではない。
指先だけ。
「今日の私の手は、ここまでです」
ククルーも、小さな布から前足を離した。
「ぼくの直したい手も、今日はここまでだね」
旅人は、自分の手を見た。
理由を聞きたい手。
セリノへ聞きたい手。
第6の扉へ向かいたい手。
どれもある。
旅人は、机の手前の浅い線へ、その三つを言葉にしないまま置いた。
「旅人さんの手は」
セリノが聞く。
「今日は、ここまでです」
旅人は答えた。
セリノは、うなずいた。
「よい終わり方です」
終わり。
けれど、閉じる終わりではない。
机には、木の針が少し動いたまま残っている。布の針は先のないまま置かれている。針布はたたまれ、白い布は見えすぎる言葉の上にかけられている。ククルーの前足が置かれていた小さな布には、跡は残っていない。でも、そこにあったことを旅人は知っている。
塔の拍は来なかった。
鈴も鳴らなかった。
それでも、何もなかったわけではない。
セリノの机は、音が来ない日にも働いていた。
急ぐ手が戻る場所として。
理由が一つになりすぎる前の場所として。
止めた一分を悪者にも、正しい人の証にも、まだしないための場所として。
旅人は、机から半歩下がった。
塔の中へは入っていない。
扉も開けていない。
それでも、塔の守られ方を少し見た。
見えすぎないよう布をかけられたまま、形を残している問い。
その問いの端が、次の半歩の向こうで、静かに待っていた。




