ピコタンは馬のエサ、プリュムは羽、コンスタンスは…?
大阪、夏の陽射しが少しだけ和らぐ午後4時過ぎ。
買取専門店「時の蔵」の店内は、アンティーク時計の穏やかな駆動音に満たされている。
「はぁ……素敵だなぁ、エルメス……」
カウンターに頬杖をつき、スマホの画面に映るオレンジ色の箱にうっとりしているのは、アルバイトの桃香だ。彼女の視線の先には、美しいフォルムのバッグが鎮座している。
「また見てるのか、桃香ちゃん。うちはブランド品より古時計がメインなんだがな」
PCの顧客リストを眺めながら、気だるそうに声をかけたのは店長のコオタだ。
無精髭に眠そうな目。高額品、特にきらびやかなブランド品にはあまり興味がなさそうだ。
「だって店長! エルメスですよ! ピコタンとか一度でいいから持ってみたいです!」
「ピコタンねぇ。昔の『ピコタン』と、今の『ピコタンロック』じゃ、全然価値が違うのは知ってるか?」
「えっ、そうなんですか? サイズはどっちも同じですよね?」
コオタは「やれやれ」
と首を振りながら、面倒くさそうに、しかし的確に説明を始めた。
「バッグの口を閉じるベルトがあるだろ。あれに穴が開いてて、南京錠…カデナが付くのが『ロック』。付かない、ただのベルトなのが昔の『ピコタン』。ただそれだけなんだが…」
「それだけで?」
「ああ。鍵がついて防犯性が上がった、ってことになってな。中古価格も天と地だ。普通のピコタンなら数万から10万円がいいところだが、ピコタンロックは違う。人気のPMやMMサイズなら、一気に50万から80万円になる。逆にGMは少し大きすぎるのか、40万から60万に少し下がるがな。うちもロックなら本部に連絡だ」
「へぇー! 鍵一つでそんなに!」
カラン、とドアベルが鳴り、人の良さそうな初老の男性が入ってきた。
「おや、エルメスの話ですか。賑やかでいいですな」
「あ、田崎さん! こんにちは!」
「どうも、コオタ店長。今日はこの懐中時計を…っと、その前に少しだけ」
常連客の田崎さんは、人の話を聞くのが好きなのか、にこやかにカウンターに近づいた。
「ピコタンロックもいいですが、通好みといえば『プリュム』でしょうな。あのバッグは実にバリエーションが豊かだ」
桃香は待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「プリュム! 私も好きです! でも、エランとかドッグとか、違いがよく分からなくて…」
田崎さんは、まるで自分のコレクションを語るかのように、嬉しそうに話し始めた。
「長方形の基本フォルムが『プリュム』。それをもっと横長にして、よりエレガントにしたのが『プリュムエラン』。そして、あの美しいフォルムのままA4サイズが入るビジネスバッグにしたのが『プリュムドッグ』。面白いのは、中古価格の付き方でしてね」
「価格の付き方、ですか?」
「ええ。プリュムは驚くことに、大きくなるほど安くなる傾向がある。一番小さいプリュム20…ミニプリュムですね、これが50万から90万とダントツの人気なのに、28は30~60万、32は30~50万と下がっていく。不思議でしょう?」
「面白い! プリュムエランはどうなんですか?」
「エランは28サイズが人気で、大体40万から70万。こちらはサイズで大きな違いは出にくいですな。一番複雑なのがプリュムドッグ。生地で価格が全く違う。トワルという布地とのコンビなら15~30万ですが、トゴやフィヨルドといった上質な革になると40~70万まで跳ね上がる。個体差が大きいので、目利きが試されるバッグです」
田崎さんの淀みない解説に、桃香はすっかり引き込まれている。
「田崎さん、詳しすぎます…! じゃあ! じゃあ! 私の一番の憧れ、『コンスタンス』はどうですか!?」
「出たな、お化けバッグ」
コオタがぼそりと呟いた。
「あれはもう、うちみたいな個店じゃ扱いきれん代物だ」
田崎さんはその言葉に微笑みで応え、桃香に向き直った。
「コンスタンスこそ、物語の塊ですな。まず、Ⅰ(ワン)とⅢ(スリー)があるのはご存じで?」
「はい! でも、Ⅱ(ツー)がないって聞いて、不思議だなって…」
「ええ。そしてⅠとⅢの違いは2つ。バッグの内側に仕切りが『ある』のがⅢ、『ない』のがⅠ。そしてもう一つは…」
「背面ポケット! 『ある』のがⅠで、『ない』のがⅢ! エヴリンとは逆で、ポケットがない方が新しいんですよね!」
「お見事。その通りです」
田崎さんは満足そうに頷いた。
「そして中古価格も、まさにプレミア。一番人気の18サイズは160万から240万。24サイズより高くなるんですから、驚きです。新しい刻印の方が数万から数十万高くなるのも、このクラスならではですな」
「はぁ……夢みたい……」
「コンスタンスには素敵な逸話もあってね。デザイナーのカトリーヌ・シャイエが、デザインを完成させた日に生まれた5人目の娘さんの名前を付けたんですよ」
「素敵……!」
「それに、あの大きなHの金具。あれはフラップを開閉する時に『カチッ』という小気味よい音がするように、わざと作られている。こだわりの一つです」
うっとりと目を閉じる桃香。その横から、コオタが冷や水を浴びせるように言った。
「で、桃香ちゃん。その『カチッ』て音がしなかったり、緩かったりしたら、その中古品はどうなるか分かるか?」
「えっ…?」
桃香がキョトンとすると、コオタは店長の顔で静かに言った。
「当然、査定はガタ落ちだ。機能不良だからな。どんなに綺麗でも、修理代と手間を考えたら大幅減額。それが俺たちの仕事だ。夢だけ見てちゃ、足元をすくわれるぞ」
シン、と静まり返る店内。アンティーク時計の音だけが響く。
やがて、田崎さんが「いやはや」と手を叩いた。
「さすがはコオタ店長。目の付け所が違いますな。勉強になりました」
「奥が深いんですね、買取って……」
桃香も神妙な顔で頷いている。
コオたは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「ま、うちはコンスタンスより、そこの田崎さんが持ってきたみたいな、じいさんの古時計を見てる方が性に合ってるんだけどな」
その言葉に、店内にふわりと和やかな笑いが広がった。時の蔵の日常は、今日もまた、少しだけ知識を深めながら過ぎていく。




