「時の蔵」とカップ麺クロノグラフ
買取専門店「時の蔵」。
アンティークの柱時計が静かに時を刻むこの店で、店長の僕、コオタは深くため息をついた。
「やれやれ、また面倒なやつが来たもんだ…」
目の前の査定トレーには、時計の王様、ロレックス・デイトナが鎮座している。
その輝きとは裏腹に、僕の心はどんよりと曇っていた。
高額品は好きじゃない。査定も気を使うし、保管も大変なのだ。
「店長!すごいですね、デイトナですよ、デイトナ!かっこいいー!」
ブランド好きのアルバイト、桃香くんが目をキラキラさせながらトレーを覗き込む。
彼女のその無邪気な興奮が、僕には眩しすぎた。
「桃香くん、これ、針が止まってるけど、どうするんだっけ?」
僕がわざとらしく尋ねると、彼女は「えーっと…自動巻きだから振る、とか?」と首を傾げた。
カランコロン、とドアベルが鳴った。
「やあ、こんにちは」
「あ、田崎さん。いらっしゃいませ」
そこに立っていたのは、やけに時計に詳しい常連客の田崎さんだった。
渡りに船とはこのことだ。
「田崎さん、ちょうどよかった。この時計、見てやってくれませんか」
僕がトレーを差し出すと、田崎さんは慣れた手つきでデイトナを手に取った。
「これは自動巻きですが、止まっている場合はまずリューズのロックを外して、こう…手で30~40回ほど巻いてあげるのが作法でしてね」
田崎さんがリューズを上に回すと、止まっていた秒針が滑らかに動き出した。
「うわー!生き返ったみたい!」
と桃香くんが声を上げる。
「田崎さん、この周りの数字って何に使うんですか?」
「これはタキメーターです。例えば、車の走行で1kmをストップウォッチで計ったとします。もし30秒なら、クロノグラフ針が指すタキメーターの数字は120。つまり、その時の平均時速が120km/hだと一目で分かるんです」
「へぇー!」
「作業効率も計れますよ。ある作業が30秒で終われば、その作業は1時間に120回できる、という計算です」
桃香くんが感心しきっていると、田崎さんはさらに続けた。
「ちなみに、このモデルはフライバッククロノグラフではないですが、フライバックというのは計測中にリセットボタンを押すと、針が瞬時にゼロに戻って、そのまま次の計測を始める機能のことです。連続したラップタイムを計る時に便利なんですよ」
「なるほどぉ…」
「あと、クロノグラフは短い時間のオン・オフを繰り返すと故障の原因になるので、動作確認でも最低15秒は動かしてあげてくださいね」
田崎さんの淀みない説明に、僕は内心(もはや店員より詳しいな…)と感心していた。すると、田崎さんがルーペを覗き込み、ふっと呟いた。
「おや…これはP番ですね。2000年頃の個体だ」
「P番…?何か違うんですか?」と桃香くん。
「ええ。この頃のデイトナは、ゼニス社の名機『エルプリメロ』をベースにしたムーブメントを搭載しているんです。今では作られていないので、レア個体として価値が上がるんですよ」
その言葉に、僕の耳がピクリと動く。
「見分けるポイントはいくつかあります。例えば、この16520はインデックスが細く、スモールセコンドの輪が白い。現行に近い116520はインデックスが太く、輪がシルバーです。秒針の位置も違いますね」
田崎さんは時計を裏返し、バックルを指差した。
「クラスプも面白い。これは中板に『ROLEX』の刻印があるタイプ。後の116520の初期型では一度この刻印が消えるんですが、新しいモデルではまた復活して、ブレスの長さを微調整できるイージーリンクが追加されるんです。この変遷で、作られた時代背景が想像できるんですよ」
「はぁ〜、奥が深い…」
桃香くんがうっとりとデイトナを眺めている。
彼女の純粋な憧れの眼差しを見て、僕も少しだけ、この時計が持つ物語に興味が湧いてきた。
ひとしきり堪能した後、桃香くんが最高の質問を投げかけた。
「田崎さんは、このデイトナで一体どんなすごいタイムを計るんですか?もしかして、F1レースとか?」
田崎さんは優しく微笑み、すっと人差し指を立てた。
「いや、カップ麺の」
「「カップ麺!?」」
僕と桃香くんの声が、静かな店内にきれいにハモった。
「ええ。きっかり3分で食べたいじゃないですか。このクロノグラフなら、1秒の狂いもなく、最高の状態で麺をすすることができる。これ以上の贅沢はありませんよ」
やれやれ。僕はこの日の日報に、こう書くことに決めた。
『世界で最も贅沢な、カップ麺タイマーが入荷した』と。




