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浴槽は幾つかあって、それぞれの選択肢は等価に思えるが、実際には流動している。今回はジャグジーにしよう。ここから一番近くーといっても精々数mの差でしかないがー、誰も入っていないので独占できる。その上、それぞれの噴水口が壁で仕切られていて、個々人で使えるようになっており、誰にも邪魔される懸念がない。
湯舟には、丁度頭だけが水面から出るようになる高さで段差がある。そこに腰掛けてから背面のボタンを押すと、水流と共に気泡が排出され、体の背面と脚とを刺激する。それがとても心地良い。いつだったか初めてジャグジーを使った時は、今ひとつその良さが分からず、以来何となく使ってこなかったのだが、その認識を改める必要がある。
風呂にしては少し低めの、ー三八度くらいだろうかーぬるま湯が体を包み、筋繊維の一本一本を解して洗われているような気分だ。今日ここまで歩いてきた分も含め、日頃から溜め込んできた疲労が流されていく。
「あっちの大浴場行ってくるわ。」
隣の部屋で寛いでいた晋作が、立ち上がりながらそう告げる。私は黙って右手を挙げてそれに応える。暫くは一人でゆっくりここを堪能したい。
「疲れた。こんなものだろうか。」博文はゆっくり
と両腕を上げて体を伸ばす。背骨から小さく泡が弾
けるような音がする。
今日は午後から18時まで授業があった。12月にな
り、ほんの一瞬の秋は、その気配を感じた頃には居
なくなっていた。時刻は7時半を少し回った所で、外
はすっかり真っ暗だ。少し前まではこの時間でも、
間接照明のような仄かな斜陽があったのだが。
普段なら授業が終われば、山口や熊さんなんかと
雑談を交え、そこそこにして家路に就くのだが、毎
週この日ばかりはそうもいかない。何故なら、この
授業は、当日中にレポートを提出しなければならな
いからだ。コンピューターやインターネットが普及
する前は、こんなことも無かったろうに、それが今
では23時59分の提出期限が横行している。それを可
能にする技術の進歩も考えものだと、博文は不満に
思った。
1時間半前に終えたばかりの授業内容をレポート
にした所で、その中身は軽薄極まるものだ。体裁だ
けを整えた虚木に過ぎないと思うが、こんな面倒な
ことはとっとと片付けるのがよろしいと、ファイル
を添付して送りつける。
「じゃーなー。」
「お疲れー、バイバーイ。」
研究室にはまだ何人かが残っている。博文と同じく
レポートを仕上げている者もいれば、次の発表資料
に追われててんてこ舞いのやつもいる。博文は廊下
を歩きながら、今日の夕飯の献立を考える。今の時
間なら、2割引きか3割引きのシールが貼られている
はずだ。
スーパーに寄ってから家に帰ってきた。玄関の扉
を開けてから、明かりを点ける。今は何時だろうか
と思って、博文はスマホを見る。ホーム画面は8時と
いう時刻に添えて、見慣れないメッセージを表示す
る。
「お疲れ様です。何かトラブルでしょうか?6時から
シフトが入っているのですが。」
一瞬思考が停止する。しかしすぐさまその遅れを取
り返すようにして、同時に様々な考えが頭の中を駆
け巡る。まずはスマホのカレンダーを見る。しか
し、案の定そこには何も書かれていなかった。何か
書いてあれば今朝の内に気づくし、リマインドの通
知も来るはずだ。続けてシフト表を見る。すると確
かに自分の名前の欄に丸が書き込まれている。博文は焦り
から混乱した脳で原因を考える。それと同時に連絡
してきた先輩に返信し、社員の一人にもメッセージ
を送信する。
「お疲れ様です。大変申し訳ございませんでした。今
日は無いと思っていました。」
そう、今日はバイトは無いと思っていたのだ。授業
が6時まであるのだから、6時からのシフトを入れる
訳がないはずなのだ。そう思って、過去に送ったシ
フト希望を探して、愕然とする。今日の日付に出ら
れないと書かれていない。出勤できないことが当然
過ぎて見落としていたのだ。
しかし、既に2時間以上の遅刻だ。5分や10分なら
ともかく、或いは30分であってもすぐさま出勤し
て、謝りもしただろうが、2時間も過ぎれば、勤務時
間はあと半分。もはや今更行くことに何の意味があ
るのだろうかという気もする。そう思うと億劫で仕
方がない。
何とかして今から出勤しなくても済む方法はない
だろうかと思案する。「そうだ、今ここにいないとい
うことにすれば良いんだ。」上手い嘘を吐くには真
実を織り交ぜると良い。元々予定、つまり授業があ
ったことは本当なのだから、別の予定があって、市
内まで出掛けていたことにしようと思い至った。
スマホで電車の運行表を検索する。市内にい
て、今から駅に向かったとして、乗れるのは最速で
も15分後の車両だろう。そこから家まで1時間はか
かる。このあたりが現実的だろうと思う。
先程の返信から間が空いて怪しまれないように、
すぐにメッセージを送る。急いで向かっているが、
到着は22時前になるという内容だった。ここで博文
は急いで向かっている風を装ったが、具体的な手段
は言わなかった。あれこれと付け加えるとボロが出
るだろうし、本当に急いでいて端的な内容しか書く
余裕がないように見せる為だ。すると、「分かりまし
た。今日は出勤しなくても大丈夫です。」という返事
が来た。
詳しい事情は聞かれた時に答えれば良い。それに
もし向こうで調べられたとしても、信憑性のある時
間設定にはしてある。出勤を免れて、今日怒られる
ことも避けられた。次に出勤した時に怒られるかも
しれないが、その時はその時だ。
一旦落ち着いたので、博文は買ってきた食材で夕
飯を作る支度を始める。今日はもうご飯を食べて、
風呂に入って寝ようと心に決めた。
翌日、今日は昼からシフトが入っている。取り敢
えず着いたらすぐに謝ることにしようと考えなが
ら、自転車を漕ぐ。バイト先の居酒屋に着いて、裏
口に回る。そして、意を決してドアを開ける。
「おはようございます。昨日はどうもすみませんでし
た。」
博文は出来うる限りの声量を出す。同時に体を180°
前屈させて謝罪の意を表明する。
「おはよう〜。ちょっとそのままおってや。」
社員たちが博文の来たのを認めて、挨拶を返す。そ
のうちの一人がにやにやと笑いながら、そう言って
奥へと消える。言われた通り暫くそのままでいる
と、突然背に何かが当たった。それは勢いよく全身
に広がり、僅かな温かさを皮膚に伝える。何が起き
たのかを理解した頃には、床に飛沫が散り、辺りが
水浸しになっていた。今しがたどこかへと向かった
彼が戻って来てホースからお湯をかけ始めたのだ。
それを見て周囲の者たちも笑っている。博文は屈辱
を感じながらも、呵責を受けることは仕方がないだ
ろうと考える。
「おい、大丈夫そ?」
晋作に起こされながら咳込んでお湯を吐き出す。全く状況が理解できない。
「ずっと寝とるな〜とは思っとったけど、今見たら沈んでいったけぇびっくりしたわ。」
なるほどそういうことか。いつの間にか眠っていたらしい。その挙げ句に溺れかけたと。
「わりぃ、助かった。ありがと。」
「びっくりした〜。大丈夫そ?」
「お湯飲んだくらいや。」
調子が外れて妙に振動する声で答える。しかし酷い夢を見た。本当に長い間眠っていたのだろう。手の平がふやけて皮膚が白くなっているし、外は西日が傾き始めている。




