桃香の逆襲 〜そのアルマ、ポケットはいくつありますか?〜
じっとりとした空気が肌にまとわりつく、梅雨入り間近の昼下がり。
古びた柱時計の音だけが響く買取専門店「時の蔵」で、僕、コオタはカウンターに置かれた一つのハンドバッグを前に、静かな戦いを繰り広げていた。
ルイ・ヴィトン、アルマ。
その完璧なフォルムは、高額品が苦手な僕にすら、一種の様式美を感じさせる。
だが、その美しさの裏には、鑑定士を惑わす無数の罠が潜んでいることを、僕は経験上知っていた。
「うーん、内ポケットが二つあるな…。比較的新しいモデルと考えていいはずだ。外装も綺麗だし、よし、このくらいの値段で……」
僕は、早くこのプレッシャーから解放されたい一心で、安易な結論に飛びつこうとしていた。その、まさに刹那だった。
「店長!待ってください!」
カウンターの向こうから、まるで法廷での「異議あり!」とでも言うような鋭い声が飛んできた。
振り返ると、アルバイトの桃香ちゃんが、その瞳に鑑定士の鋭い光を宿し、僕の手元を睨みつけている。
その手には、まるで外科医のメスのように、愛用のルーペが握られていた。
「え、あ、いや、だってポケットが二つだから…」
「甘いです、店長!あまりにも甘すぎます!アルマの半世紀以上にわたる歴史を、ポケットの数だけで判断するなんて!アルマに失礼です!」
「う、失礼って言われても……」
「アルマにはですね、『旧型の中の新旧』と『新型の中の新旧』という、世にも複雑な4つのバージョンが存在するんですよ!」
「……何その、ややこしい家系図みたいな呪文は」
僕の呟きを無視し、桃香ちゃんは一気にまくし立てる。
「まず大前提として、ハンドルの付け根にあるビス!これを囲う糸が、ビスの下で終わっていれば旧型、ぐるっと一周するようにステッチされていれば新型です!底鋲とクロシェットが付いていないのも、分かりやすい旧型の特徴ですね!」
そこまで一息に言うと、彼女は僕が見ていたアルマの内側を指さした。
「その上で!店長の言う『ポケットが二つの旧型』は、2000年頃に登場した『旧の新』なんです!さらにややこしいことに、新型の中でも2010年頃に出た『新の旧』は二つのポケットの大きさが違って、2012年以降の『新の新』でようやく同じ大きさになるんです!もう、全部価値が違うんですよ!」
僕の脳は、複雑怪奇なアルマの進化の系統樹を前に、完全に処理能力の限界を超えた。
ぐらりとよろけた僕の耳に、追い打ちをかけるように、どこまでも穏やかな第三者の声が響いた。
「いやはや、定番品ほど細かな変更点が多いからね。作り手のこだわりと、ユーザーの声を反映した結果だろうが、査定する側は骨が折れる」
まるでこの会話が聞こえていたかのような絶妙なタイミングで現れたのは、言うまでもなく、常連の田崎さんだった。
「田崎さん!そうなんです!定番といえば、ネヴァーフルも!ポーチが付いていなくて、内側のロゴが筆記体、ポケット内がビニールなら旧型。ポーチ付きでロゴがゴシック体、ポケット内がキャンバス生地なら新型。ポーチの有無は決定的ですよね!」
「スピーディもそうだね。ハンドルの付け根のステッチと、防犯性を意識してか内ポケットにファスナーが付いたのが新型だ。細かな改良が、ロングセラーの所以なんだろう」
田崎さんと桃香ちゃんが、楽しそうにヴィトンのウンチクでキャッチボールを始める。
僕だけが、その高尚な会話から弾き飛ばされ、孤独に宇宙を漂っている気分だ。
「もう無理だ……見た目が同じなら、もうそれでいいじゃないか……僕には違いが分からない……」
僕が情けなく弱音を吐くと、田崎さんは「ふふふ」と意味ありげに笑った。
「コオタ君、鑑定士が最も陥りやすい罠の一つが、その『見た目が同じ』という思い込みと、型番への過信だよ。一番厄介なのは、見た目が変わっても型番は全部同じ、というモデルだ。例えば、そこのボディバッグ、ジェロニモスだね」
田崎さんが指さしたバッグを見て、僕は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「ジェロニモスは実に3回もモデルチェンジしているのに、型番は不変なんだ。初期型はベルトが外せず、中期型から外せるようになる。新型はファスナーが二つから一つに減り、安全のためにベルト先の金属金具もなくなる。これは人に当たると痛いという声に応えた結果だと言われているね」
田崎さんは続ける。
「おまけに外ポケットのマジックテープは初期型にしかなかったり、内生地の色が朱色→濃い赤→茶色と変遷したりする。これら全てを確認して、初めて正確なモデルが特定できる。もはや探偵の仕事だよ」
「ひぃ……探偵なんて無理……」
「最近のモデルも油断できませんよ!」
と桃-香ちゃんが、僕の心を抉るように続ける。
「オンザゴーのジャイアントモノグラムも、旧型はショルダー部分がモノグラム柄だったのが、新型は黒レザーになって型番も変わりました!リュックのパームスプリングスも、隠しファスナーから普通のファスナーに戻って、やっぱり型番が変わってます!」
僕はもう、カウンターに突っ伏すことしかできなかった。
最後に桃香ちゃんが、筒型のバッグ「パピヨン」を手に取り、慈悲のかけらもなく、とどめを刺してきた。
「パピヨンも奥が深いですよ!ハンドルが茶色なら初期型、ヌメ革なら旧型、長くなってショルダーにできるのが新型です!初期と旧にはお揃いのミニポーチが付きますけど、新型には付かない代わりにパドロックが付くんです!ポーチが付いたり付かなかったり、ややこしいですよね!」
全ての情報が脳内で荒れ狂う嵐のようだ。
面倒だ、苦手だ、という気持ちの奥底で、ちくりと刺すような小さなプライドが痛む。
この店の店長としての、最後の砦のようなものが。
そんな僕の頭を、桃香ちゃんの凛とした言葉が静かに撫でていった。
「大変ですけど、これがお客様の大切な品物に込められた思い出や価値を、私たちが勝手な判断で見誤っちゃいけないっていう、大事な知識なんです。この店を信頼して品物を託してくださるお客様への、私たちの誠意ですから」
そのまっすぐな言葉に、僕はゆっくりと顔を上げた。
二人が、まっすぐな目で見つめている。
そうだ、僕はプロなんだ。逃げてばかりじゃいられない。
僕は目の前のアルマをもう一度見つめ直し、無意識にきつく握りしめていたルーペを、そっと持ち直した。
「……よし、もう一回、最初から見せて。ビスの付け根の、ステッチからだ」
僕の鑑定士としての本当の戦いは、今、始まったばかりなのかもしれない。




