桃香とサンローラン 〜YとYSLの違い、わかりますか?〜
週明けの月曜日、午前9時半。
「時の蔵」の一週間は、週末に持ち込まれた品々の整理から始まるのが常だ。
「はぁ〜、やっぱり素敵…。YとSとL、この3つの文字が重なり合うバランスが絶妙で、強さとエレガンスが同居してる感じがするんですよね…」
開店準備に追われる中、アルバイトの桃香が、スマホの画面を眺めながらうっとりとため息をついている。新作チェックという名の「市場調査」らしいが、その目は完全に一人のファンのものだ。
「YSL、YSLって、そればかりがサンローランじゃないぞ」
モップをかける手を止め、俺、コオタは呆れたように言って、バックヤードから一つの小ぶりなハンドバッグを取り出してきた。
その中央で静かに輝いていたのは、重なり合った華麗なロゴではなく、すっきりと潔い、一文字だけの「Y」の金具だった。
「えっ!本当だ! Yだけだと、全然印象が違いますね! なんだかすごくモダンで、これはこれでめちゃくちゃ素敵です!」
「だろうな。お前が生まれるより前の話かもしれんが」
俺が軽口を叩いていると、カラン、と開店準備中の札を揺らしてドアが開き、田崎さんが涼やかな顔で入ってきた。
「おはようございます。おや、朝からサンローラン談義ですか。これはまた、懐かしいYラインですね」
田崎さんは、俺が持つバッグを一瞥して、目を細めた。
「それは、エディ・スリマンがデザイナーに就任する前の、ステファノ・ピラーティ時代を象徴するデザインです。この潔い『Y』一文字の金具に、当時のミニマルで知的な空気感がよく表れています」
「じゃあ、この私が大好きな、重なってるロゴは一体…?」
と桃香がスマホの画面を見せる。
「そちらこそが、皆さんがよくご存知のYSLモノグラム。またの名をカサンドラロゴと言います。1961年に、20世紀を代表するグラフィックデザイナー、アドルフ・ムーロン・カッサンドルによってデザインされた、非常に歴史の深いロゴマークなのです。彼が手掛けたからこそ、単なる記号ではない、時代を超えた芸術性を持っているのですね」
「カサンドラ…! 人の名前だったんだ…! 知らなかったー!」
「まあ、大きく分ければ、そのロゴが金具か、プリントか、という違いもあるな」
俺は、店の棚にあったキャンバス地のポーチを指差した。
YSLの文字が、生地全体にびっしりとプリントされている。
「あっ、本当ですね! こっちはキラキラした金具じゃなくて、生地のデザインの一部になってる!」
「その通りです」
と田崎さんが頷く。
「金属の塊であるロゴ金具で、立体的かつ権威的にロゴを表現しているYSLモノグラムのバッグに対し、こちらのモノグラムキャンバスは、生地に直接プリントすることで、よりカジュアルで軽快な印象を与えます。同じロゴでも、表現方法を変えることで、フォーマルにもカジュアルにも対応する。それがブランドの懐の深さですね」
「そういえば!」
と桃香が思い出したように言った。
「キャンバス地のトートバッグで、YSLのロゴが大きくドン!とデザインされているのもありますよね? あれも可愛い!」
「ああ、あれか。カハラだな」
俺が店の隅にあるトートバッグを指差すと、田崎さんが補足してくれた。
「カハラは、特にトートバッグで人気のラインですね。ハワイのリゾート地の名から取られたという説もあり、その名の通り、リラックスした休日にぴったりのバッグです。丈夫なキャンバス地に、大きく大胆にロゴを配することで、普段使いしやすい親しみやすさと、一目でサンローランとわかるブランドの主張を、見事に両立させています」
「週末に持って、ピクニックとか行きたいですね!」
と桃香が夢見るような顔をする。
一通りの解説を聞き、桃香は深く頷いた。
「なるほどー! サンローランのラインって、一見シンプルに見えるけど、デザイナーの交代や時代の空気で、ちゃんと意味があって変化してるんですね! Yか、YSLか。そして、それが金具か、プリントか。基本の軸はこれだけ覚えれば、大丈夫そう!」
その自信満々の言葉に、俺は釘を刺すのを忘れなかった。
「それはあくまで基本の“き”だ。油断するな。だが、まあ、そこをきちんと理解してれば、大きく間違うことはないだろう」
ほんの少しだけ、ほんの少しだけだが、俺の口元が緩んだのを、こいつらは気づいただろうか。
「シンプルだからこそ、奥が深い。書体一つ、金具の仕上げ一つに、その時代の精神が宿っている。それがサンローランというブランドの、抗えない魅力かもしれませんね」
田崎さんの言葉が、蒸し暑い月曜の朝の空気に、一筋の涼やかな風を通したようだった。
「よし!」
と桃香がポンと拳を握った。
「私のダイエット計画も、もっとシンプルに考えます! 『食事制限』と『運動』っていう二大原則はシンプルだけど、その中に『糖質制限』とか『有酸素運動』とか『筋トレ』とか色々なメソッドがあって、まるでサンローランのロゴみたいに奥が深いんです! でも、まずはこの二大原則を徹底します!」
「ごちゃごちゃ言ってないで、まずどっちか一つでも毎日やれ」
俺の的確すぎるツッコミが、新しい一週間の、始まりを告げる朝のチャイムのように「時の蔵」に響き渡った。




