サブマリーナのペンシル針は一体何番?
閉店まであとわずかとなり、店内に穏やかな西日が差し込む時間。
アルバイトの桃香が、前回の「サブマリーナの謎」にすっかり魅了されたようで、古い時計雑誌を片手に、コオタ店長に詰め寄っていた。
「店長! もっとアンティーク・サブマリーナのこと、詳しく知りたいです!」
「俺は忙しい。その辺の資料でも読んでろ」
店長がいつものようにあしらっていると、ちょうど閉店の挨拶に訪れた田崎さんが、にこやかに言った。
「おや、良いテーマですね。では、僭越ながら、私が歴史の案内役を務めましょうか。本日のテーマは、『サブマリーナ黎明期・進化の軌跡』です」
こうして、桃香のためだけの、贅沢な歴史講座が始まった。
【第一章:すべては、ここから始まった(1953年〜)】
「物語は1953年、ここから始まります」
田崎さんは、カタログに載っていたRef.6204の写真を指差した。
「これが、記念すべき初代6204サブマリーナです。当時としては画期的な100m防水と、潜水時間を計るための回転ベゼルを搭載していました。そして、桃香さん。この針の形に注目してください」
「本当だ! 今の丸いのが付いたベンツ針じゃなくて、鉛筆みたいにシュッとしてますね!」
「その通り。これは『ペンシル針』と呼ばれています。セカンドモデルのRef.6205も、ほぼ同じデザインでした。ここから、サブマリーナの偉大な歴史が始まったのです」
【第二章:伝説の誕生と、細やかな進化(1956年〜)】
「そして1956年、サブマリーナの歴史、いや、腕時計の歴史に残る、伝説のモデルが誕生します。Ref.6538、通称『ボンド・モデル』です」
「6538のボンド・モデル! あの有名なスパイが着けていた…!」
「ええ。この6538モデルで防水性能は200mへと進化し、リューズも操作しやすいように大きい『デカリューズ』になりました。そして何より、サブマリーナとして初めて、高精度な時計の証である『クロノメーター』規格を取得したのです」
「ただし」
と、今まで黙って聞いていたコオタ店長が口を挟む。
「姉妹機のRef.6536みたいに、同じ型番でもクロノメーター表記があったりなかったり、仕様がまだカッチリ固まっていない。そこがこの時代のアンティークの面白さであり、我々鑑定士泣かせなところでもある」
【第三章:リューズガードの登場と、現代への礎(1950年代後半〜)】
「コオタさんのおっしゃる通り、試行錯誤の時代ですね」
と田崎さんは頷く。
「その後、Ref.5508やRef.5510といった、わずか2年ほどしか作られなかった幻のような希少モデルを経て、ついにサブマリーナの運命を決定づける、大きな進化が訪れます」
田崎さんは、Ref.5512の写真を指差した。
「1959年、リューズガードの登場です」
「あ! このリューズの横の、肩みたいな出っ張りですね!」
「その通り。水中でリューズが何かにぶつかり、時刻がずれたり、水が入ったりするのを防ぐためのものです。この5512のリューズガードの登場によって、サブマリーナは単なる防水時計から、プロフェッショナルのための本格ダイバーズウォッチへと進化し、現在のデザインの基礎が、この時に築かれたのです」
【第四章:ロングセラーの誕生と、アンティークへの入り口】
「そして最後に、今日の入門編としてこのモデルを紹介しましょう」
田崎さんが見せたのは、Ref.5513の写真だった。
「1964年、Ref.5512の弟分のような、少しだけ価格を抑えたモデルとして、このRef.5513が登場しました。これが約25年にもわたって製造された、大ベストセラーとなります。そのため、アンティークの中では比較的流通量も多く、我々がアンティーク・サブマリーナの世界へ足を踏み入れるための、素晴らしい『入門モデル』となっているのです。5513は製造年によって、文字盤のインデックスに金属のフチがあったりなかったり、様々な顔があるのも、コレクター心をくすぐる魅力ですね」
歴史講座が終わり、桃香はすっかり感動していた。
「すごい…! サブマリーナって、ただカッコいいだけじゃなくて、ダイバーズウォッチの進化の歴史そのものなんですね!」
「まあな。だから、俺たちも常に勉強しなきゃ、その価値を語る資格はない」
と、店長が少しだけ素直に言った。
「ええ。歴史を知ることで、目の前の時計がより一層、愛おしく感じられますからね」
と田崎さんは微笑んだ。
その時、桃香が突然、自分の手首を押さえて叫んだ。
「私も、リューズガードが必要です!」
「はあ? 何を言ってるんだ」
と店長が眉をひそめる。
「さっきからスマホの誘惑がすごくて、ついネットショッピングのボタンをポチッと押しそうになるんです! この危険な誤作動を防ぐための5512からある『リューズガード』が、私の右手首に必要なんです!」
その奇想天外な発想に、コオタ店長が心底呆れた顔で一喝する。
「知るか! 5508や5510の時みたいに自分で自分をガードしろ!」
その声を聞きながら、田崎さんはお腹を抱えて笑っていた。




